11:《赤竜》
まるで、要塞が鋼の手足を持って動き出しているかのような、普通では言い表せない迫力があった。
燃え広がる炎が闇を貫き、辺り一帯が煌々と照らし出された森の中、揺れ動く光の中心にあったのは――恐ろしき赤竜の巨体だ。
小屋一つ踏み潰してしまえるほどの四肢と、岩を軽々と砕きそうな大爪。
今は折り畳まれた翼や、轟音を立てて引きずる尾、鱗に覆われた胴体、顎、角、そして瞳の輝きさえも――全てが紅蓮の炎を宿しているかのように、鮮やかな赤色を帯びていた。
暗闇に浮かぶ赤き眼光が見据える先は、鋼花の国の王都、そこに住まう何千何万という規模の人間……その命の群れ。
一歩、また一歩と歩みを進める度に空気が揺れ動き、通り過ぎる地面には深い足跡が刻み付けられていた。
こんなデカブツの前にのうのうと姿を晒そうものならば、一瞬の内に頭からつま先までを垂直に圧縮されて、巨大な足跡とともに土に還ることになるのは一目瞭然だった。
そして――
「――――」
王都までの経路を切り開いて整備された道の先、常識の尺度を超えた歩幅で前進する異形の主を見上げて、フェリスが絶句した。
時おり立ち止まり、無詠唱による炎の魔術によって周囲の森林を燃やすことに時間を食っているおかげで、オレたち二人は赤竜よりも先回りして移動することができた……が。
目の錯覚を疑いそうなほどの大きさと、その威圧感に、見ればフェリスの身体は完全に竦み上がっている状態だった。まあ、無理もない話だが。
「あんなの、と……戦えるんですか……?」
今もなお、こちらに迫り来る赤竜の巨体から視線を外せない様子でフェリスが言った。
「戦えるかどうかはこれから分かる。……そろそろこっちまでやってくるぞ。どうやら、あいつはオレたち小数の命に構うよりも、もっと大きな被害をもたらせる共同体の方に興味があるらしい」
前進する先にオレたちがいることに気付いていないのか、はたまた、全く眼中にないのか――赤竜は先ほど村を襲ってきた時と違って、魔術による炎の息吹を放ってくることはなかった。
ただ王都に向かって進みながら、周辺を燃やす……魔獣の行動原理については今までも不可解に思うところはあったが、四大禁獣と呼ばれる魔獣四種に関していえば、ほとんどが解明されていない。分かっている共通点は、人間を滅ぼすために行動することと、その被害が甚大ではないということだけだ。
そして、何よりも厄介なのが――
「フェリス、まずは冷静になって今から言うことを聞いてくれ」
「は、はい……!」
「あいつには魔術も、生半可な武器による攻撃も通用しない」
「…………、………………え、えっ!?」
こいつは一体、何を言ってるんだ――そう物語った表情でオレを正視するフェリス。
「見てろ――〈遅延〉!」
詠唱に伴って青白い光の文字群が浮かび上がり、それは視線の先にある巨獣を捉えて――動きを緩慢にさせるはずだった。
一瞬の燐光とともに、わずかなぎこちなさを見せるも――しかし、赤竜は何事もなく前進を続けた。
〈魔術逸らし〉に似て、〈魔術逸らし〉よりも厄介な特性。
「あっ……」
フェリスが息を呑む。
「おそらく、どんな魔術をぶつけようとこうなる。あの赤い鱗――名の通りの〈竜鱗〉が、攻撃性を持ったあらゆる魔術を弾き、その鉄壁の硬さでどんな武器も鱗の下を通さない。最凶と呼ばれる所以だ」
単純な脅威である巨体に加えて、魔術による火炎の息吹と〈竜鱗〉の攻守一体を兼ね備えた魔獣。
