2:コーヒーブレイク
くーるくーる、くーるくる。くーるくーる、くーるくる。
鼻唄を歌いながら箱の上のハンドルを回します。指先に負荷を感じながら一定の調子でくるくると。
ごーりごーり、ごーりごり。ごーりごーり、ごーりごり。
硬い音を立てながら箱の中では炒った豆が回ります。ハンドルの回転に負荷をかけられごりごりと。
時間はたっぷり朝まであるのでじっくりと、楽しみながら豆を挽きます。一杯分よりも気持ち多めに。
珈琲豆を挽き終わったら調剤室から幾つか道具をお借りします。ランプに三脚、石綿金網、フラスコとコルク栓に刺さったガラス管、ろ紙に漏斗にビーカーと、随分品ぞろえが良いですね。冒険者として旅立つときにガラス製の道具はみんな郷に置いて来ざるを得なかったので、今だけはありがたくお借りしましょう。
流石に調剤室で珈琲を作る訳にはいかないので器材を抱えて台所に戻ります。台所と言ったものの、これは診療所になる前の名前で、実際には給湯室と言うべきでしょうね。水瓶と竈、銅の薬缶、それに燃料が壁の一面を占拠しています。診療所というからには大量のお湯が必要になる場合があるので、そのための部屋なのですね。
広いテーブルの上に器材を広げランプに火を点します。竈に火を入れて薬缶で湯を沸かすほどたくさん使う訳じゃないですしね。ろ紙をセットした漏斗をビーカーの上に、フラスコには水瓶から汲んだ水を入れてガラス管の付いたコルク栓を詰めます。石綿金網を乗せた三脚を使ってランプの上にフラスコを設置し、ガラス管の先端が漏斗の上にくるようにすれば準備は完了。後は時間をかけて蒸留するだけです。
こぽ、こぽ。
丸底フラスコの中で水面に泡が生まれ弾けて消えていきます。ランプの火に底を炙られ続けた水は湯となり沸騰して水蒸気に変化します。変化に伴って体積が膨張した水蒸気は、自分たちの圧力によってフラスコから追い出されます。追い出された先はガラス管の道で、そこを通る間に水蒸気は冷やされて水に戻り、終点で水滴として漏斗の中に落ちていきます。漏斗の中には珈琲豆を挽いた粉。
ぽた、ぽた。
漏斗の下にあるフラスコに濃い琥珀色の液体が溜まってゆくのを見ながら、私はどこでこの珈琲を飲もうかと考えていました。
何代か前の村長の家族に結核患者が居たころに療養所として建てられたというこの診療所は、離れというには大きな建物です。
一階には登り階段を挟んで休憩室、診察室、調剤室、資料室が、そして手術室、給湯室、洗濯場、便所があります。
二階は入院病棟となっており、四つの個室が配されている他、階段を上った先には一階の屋上へと通じる扉があり、だだっ広い物干し場に出られます。シーツや包帯といった大量に発生する洗濯物をすぐに干せるようになっているのですね。
その屋上に出る扉を塞ぐ形でテーブルと椅子が置いてありました。日中は物干し場でサロリナさんが日向ぼっこしているのでしょうか。その様子がありありと想像できました。今は屋内に片付けているという事なのでしょう、夜の物干し場なんて危ないだけで用事も無いですからね。
都合が良かったので、そのテーブルを使わせてもらうことにしました。
屋上への扉が施錠されていることを確認し、珈琲をテーブルに運びます。珈琲を淹れる際にできた洗い物は洗い桶に入れておいて後で洗うことにします。魔力に余裕があれば〈浄化〉を使って簡単に済ませられるのですけどね。
勇者様の病室に一度自分の荷物を取りに戻ります。勇者様の寝顔を覘いてみると、熱も引いているようで一安心しました。本当に心配ばっかりかける勇者様なのですから、私ももっとしっかりしないといけません。
病室から戻った私は荷物を置いて椅子に腰かけます。とはいえ、体力も魔力も使い果たして眠ってしまったこともあり、お腹がぺこぺこになっていました。色々あったおかげで晩御飯を食べ損ねています。という訳で、カルテに取り掛かる前にお夜食を頂くことにします。
空きっ腹に珈琲は胃に優しくないのです。
荷物から取り出したのはたっぷりのクリームを挟んだマカロンです。角鹿車に立ち寄った時にテイワさんから持って行くように言われて持って来ていたのです。全身筋肉痛で辛いでしょうに笑顔で勧めてくださいました。
マカロンを一つ口に放り込みます。口の中で生地が溶けてメレンゲとクリームの甘味が広がります。同時に口内が干上がったような渇きを感じ、甘さが飽和した所で珈琲を一口。潤いと苦みによって調和が生まれました。
まさに至福。湧き上がる活力を糧に仕事へと取り掛かります。
勇者様の容体、体調変化、処置内容、記録をとるべき事は山ほどあります。マカロンと珈琲を活力に変えてそれを書き進め、ふと気付くと作業は一段落していました。
書類から顔を上げると、私の周りは紫色に染まっていました。テーブルも椅子も、開いたままの病室の扉も、施錠されている物干し場への扉も、天井も床も階段の手すりも、クリーム色だった筈の壁紙まで、すべての物が淡い紫色。
