12:大魔術師
「久しぶりだな、リディヴィーヌ」
こちらに向かって歩み寄ってくるその影に、オレは片手を上げて応えた。
「変わりないようで安心しました。ベルトラン」
「……皮肉にしか聞こえないな」
赤竜の残骸を横目に、悠然と近付いてくる魔術師を見上げた。
夜に溶け込む漆黒の髪、装飾を限りなく減らした質素な黒の外套、そして、翡翠色の瞳がそこにあった。
大魔術師、リディヴィーヌ。
齢はとうに五十を過ぎているはずの女だが、その気品ある佇まいには不思議と老いというものを感じさせない。目元に浮かぶ皺も、微笑みによって刻まれる深い線も、歳月の積み重ねのもとでより優雅さを際立たせているようだった。
だが、そんな外見の気品も優雅さも些末に思わせるほどに、この魔術師には近寄りがたい超然とした雰囲気があった。
本能に生きる獣ならば一目に逃げ出す程度に滲み出た『強者』としての存在感は、我が師ながら、未だ恐ろしい以外の感想が湧いてこない。
(まあ、オレがガキだった頃のリディヴィーヌはもっと恐ろしかったが……)
過去の師弟関係による苦々しい経験を思い出し、戦々恐々としているオレを見て訝しみながら、リディヴィーヌはそのままフェリスの方を振り向いた。
オレの膝元で血塗れのまま倒れているフェリスを見て、その表情が厳しくなる。
「この少女は……」
「ああ、これは気絶しているだけだから安心してくれ。呼吸はしてるし、見た目が赤黒いのはただの返り血だ」
「そうでしたか、よかった。では、あなたがこの娘を守ったのですね」
「オレはアンタの弟子だからな。リディヴィーヌの弟子となるものは須く、人命を最優先とする道徳者であるべき、だろ?」
「…………」
いつもならば、その道徳性の旨を肯定するなり、または説教染みた言葉が返ってきたりとするはずだったが、珍しく、リディヴィーヌは押し黙っていた。
オレは視線を横に逸らして、赤竜の骸を指差す。
「あの魔獣の〈竜鱗〉をどうやって突破したんだ? あれは生半可な武器も魔術も通用しない、魔獣の中でも最上位と畏れられた赤竜の特性のはずだが」
「……通用したということは、“花刃の魔術”は生半可なものではなかった、ということでしょう」
「はは、なるほど、やはりアンタには敵わないな」
かつて、その魔術を以って大陸の極まる混迷に歯止めを掛けて、『千花の国』を『鋼花の国』へと改名させるほどの影響力を与えた大魔術師の言には凄まじい説得力があった。
そうして今や、“花刃の魔術”は鋼花の国の象徴となっている。
オレは肩をすくめつつ、フェリスを背負ってゆっくりと立ち上がった。
「ところで、どうして大魔術師のアンタがここにいる? 今は不在と聞いていたが、偶然にしては不思議な状況だな」
「…………」
またしても、沈黙するリディヴィーヌ。
どうした――そう聞こうとして、今度はオレが黙る番となった。
眼前に佇む師の、その表情には見覚えがあった。
(…………)
あの日。リディヴィーヌに会った最初の日の、酷く暗い……荒野の中心。
あれから、時の流れによってその顔にはいくつも高年の証を刻んでいるものの、しかし、翡翠色の双眸に映るその感情だけは記憶と変わってはいない。
この師匠がそんな表情をする時は、決まって――
「――リディヴィーヌ様、“雨降らし”の準備が整いましたよ」
赤竜の骸の背後に続く道の先、夜空に滲むほどの炎の光に包まれた空間から男が一人、こっちに歩いて来た。
枯れ草色の髪をした男……いや、青年と言ったほうが正しいか。
新たに現れたのは、リディヴィーヌの五番弟子、オレの弟弟子である――ミリオール・へイスティだった。
こっちは師匠と違い、黒法衣に装飾品の類……主に呪術に関するものを多く身に付けており、片手には四角い箱型の手提げ鞄を持っていた。
自由に跳ねた癖っ毛の髪と、柔和な笑みが印象的な青年だが、得意とする魔術はその穏やかな印象とは程遠く、似つかわしくないものだ。
ミリオールはいつもの落ち着き払った物腰でリディヴィーヌのやや後ろに控えて、前方に立つオレと視線を合わせる。
「おや、ベルトラン。君が魔獣討伐をするなんて珍しいね」
「まあな」
一応、オレはこいつより年上であり兄弟子という立場のはずだが、この青年はまるで友達と接するかのような気さくな態度で話しかけてくる。
敬うということを知らないのか? と疑問に思うことは何度もあるが、そも、リディヴィーヌの弟子は全員、こんな奴らしかいないから今更だった。
「ご苦労さまです、ミリオール。では……“雨降らし”を始めましょう」