現時点ではまだ、こちらを歯牙にも掛けない様子で威風堂々と王都に向かっているが、ひとたび本性を剥き出しにした赤竜の猛攻は、想像を絶する破壊と蹂躙をもたらす――と、当事より残された書物にそう強調して記されていたことを思い出す。
腹立たしいことに、当事の人間がどうやって赤竜を討ち倒したのかという重要なことについては詳しく書かれていなかったので、オレはその書物を読み終えてすぐに売り払ったのだが。
「そんな、じゃあ、どうやって倒すんですか?」
赤竜と距離を取るために半ば逃げるように移動しつつ、思い詰めた声で問うフェリス。
オレはそんなフェリスに見せるように、懐から取り出した魔封具を上に掲げる。背後で燃ゆる森の光を反射して、結晶体が輝きを放った。
「こいつを使う。センピオール蒼林に向かう前、オレが話した内容を覚えてるか?」
「……? それって――」
逡巡するも束の間、すぐにオレの意図を察したフェリスがこちらを振り向いて――その表情を三度、強張らせた。
驚愕に見開かれたその目に、オレも釣られて背後を振り返る。
進み続けていた赤竜の動きに、異変が起きていた。
「まずい――翼を広げるつもりだぞ」
赤竜の背中から伸びて今は折り畳まれていた大きな翼の骨格が、ゆっくりと外側に持ち上がろうとしていた。
長い首を左右に揺らしながら、自身の肉体の変化を慣らしていくように小刻みに震え出す。
「もう飛翔する気か――」
保障などなかったにしても、想像より早い翼の解放に思わず狼狽える。
この展開は非常に危険だ。書物なんかの知識を持たずとも理解できる、空を御した竜がいかに厄介極まりなく、いかに勝ち目のない相手と成り得るかを。
今の状態ですら難攻不落に程近いというのに、機動力さえも思うがままとなったそれを攻略できる自信はさすがのオレにもない。王都の陥落など、火を見るより明らかだ。
故に、そうなる前に――手を打たねばならない。
「フェリス、あいつの首の近くにある、逆さに生えた〈竜鱗〉を狙え」
「え、さ、逆さの〈竜鱗〉ですかっ、そんなものどこに…………あ!」
フェリスの彷徨っていた視線が、一箇所に固定される。それは赤竜の顎の下、普通の人間では目を凝らしても分からないほどに小さな鱗が一つだけ、上に向かって伸びていた。
「あれが弱点らしい、こっちに注意を向ける――いや、殺意を向けたいから、あの鱗を狙ってくれ」
「っ、分かり、ました……!」
諸々の疑問を飲み込むようにぎこちない返事をしつつ、されど、フェリスは覚悟を決めた目で、素早く弓を構えた。
瞬間、黒の手袋に包まれた右手の甲が光り、番える動作に合わせてその指の先に矢が出現する。これもまた、メリザンシヤの魔術によって作られた戦術だろう。矢の補充の手間を省き、即座の射撃を可能とする最適化された動きは、握った道具と一体となっている錯覚さえ感じるほどに洗練されていた。
今や数秒前の躊躇いなどどこにも見当たらない、弓兵にして狩人の眼光が――赤竜の鱗に一矢を放つ。
しかし、
「……! 当たりません、首が、さっきから左右に揺れていて……!」
放たれた矢は風を切り、見上げた竜の首辺りに向かってまっすぐに飛んでいった。……だが、当たったのはほんのわずかに逸れた左の鱗で、パン、という音とともに矢は弾かれていた。
フェリスの言う通り、赤竜は翼の調子に身を馴染ませるためなのか、先ほどから繰り返して首を振る動作を続けていた。
ただでさえ極小の的と言っても過言ではない狙いが、左右の動きが加わることによって、さらに射抜く難度を数倍も難しくさせていた。
すかさず、支援に入るために声を上げる。
「フェリス、オレが遅延魔術で動きを……一秒、いや二秒稼ぐ、その隙に当てろ!」