その原因は窓から差し込んでいた月光でした。いつの間にか、物干し台を見下ろすように紫色の月が上空に煌めいています。そこから投げかけられた光が、月下のあらゆるものを紫色に塗り替えていたのです。
「はぁ〜。なんか良いものを見てしまいました~」
紫の月は、三柱の獣王の一柱〈幻獣王ジーザス・ディアマンテ〉が〈幻獣〉達と共に暮らしている場所だと言われています。実際にそれを見たのは勇者様の曽祖父に当たる〈謎の勇者〉ウヅキ・マナブ様だけです。
勇者マナブ様は、その旅の中で紫の月に至って〈幻獣王〉に拝謁したそうです。獣人の世が訪れる以前から紫の月に座したまま〈禍獣〉の王を封印し続けている〈幻獣王〉との対話の末、勇者マナブ様は大陸の何処かに謎の民が住む謎の王国を作り上げました。
紫の月と〈幻獣王〉について語る時には外せないエピソードですね。
尤も、勇者マナブ様については伝承が少なく、紫の月に至ったことと謎の王国〈謎国トイナゾ〉を築いたこと、後はパーティの仲間が美女・美少女ばかりだったということくらいしか伝わっていません。
いわゆる「ハーレム勇者」だったようですけど、勇者様にもその血が流れているんですよねぇ。少し先行きが心配になってきました。
・・・・っと、考えが横道に逸れてしまいましたね。
ともあれ、今日は二度も〈禍獣〉と戦う羽目になるなんていう嫌なこともありましたし、〈幻獣王〉の加護をお願いしましょう。目を閉じて紫の月に向かって両手を合わせ、これ以上〈禍獣〉に出会わないようにと、祈りを捧げます。
願いが月に届いたのかどうかわかりませんけども、祈りを捧げていた私の耳が違和感を伝えてきました。空気の流れが変わったのです。
ひゅぅぅぅぅぅ。という音は、夕刻に戦った〈禍獣ウェンディゴ〉の鳴き声にも似ているものの、屋外から吹き込む風の音です。それが聞こえているということは・・・・私は慌てて周囲の様子を探ります。
目視できる範囲で屋外に通じる扉も窓も開いてはいません。
反響定位で勇者様の病室を見聞します。やはり窓は開いておらず、勇者様の規則正しい寝息が聞こえるばかり。問題はなさそうです。
次はイルヴァさんの病室です。イルヴァさんの少し苦しそうな寝息。「勇者様ぁ♪」というユリア様の幸せそうな寝言。いったいどんな夢を・・・・ってそんな場合じゃありません。カーテンがはためく音。窓を開けて誰かが部屋に侵入しようとしています!
私は弾かれたように翼を広げ、一気にイルヴァさんの病室の扉前まで飛んで行きました。
私が扉の前に着いた時には、その侵入者は既に窓を潜って部屋の中に降り立っていました。よっぽど隠形の腕に長けているのでしょう、〈黒翼人〉の耳にも届かないほどに物音を殺して動いています。
イルヴァさんの眠る寝台と、ユリア様の眠る寝台。その二つを見比べてどちらに向かおうかと考えていたのでしょうか、一瞬ですけど侵入者の動きが止まっていました。
そのあまりにも幻想的過ぎる姿を見て、私もまた一瞬動きを止めてしまいました。
室内のあらゆる物がそうであるように、彼女の姿も紫色の月光を浴びています。そのせいで正確な色合いはわからず、色の濃淡のみが世界を支配しています。
ひいていた筈のカーテンは風にはためき、窓から差し込む月の光が床を這って私のいる扉の前にまで道を作っているかのよう。その道の中に、まるで道に迷った子供のように、あるいは眠る子を見守る母親のように、たたずんでいたのは美しい女性でした。
見た感じ、身長は私よりも高く勇者様よりは低そうなので百七十センチ台でしょうか。手足の長いすらりとした肢体には無駄な肉があまりついていません。かといって筋肉質な訳ではなくしなやかさを感じさせます。えぇ、お胸以外はですけれど。
豊かな胸に巻きつけた暗色の布と腰の革帯、それから褌を除いて胴体には殆ど衣類を着けていません。右手には布を巻き、左手は篭手を嵌め、太腿の半ばから下は革帯から吊り下げる脚絆で保護されているのですけれど、そのため健康そうなお腹や二の腕、太腿から腰にかけてのラインがくっきりと見えるのです。
腰には剣帯も巻かれており、何本もの投擲用短剣や鞘に収まった大振りの短剣が括られています。他に武器が見当たらないことを考えると、考えられる可能性は〈盗賊〉か、それとも・・・・
「〈暗殺者〉ですか?」
思わず口を突いて出た言葉に反応し、ユリア様の方に向かおうとしていた侵入者の女性の顔が私に向き直ります。
やや細めで切れ長の目の中で光を反射して輝く瞳。薄手の覆面を内から押し上げるツンと尖った鼻口部。頭巾から覗く三角形の大きな耳。ふさふさした柔毛に覆われた肉食獣の顔立ち。そして、その動きに合わせてふわりと揺れる大きな尻尾が銀糸を束ねたかのように煌めいています。
彼女は〈貉狐頭〉の〈森蛮人〉だったのです。




