7:冥獣ドゥルジナアス
息絶えた幻獣〈神威天狼〉の遺骸の上で、黒光りするこぶし大の固まりが渦を巻くように旋回しています。
その固まりには赤い複眼と薄い一対の翅があります。
巨大な蠅なのです。
その蠅が渦巻く中心に徐々に顕れていくのは、肘から先の腕、膝から先の脚、頭の上半分、そして翅の生えた背中が黒光りする甲殻に覆われた、妖艶な女性の姿でした。
冥獣〈ドゥルジナアス〉、実際に目にするのは初めてです。
甲殻に覆われていない部分の肌は白く、一瞬目のやり処に躊躇しましたけど、そんな事を言っている場合ではないですね。
「Vvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvv」
昆虫が高速で羽ばたく時のような耳障りな音で冥獣が叫びます。
すると、渦を巻くように飛んでいた眷属の蠅たちが動きを変え始めます。
この動きは‥‥
「いけない!」
死肉はイエバエの大好物じゃないですか!
「幻獣が狙われています! キーファさん、〈厄除け〉を! 勇者様、幻獣の遺骸を避難させてください!」
「わかった! 一班は周辺警戒、二班は遊撃、三班は攻撃準備、四班は俺に合わせろ! 掛けまくも畏き、天獣王ネルガートの御前に仕へ奉り・・・・」
「「掛けまくも畏き、天獣王ネルガートの御前に仕へ奉り、大難は小難に、小難は無難にと、家の内外すべてに禍事なく神守り幸はえ給へと白す・・・・」」
キーファさんは即座に騎士団の皆さんに指示を出して、詠唱を始めます。
彼に付き従っていた〈聖戦士〉のうち六人が追随し、詠唱する声が重複して森の広場に響き渡り‥‥そして。
「「「〈厄除け〉!」」」
キンッ!!!
キーファさんを中心に、幻獣の遺骸と勇者様、そしてその近くにいる〈ドゥルジナアス〉を巻き込むように、半透明な結界の壁が生み出されました。
けれど、冥獣〈ドゥルジナアス〉もいつまでもじっとしてはいません。
結界を破ろうというのでしょうか、眷属の巨大ハエたちが再び彼女の周囲を旋回し始めました。
「勇者様! 急いでくださいっ!」
「わかってるっつーの!」
「私も手伝おう!」
私は勇者様を急かすと、右手に投石器を、左手にはポーチから取り出した小瓶を構え、タイミングを待ちます。
幻獣の遺骸を持ち上げるのに苦戦していた勇者様の所にキーファさんが駆けつけ、二人で抱え上げて向かったのは〈厄除け〉で張り巡らされた結界の外でした。
右手で瓶の栓を抜いて投石器にセットします。
「5!」
駆け出した勇者様とキーファさんが抱える幻獣の遺骸を追って、巨大ハエの群れが二人の背中に向けて殺到します。
私は、今のうちに目を閉じて、冥獣〈ドゥルジナアス〉の現在位置を音で把握し、狙いをつけておきます。
「4!」
バン!
バンバッバババンバンババンビダビタビダビダ!!!!!
冥獣の眷属である巨大ハエは〈厄除け〉の結界を抜けられず、無数の激突音と共に停止します。
前半は硬いものに柔らかいものがぶつかる音、後半はハエにハエが高速でぶつかって潰れる音に変わっていき、耳を塞ぎたくなりますけど、そういう訳にはいきません。
息を整えて、投石器のゴムを引き伸ばして力を溜め始めます。
「3!」
「構えっ!」
「「〈空‥‥」」
ヒュバッ!
勇者様とキーファさんはそのまま足を止めることなく、結界から距離を取ります。
そして、指示を受けた攻撃班の〈聖戦士〉六名が長剣を鞘ごと構えます。
いけない、気を逸らしている場合ではありません。
私も気持ち、狙いを上に逸らして小瓶を撃ち放ちます。
「2!」
「「‥‥裂き〉!」」
ザシュッ!