「でも魔術は効かないはずじゃ――」
「さっきの反応を見て確信した、こいつはほんの一瞬だけ遅延状態を通す!」
赤竜の〈竜鱗〉が魔術そのものを阻害し、肉体を通さずに弾いて反発させるのか、はたまた、何らかの耐性を得て魔術に順応する仕組みが存在するのは定かではない。だが、〈竜鱗〉にはその裏をかける明白な要素があった。
それは“攻撃性”をもった魔術を区別して弾くという点だ。
どのような働きをもって区別がされているかは試さねば分からないが、それでも、〈竜鱗〉が魔術を弾く一瞬にそんな処理と経過が挟まっているならば――
(一部の〈竜鱗〉の過誤によって、微少ながらも遅延魔術が見逃されている――その可能性に掛けるしかないな)
たとえそれが違うにせよ、なんにせよ、実際にやってみればいいだけの話だ。考える猶予はもうない。
オレは赤竜の前進に合わせて動きつつ、頃合いを見て射撃を続けるフェリスに指示を出す。
「いいか、あいつの逆さの〈竜鱗〉に矢を当てたら、オレは機を見て魔封具を投げる……次に合図が聞こえたら、その時は全力で魔封具を射抜け!」
「はいっ……!」
フェリスが短く応える。
オレは前傾して走っていた足を止めて、くるりと身を翻した。
今日だけで何度唱えたであろう詠唱を皮切りに、オレは竜を睨み据えた。
たった一瞬の隙を作るためだけに、持てる遅延魔術の全てを以って。
「――――〈遅延〉、〈遅延の泡〉、〈遅延の沼〉!」
青白の光が空間を瞬き、時間の概念を覆す奇跡が周囲一帯を包み込むように展開した。
それは幻想の泡となり赤竜の四肢を捕らえて、それは幻想の沼となって巨大な足を沈めんと絡め取る。
四方八方の遅延魔術が対象の総身に接触し、幾度も効果を発現させようと空間をずらりと連なって――微かながらに、赤竜の動きを鈍らせた。
(……いける)
些細な変化だった。前を進む赤竜の動作の刹那、その一つ一つの速度に生じた小さなズレ。違和感を覚える程度のそれは、しかし、単なる挙動の乱れではない。
微少のズレであっても変化は変化だ。明確に時間を操作し、対象の動きを緩慢にさせている証左に他ならない。
ならば――
「――――〈遅延の檻〉!!」
押し通すように、全ての遅延魔術を現実に重ね合わせて――
青白い残光が空間を掌握する、その一瞬。
「はっ!」
フェリスの裂帛の気合が響いた。
引き絞られた弓が、甲を閃かせる黒手の指が、遥か頭上の狙いに向かってまっすぐと――その一矢を迸らせた。
空気の弾かれる音と同時、フェリスの照準は違えることなく――赤竜の顎の下、逆さの〈竜鱗〉の中心に矢じりを突き刺したのだ。
今度こそ、確実な狙撃である。
「……!!」
魔術が解除された途端、空間に広がっていた青白い光が消失する。
その場に残されたのは……一本の矢に撃たれた竜と、人間が二人。
それが意味するところは、つまり。
「来るぞっ」
どんっ、と踏み込んだ赤竜の足が動きを止めた。
数秒前まで振り動かれていた長首の揺れが、王都だけを向いていた赤き双眸が――がくがくと震え出す。
次の瞬間、
ぐおおおおおおおおおおおお……――!!
狂ったような咆哮が、足元をうろつくオレたちを吹き飛ばす勢いで周囲を震撼させた。
人間一人など軽々と飲み込んでしまえる大きな口をかっ開き、剣すら凌駕する鋭さの牙を剥き出しにしながら、赤竜はオレたちを睥睨した。
取り巻く感情は、もはや怒りと呼べるほど生温いものではない。殺意だ。
逆さの鱗を狙われて激昂した赤竜の長首が、魔術の炎に費やす暇さえ惜しむように、弧を描きながら――地面に立つオレたちに向かって雪崩れ落ちる!