そう言って、リディヴィーヌは空に向けて右手を差し出した。
「〈慈雨よ、降り注げ〉」
リディヴィーヌが明瞭に唱えた途端、その手の先からパッと、青白の光輝が小波のように周囲を駆け巡った。
光は木々の隙間から見える遥か先まで波及して、あっという間にセンピオール蒼林の一帯を包み込んでいく。
そして、数秒が経ち、
「……手軽な消火活動だな」
ぽつぽつと、水滴が頭上を滴り落ちて――やがて、地面を一様に濡らす雨へと変化した。
立ち木の近くにいるオレとフェリスは突然の降水にも濡れずに済んでいたが、前方に佇むリディヴィーヌとミリオールの二人は全身を雨の下に晒していた。
ミリオールの方は黒法衣の後ろの首元に付けられた覆いを被り、リディヴィーヌはというと、いつの間にか手に持っていた黒色の傘を開いて雨を凌いでいた。
次第に強まっていく雨音が、さっきまでここにあった静寂の名残を吸い込んで、オレたちの間を絶え間なく降りしきる。
それでも、かろうじて声の届く距離にいる己の師に向かって、オレは問う。
「なあ、そろそろ教えてくれていいんじゃないか? ……誰が裏切った?」
「…………」
さっきの質問の続きを通り越して、オレは核心の部分を尋ねることにした。
「アンタの態度を見るに、〈禁忌〉が破られたのは明白だ。問題は誰が裏切ったか、だ。普段なら一々気に掛ける興味もないが、今回の件はどうやら、それなりの魔術師がやらかしたみたいだからな」
二人の横合いにある、今度こそ完全に沈黙した巨大な魔獣をちらりと見る。
〈禁忌〉とは、初代の“三大魔術師”によって創られた魔術師の掟のことだ。
錬金術の国エンピレオが大陸を征服していた時代から、月日が過ぎても続く民衆の魔術師に対する不信感への対処として、魔術師たちは自らを律し戒めるという形で――その身の潔白を証明し続けることを選んだ。
当事は民衆からの冷遇や迫害に対してそうせざるを得なかったらしいが、現在においても、魔術師には十を超える規律は存在する。もっとも、それらが全て遵守されているかどうかは不正確なものだが。ただし――
(ただし、一つだけ絶対に破ってはならない〈禁忌〉がある)
それを破った魔術師には……同じく魔術師が処罰しなければならない規律もまた、存在する。
「先に言っておくけど、赤竜の死骸が動き出したのは僕の魔術じゃないからね?」
オレの視線を追って振り向いたミリオールが、微苦笑しながら言った。
「ああ、知ってる。お前の“死霊術”はあんな雑な動きをしないからな」
大穴で対峙した、あの信奉者の男が赤竜を復活させたのは間違いないだろう。
だが、あの男が一人でこれほどの事を起こせるとは思えない。信奉者の仲間がいるとして、それこそがおそらく……魔術師だ。
死した魔獣を操り、魔女の信奉者に組することを選択した裏切り者。
(…………)
ふと、脳裏に浮かんだ魔術師の名を――オレはその正否を確かめるために、リディヴィーヌに視線を送った。
空はとうに暗くなり、月明かりさえ覗かない森の中を、魔術によって降り出した雨に打たれながら……リディヴィーヌが答える。
「フォルトゥナが――裏切りました」
「……フォルトゥナ、か」
告げられたその名前を聞いて、オレは……驚くことはなかった。
――フォルトゥナ・パルーフェ。リディヴィーヌの三番弟子であり、敬虔にして善良なマナ教の信徒であったはずの、男。
得手とする魔術は、“意識掌握”。
「…………」
大陸に無数といる魔術師の中で、あろうことか身内から現れた謀反者の報告は、滅多に穏健な物腰を崩さぬミリオールさえ、瞳の内に剣呑な光を宿すほどだった。
リディヴィーヌは一呼吸置いて、厳かに、その宣告を言い放つ。
「〈禁忌と制裁〉の規律に従い、魔術師の誇りに懸けて、〈禁忌〉を犯した重罪人フォルトゥナを――処罰します」
絶対に破ってはいけない〈禁忌〉――『戦乱を生み、戦乱に投じ、不純なる殺生に身を穢してはならない』――という規律を破った同胞に向けて、絶対の追討が宣告された。
遠い過去、大陸を支配していた覇者を打ち倒し、二度目の戦乱を呼び起こした魔女を葬って、ようやく訪れた太平の世に……再び、動き出そうとしている闘争の気配。
感じていた予感はとうにオレの背を追い越して――すでに現実のものとなっていた。
「…………」
降り続く雨音に忌々しい記憶を呼び起こされまいと、背負ったフェリスの寝息に耳を澄ませる。
漆黒に塗り潰された空を、オレは睨むように見上げた。