攻撃班の六人が同時に鞘から剣を高速で引き抜きます。
しかし結界までの距離は約三メートルあり、その剣が届く範囲には誰も居りません。
ただ、魔力の籠った斬撃だけが結界の中心に向かって飛んでいきます。
「1!」
「Vvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvv!?」
「総員! 衝撃に備えろ!」
「がなでっ! ポムを!」
「承知じゃ!」
弧を描いて飛んでいく小瓶はまだ空中にありますけど、直進した真空の刃が六筋、一足先に巨大ハエでできた黒い壁を斬り裂いて冥獣〈ドゥルジナアス〉に着弾します。
耳障りな叫びが聞こえるので、かなりの深手を負わせたようですね。
同時に結界班は張っている結界に更なる魔力を注ぎ、攻撃班は慌てて盾を構えます。
背後から迫ってくる大きな影は、勇者様から指示を受けたガナデちゃんですね。
そう思った次の瞬間、襟首を掴まれ、私の身体は後ろに向かって引っ張られていました。
「0‥‥えっ!?」
真空の刃に続いて小瓶が冥獣の本体に命中しました。
小瓶の中身は、エクウスの商店街を巡っていた時に薬屋で見つけた〈爆裂薬〉です。
瓶の中に湛えられ、蓋を開けられて空気と反応し始めていた液体が、今、化学変化のピークを迎えました。
反応の時間を考慮して、蓋を開けてから三拍数えてから投擲すべし、との説明書通り、時間ぴったりに、結界の中心で大爆発が起こりました。
断末魔の声さえ無く、冥獣本体の気配は掻き消え、それどころか、反響定位で脳内に結ばれていた周囲の映像が、爆発地点を中心に急速に破壊されていきます。
(あ、これ拙いかも‥‥)
そう思った時にはもう、私の意識は暗闇の中に引き込まれていました。
*
「‥‥! ‥‥!」
痛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!
「〈治癒魔法〉!」
私はどのくらい人事不省になっていたのでしょうか、気づくと凄まじい痛みに苛まれたため、咄嗟に治癒術を使いましたけど、痛みも完全には消えませんし、違和感が拭えません。
相変わらず、視界は暗く反響定位は像を結びません‥‥そうですね、どれだけ混乱しているのでしょう、目を瞑ったままだったことを忘れていました。
(‥‥!?)
慌てて目を開くと、勇者様の顔がどアップで迫っていました。
驚くと同時に、あまりの近さに頬が熱を帯び始めます。
「え‥‥勇者様」
そう声を出したつもりでしたけど、それが自分のものとは思えない声で聞こえて来ます。
訝しく思っていると、赤面して距離を取った勇者様も憂いを帯びた表情になります。
よくよく考えると今の姿勢、勇者様に抱き抱えられているみたいですね‥‥。
恐らくは爆発の際、ガナデちゃんが襟首を咥えて爆心から引き離し、意識を失った後は勇者様の所まで運んでくれたのでしょう。
その勇者様は口をパクパクと動かし、同時に身振り手振りで何かを伝えようとしていますけど、伝えたい内容に関してはさっぱりわかりません。
『聞こえるかな、ぽむぽむや。あぁ、今は頭を動かさぬ方が良い』
この呼び掛けはガナデちゃんですね。
一瞬、その姿を探そうとしてしまいましたけど、指摘された通り、動きを止めます。
『どうやらお前さん、爆音で耳をやられたみたいじゃな』
「なるほど。それで頭が痛かったり反響定位に反応が無かったりしたのですね」
『そういうことじゃ。しばらくは反響定位も飛行も控えた方が良かろう』
「鼓膜や三半規管が傷んでいる可能性があるからですね。まず自己診断してみます」
〈身体検査〉を使って状態を確認すると、蝸牛管の中にある有毛細胞の多くが損壊していました。
これは音を電気信号に変換して脳に伝えるための細胞で、蝙蝠の、そして〈蝙蝠人〉の蝸牛管は他の獣や〈獣耳人〉と比べて大きく、機能に特化しているのです。
それが壊れているのですから、ろくに音が聞こえないのは当然でしょう。
鼓膜や聴覚神経は問題なく、三半規管もダメージを受けているので下手に動くと眩暈や方向感覚の狂いによる転倒などがあり得そうです。
ガナデちゃんから、動かないよう念を押される訳です。
「三つ輪の狂い、膝をつけ偉大なる大地に。大いなる音、涙を流せ希望の未来に。祈り、願いに応え、壊された音を識る力を癒し給え‥‥〈聴覚回復〉!」
「ポム!」
「うひょぁぁっ!?」
おそらく、これまで呼び掛け続けてくれていたのでしょう、勇者様の声が急に聞こえて来て変な声が出てしまいました。
「っと、悪い。大丈夫かい?」
「あっはい。おかげさまで多分、大丈夫です」
今かけた〈聴覚回復〉によって耳に受けた負傷も治ったのでしょう、頭痛も眩暈も収まったようです。
そのまま身体の各部に意識を向けて自己診断を始めます。
視界は良好、音が微妙に聞き取り辛く感じるのは後で要チェック、鼻には鉄錆の臭い、口内に血の味がするので、どこか出血したのでしょうか。
「安心したぞ。耳から血ぃ流してるもんだから、頭動かして良いかわからないし‥‥」
勇者様の言葉で納得しました。耳へのダメージによって出血したようです。
となると、耳孔内の血を何とかしないと聞こえづらさは解決しないし、当面、反響定位も使わない方が良いでしょう。
他に異常がある部位は、右肩に痛みが・・・・はぁぁぁぁぁぁ!?