「ッ、そら――〈飛躍〉、起動!!」
奔流のごとき赤竜の大口がオレたちを喰らうその前に、オレは示し合わせた通り、魔封具を宙に投げ飛ばす。
命令を受け取った魔封具はすぐさま、虚空の渦をオレたちと赤竜の空隙にゆらりと押し広げた。
それは間一髪、赤竜の渾身にして全力の喰らい付きがオレたちを噛み砕くより先に――虚空の中へ赤竜の頭部を潜り込ませることに成功する。
勢いのままに首の半ばまで突っ込む赤竜と、虚空の渦を広げる魔封具を見据えて、叫ぶ。
「今だ、フェリス――撃ち抜け!!」
オレの合図とともに、二撃目に構えていたフェリスの弓矢が一直線に飛んだ。
軌道の先には、虚空の中央、魔封具の結晶体が位置する要所。
そこに向かって狙い澄まされた矢が――突き刺さる。
直後、
「――!!」
キィンッ!! という金属の甲高い悲鳴が響き渡った。
今更、それが何の音なのかは考えを巡らせるまでもない。
即ち――魔封具が破壊された音だ。
「ぐっ……!!」
鼓膜をつんざくような音とともに、今度は、視界を覆いつくす強烈な閃光が走った。
夜の帳が下りた一帯と、瞼の裏を真っ白に染め上げるほどの光の波に、隣にいたフェリスが呻きを上げる。
魔封具が破壊されたことで引き起こされた諸々の現象が数秒ほど続き……ようやく視界が元に戻った、その時。
――頭上から、大量の血の雨が降り注いだ。
「ふひゃあっ!!」
もろにその赤い飛沫を被ったフェリスが絶叫する。
見上げると、そこにあったのは……肉と骨を鮮血に濡らしながら、一切の動きを止めた、赤竜の長首の断面だった。
繋がっていたはずの頭部は、なかった。
魔封具の破壊に伴い、虚空の渦が消えたことで、頭と首をあちらとこちらで切断……もとい分割したということだろう。
血溜まりを作る地面の上に、フェリスがへたり込む。
「やっ……た……?」
呆然とした口調で、オレと同じく赤竜の断面を見上げる。
搾り出された果汁のように止め処なく滴る赤い生命の動力と、微動だにしない巨体のその様を確認するに……
「……はあ、終わったか」
オレは今日一番の、深いため息を吐いた。
「本当に……倒した……」
「…………」
終わってみれば、案外、簡単な敵だったな――などと冗談を言う気力はあまりなかった。手は動かさないが口は他者を冷やかすために動かすを理念に生きるオレにしては、面倒の方が勝る珍しい相手だった。
周囲を見渡せば、夕暮れを過ぎた宵闇がセンピオール蒼林全体を包み込んでいた。夜になったからこそ、赤竜の亡骸の後ろで煌々と輝く炎の光が一際、存在感を放っていた。
(消火活動はさぞ骨が折れることだろうな)
そんなことを眺めながら考えていると、フェリスが下からゆっくりとこちらを振り向く。
「あの……ベルトランさんは、どうしてこの竜の弱点を知っていたんですか?」
「当時、四大禁獣の中でも赤竜は特に凶悪だったらしいからな。記録は割かし残されているんだが……まあ、最近は存在すら知らない冒険者が増えてるから、お前が知らないのも無理はない」
オレとしても、今日だけで二度も魔術の通用しない相手に遭遇したのは驚いていた。その片方がまさかの赤竜なのだから、つくづく運のない一日だった。
「……ベルトランさんって、いくつなんですか?」
「はは、この完璧な容姿が答えだ」
オレは汚れた黒法衣を払いながら、そう答える。
「う、うーん……?」
フェリスは釈然としないといった様子で小さく唸るも、次には、はっとした表情で背筋を伸ばした。
血溜まりの上で手を付きながら立ち上がり、もはや気にする状態でもないのか、鮮血に塗れた手で自身の頭を抱え出す。