「ゆっゆっゆゆうしゃさま‥‥」
「まだ何処か痛む?」
「い、いいえ、いえ、はい。あ、あの、肩が‥‥」
「肩? あ‥‥ごめんっ!」
勇者様は慌てて私の右肩を掴んでいた手の力を緩めてくれました。
それはつまり無意識に、痛みを感じるほどの力で肩を掴んでいたということで、勇者様の膝の上に寝かせられて、そんな姿勢でいたという事は‥‥私、勇者様に抱き抱えられていた処ではなく、抱き締められていたのでしょうか。
自己診断の途中だったこともあって、心音がやけに五月蠅く聞こえて来ます。
あんまり血圧が上がり過ぎると止血に困るなぁ、などと無関係な考えが意識の表面を滑って消えて行きました。
私は慌てて勇者様の腕の中から離れて立ち上がります。
三半規管に受けた衝撃のためか最初はふらつきましたけど、無事に立ち上がることはできたので、体幹や足にも影響はないようです。
爆発から守ってくれた勇者様とガナデちゃんに感謝しないといけませんね。
「なに、お安い御用じゃ」
あ、まだ念話が繋がっていたみたいで‥‥さっきのドキドキしてたのも伝わってしまったでしょうか?
「くく、初心いことじゃな」
また熱が上がるようなことを言わないで欲しいのですけど‥‥。
ともあれ、立ち上がったことで周囲の様子がよく見えるようになりました。
騎士団の方には爆発による被害はなかったようで、神威天狼に噛まれた聖戦士たちに治療が施されはじめていました。
こうしてはいられません。
なるべく早くワクチンを作らないと、噛まれた人たちには命がありません。
そして爆心地には、地面に黒い焦げ跡が残っており、黒い焦げた固まりがいくつもの山になって積み上がっています。
〈ドゥルジナアス〉とその眷属たちだったモノです。
〈厄払い〉の結界に阻まれていたので、爆発によって飛散させずに済んだようですね。
「あ、冥獣の死亡を確認しないと‥‥」
「いや、それは俺がやる」
向かおうとした肩を勇者様に掴まれ、僅かに痛みが走りました。
「勇者様‥‥だけど!」
「俺な、どんな感じなのかわかってないけど、ポムが怪我したり体調崩したりするのは、何か嫌だ」
「それは私もで‥‥」
咄嗟に出かけた反論を遮るように勇者様の手が私の頬に添えられ、指先が頤をなぞりました。
ぬるっとした感触を残して離された勇者様の指先には鮮血が付着していて、爆裂薬のダメージによって、私の耳から出血があったことを見せつけます。
「ポムはワクチンの準備もあるんだろ?」
「はい‥‥」
そう言われてしまっては仕方がありません。
冥獣の死亡確認を勇者様に任せ、私は幻獣の遺骸に向き直ろうとしました。しかし‥‥
「ふむ。〈ドゥルジナアス〉が倒されるとは、報告通りの腕ということか」
唐突に言葉を投げかけられ、顔を上げます。
目線の先、木立の中から、鳥の頭蓋に似た面、黒い帽子と外套、四角い医療鞄、という容姿の人物が現れ出ました。
うっかりしていましたね、〈冥獣〉がここにいたのですから〈妖術師〉が潜んでいるはずだったのに。
焦って振り返ると、勇者様の周りにも、キーファさん達の周りにも敵の影。
ユリア様とシャムシエルが向かった方角からも、今の私にとっては小さな音ですけど、剣戟の音が聞こえて来ます。
どうやら、私たちは包囲されてしまっていたようでした。