「あぁ……ベルトランさん、まずいです……」
うわ言のように呟くフェリス。
頭の天辺から赤竜の血を被っただけあって真っ赤に染まっているその顔が、それでも蒼白になっていると分かるほどの絶望の表情だった。
「安心しろ、言わんとしていることは察してる」
「ほ、……本当ですか?」
「ああ、察してる。察することしかできないが」
フェリスの絶望の正体は、おそらく――魔封具のことだろう。
本来、このフェリスが魔獣討伐に同行した理由は『魔封具が壊されないか監視する』という、至極単純な任務のためのはずだった。
だが、その肝心の魔封具は……ついさっき、目の前の魔獣を倒すための犠牲となった。
「…………」
メリザンシヤの氷のように冷たい視線を思い出す。
あの女が他者に向かって怒鳴っている様を見たことはない。敵対者と相対、ひいてはそれに準ずる相手と向かい合う時、あの女はただひたすらに冷酷な視線を向け続けるのだ。
それは自分の部下や同僚が過ちを犯した場合でも同様だった。あの目で見つめ続けられると、オレですら、どうにも胃が痛くなる感覚に襲われてしまう。
「まあ、ひたすら謝れば、命くらいは許されるんじゃないか?」
「ええ!! 私の責任なんですか!?」
「任務を失敗したのはお前だろ?」
「魔封具を壊したのはベルトランさんじゃ……いや、あれ、私なのかな?」
さらに混乱した様子で目を回すフェリス。
「悔やんでも仕方ない。今は面倒事を解決できたことを素直に喜び、さっさと帰ることにしよう」
「……うぅ、はい。そういえば、歩いて帰らないといけないんでしたね」
「魔封具がないからな。深夜になる前に、とりあえずは川を目指すとするか。お前の身体に纏わり付いた血生臭さを何とかしたいところだな」
そう言って、オレは王都の方角に向き直る。
脳内である程度のみ把握している地図を思い起こし、川の流れていそうな地点を予想して――
「……………………?」
微かな揺れが、足の裏を伝った。
炎の光が差して形作られた木々の影の中を、不意に、大きな影がぬるりと持ち上がって――
「……!! フェリス!!」
咄嗟に振り返り、オレは魔術を唱えるよりも先に身体を動かした。
「え?」
背後にある巨大な影がオレたちの頭上を覆う寸前、落下の直撃を避けるために、オレはフェリスを押し飛ばす形で飛び付いた。
そして、ついさっきまで立っていたその場所を――赤竜の巨大な足が踏み落とされた。
「ぐっ……!」
直後、凄まじい衝撃が背後を吹き荒れて、オレとフェリスは為す術もなく弾き飛ばされる。
抱えていたフェリスとともに、二転、三転と地面を跳ねながら、木の幹に背中を打ち付けて――ようやく勢いが止まる。
明滅する視界の中、オレは休む暇さえないことを察して顔を上げた。
(どういうことだ……なんでまだ、動いて――)
舞い上がった土埃が次第に落ち着き……その場に浮かぶ上がったのは、やはり、赤竜の巨体だった。
頭のない竜の、異常にして異形の輪郭が、数分前と同じように……動き出していたのだ。
(あり得ない、そんなふざけた特性はなかったはずだ)
いくら魔獣といえど、生命維持に必要な脳を失った状態でなおも活動し続けることはできない。その点は他の生物と同様のはず。
ならば、なぜ……この赤竜はまだ動いているんだ?
「ッ、おいおい勘弁しろ……!」
赤竜の後肢――脚の付近が青白い光を帯び始めた。
それは魔術師ならば誰でも知っている、詠唱に伴って視覚化される魔術発動の合図だ。
元来、無詠唱による魔術の発動を可能としていた赤竜には見ることがない現象の一端。
しかし、それは今、目の前で唱えられようとしていた。
(炎の魔術か!)
刹那、暴れ狂う空気の熱が一箇所に集まり、赤竜の前方の空間がゆらりと歪みを見せた。
「フェリス――ダメか」
呼び掛けるも、少女は倒れたまま気を失っている様子だった。吹き飛ばされた際に頭を打ち付けたのだろうか。
眼前を炎の閃きが走る。ここにいれば、魔術の範囲に巻き込まれて二人一緒に燃え滓になるのは明らかだ。
おそらく、フェリスを抱えて逃げるのは間に合わない。フェリスだけを遅延状態にするというのも状況を鑑みるに賭けに近い。
オレはほんの一瞬、どうするかと思い悩み――
「…………はあ、オレの寿命は残り一ヶ月もないんだがな」
懐から、小型の懐中時計を取り出す。
もはや遅延魔術だけではどうにもならないことを悟り、オレは悪足掻きを止めて、肉体に施していた制約――遅延状態を解除することに決めた。
これを解除しない限り、オレは遅延魔術以外のあらゆる魔術を発動することができない、という単純な制約。
今日以前に、この制約を解除したのはいつだっただろうか。
己に“奇病”があると知り、その進行による死から遠ざかろうと無様に足掻き続けた結果の、今。
想定外の事態とはいえ、赤竜を相手にする以上はこうせざるを得ないのも無理ない話だったか。
(やるか――)
目の前の空間が、煌々とした炎の揺らめきに満ちる。炎の息吹が放たれるまで、あと数秒もなさそうだ。
寿命を惜しんで死んでは元も子もない、オレは素早く、動かぬ懐中時計の針を頂点に合わせながら詠唱を開始した。
「〈制約解除〉――――、?」
続けて、結界の魔術を唱えようと口を開いたところで、ふと、視界の端に奇妙なものを見た。
雪の結晶のような、白い花弁のような……キラキラと輝く、何か。
それは視界の端に留まらず、空中を――赤竜の周囲をいくつも降り注いでいた。
一秒にも満たない時間の中で、その奇妙な何かが空から降り注いでいるのを確認したオレは思わず、
「……はは」
と、苦笑いを零した。
次の瞬間、
「――――〈花開くもの、即ち、刃となる〉」
朗々とした詠唱が響いた。
その光景を認識するまでの時間はほんの一瞬だった。
赤竜の頭上を舞う輝きがくるくると円を描きながら落下し――次には、外に向かって弾けるように、ぎゅるん、と花開いたのだ。
小さな点でしかなかったはずのそれは、詠唱が終わるとともに、まるで巨大な剣状の花弁に変形して……赤竜の肢体へ容赦なく弧を刻んだ。
首、胴、脚、翼、尾、その全ての至るところに、いくつもの回転する花弁の刃が殺到し、身体の半ばまでを何の抵抗もなく切り刻んで見せる。
あまりにも鋭い刃が作り出す数十の切断線は、まさしく、赤竜を薄切り状態へと――忽ちの内に変貌させた。
もはや、生きていようが死んでいようが関係はない。
強靭だった赤竜の巨体は、切り裂く乱舞を身に受けて……噴水の如く血を撒き散らすだけの肉塊と成り果てたからだ。
(この魔術は……大魔術師さま、か)
揶揄を込めた肩書きを思い浮かべながら、ゆっくりと空を仰ぐ。
中途半端な武器による攻撃は通用しない。それどころか、魔術による攻撃は通じないはずの〈竜鱗〉を持つ赤竜をこうも簡単に無力化できるほどの、実力ある魔術師。
そんな化け物は、この大陸でたった一人しか思い付かなかった。
「――ベルトラン、怪我はありませんか?」
そう問うて、夜の気配に染まった上空からふわりと舞い降りたのは。
我が師であり、鋼花の国の宮廷魔術師である――リディヴィーヌその人だった。




