1:夜は更けて
第四章です。
パチリ。
そんな物音に驚き、思わず首を廻らせて周囲を見回します。
辺りは真っ暗で、窓から差し込む月の光だけが僅かな灯りとなっています。
「月・・・・いつの間にか深夜になっていたのですね」
そう、口に出すことで記憶が蘇ってきました。
私たちが今いるのは宿場村であるコルゴ村の村長さんの家の離れに作られた診療所の建物です。落ち着いて考えると、先ほどの物音は私の瞼が開く音でした。そんな僅かな音に驚いてしまうほど、私は緊張していたのでしょう。
隊商を護衛しながらコルゴ村に向かう途上、街道で〈禍獣ウェンディゴ〉に襲われ、〈地鼠人〉の姫ユリア様と侍女のイルヴァさんを拾い、立て続けに〈禍獣ドール〉との戦闘。なんとか勝利したものの皆ボロボロで、コルゴ村についてすぐイルヴァさんの緊急手術を終わらせた私も、勇者様の手当てをしながら寝落ちていました。
「みんな、生きてます・・・・」
決して無事だとは言えません。イルヴァさんは手術を終えたばかりで予断を許しません。ウェンディゴの精神浸食を受けて無理な動きをしたテイワさん、それを真似した勇者様・・・・ある意味で自業自得ですけど、二人とも予後に心配が残ります。
それでも。
あの激戦を一人も欠けることなく終えることができたのだと、ようやく実感が湧いてきたのです。〈巨大土竜〉さんだけは可哀想なことになってしまいましたけど。
ぽつぽつと独り言を漏らしている間に周囲の状況も把握できてきました。室内に危険なものはなさそうですし、勇者様の寝台のサイドテーブルにシャッター付の角燈が置かれていたので火を着けて灯りを絞ります。
私たち〈黒翼人〉の反響定位能力は音の反射を拾うことで情報を集めます。とは言っても、それで集まる情報は大まかな形や動きでしかなく、色や模様、細かな造形などを知ることはできません。
つまり、診察をしようと思っても、反響定位では顔色も表情もわからないのです。月明かりのおかげで真っ暗闇でこそないものの、やはり目視には光量が足りません。地の底で暮らすユリア姫様たち〈地鼠人〉なら闇の中でも問題なく見通せるのですけど。
灯りに照らされたのは診療所の二階にある一室。元は村長家の離れとして長く放置されていた建物だったのを、今代の村長夫人サロリナさんが嫁いできた時に診療所として改修したそうです。
日が暮れる前に見た部屋は壁に柔らかいクリーム色の壁紙が張られていて落ち着く雰囲気でしたけど、角燈の灯に照らされた今は橙色に染まって暖かさを感じます。家族が泊まり込んで患者の世話ができるように、窓を挟むようにして二つの寝台が壁沿いに、そしてそれぞれの枕元にサイドテーブルが置かれています。
私が寝落ちていたのはその片方、勇者様が寝ている寝台の脇でした。背中に翼があるため〈蝙蝠人〉は寝そべらないで座ったまま寝るのを好みます。だから、寝台の横に丸椅子を持ってきて座った姿勢のまま、というのは問題ないのですけど・・・・勇者様の寝台の隣でというのは少し気恥ずかしいですね。
気持ちを落ち着かせてから勇者様の診察をしておきます。
勇者様の額に手を当てると、熱さと共に掌が張り付くような感触があります。体質のせいで汗をかきづらい勇者様ですけど、まったく汗をかかないという訳ではありません。しかし発汗が少ないので体温調節は苦手なのです。これは危険な兆候でした。
サロリナさんが用意してくれていたのでしょうか、サイドテーブルに洗面器が置いてありました。水瓶の置いてある場所は手術の際に確認していたので、水を汲んで私の荷物から取り出したタオルを浸します。額や脇の下といった血管の密集している個所に冷えたタオルを当てて冷却を補助します。
集中して作業していると時間が過ぎるのはあっという間でした。寝落ちる前にかけていた〈治癒術〉の甲斐があったのか、しばらくすると勇者様の容態は徐々に落ち着いていきました。
私たちは連戦によって随分と魔力を消費していました。それもあって、勇者様の治療には自然治癒では治らない筋肉の断裂や脚の骨折などを中心に最低限の魔術しか使いませんでした。魔力の消費を節約するという意味もありますけど、自然治癒による筋肉の成長を阻害することにもなるからです。なので、勇者様の身体にはまだダメージが残っています。本来ならば姿勢を変えようと身じろぎする度に凄まじい筋肉痛が襲い掛かるでしょうけど、勇者様は筋肉痛とは無縁なのですよね。
勇者様の所持されていた教科書から伺える文化レベルと比べると、勇者様の筋肉は意外なほどに実践的な鍛え方をされていました。ひょっとしたら、こうやって超回復による筋繊維の強化を頻繁に行っていたのかもしれません。
続いて隣の部屋を見に行くことにしました。
隣の部屋ではイルヴァさんが休んでいます。術後の措置はサロリナさんにお任せしていたので、私が様態を見に行くのは初めてになりますね。
水を汲みに行った時は急いでいたのであまり観察できませんでしたけど、診療所の二階は階段を挟んで二部屋ずつ合計四部屋あって、そのうちの隣り合った二部屋を勇者様とイルヴァさんが使っている訳です。今は他の患者さんは居ないのだそうで、おかげで自由に使わせて貰えているのはありがたい限りですね。
軽くノックをして隣の部屋の扉を僅かに開けます。
「失礼しま~す」
声をかけて、ついでに反響定位で室内の状況を把握します。
二つある寝台の片方は使われておらず、もう片方にイルヴァさんが寝ており、その寝台の脇に椅子を持ってきてユリア様が座ったまま・・・・寝台に突っ伏して眠っています。何やらデジャ・ヴを感じますね。
こちらのサイドテーブルにも角燈と洗面器、それからメモが用意されていました。こちらの角燈を勇者様の枕元に戻し、持って来ていた角燈をテーブルに設置してメモを読みます。サロリナさんが用意してくれた物についての説明と、自由に使ってよいとの伝言が書かれていました。ありがたいです。
「うぅっ、母様・・・・」
灯りが近づいたからでしょうか、ユリア様の口から言葉が漏れます。同時に目尻に溜まっていた涙も流れ落ちます。
イルヴァさんから聞いた話ではありますけど、ユリア様の故郷〈アポロ・スミンテウス市〉では反乱がおきました。評議長であるお母様がどうなったのかも判らず、自身には追手が差し向けられ、共に脱出した侍女も重体では不安に思うのも仕方ありません。
更なる追っ手を警戒しているのか、彼女は木板と箍を組み合わせた樽装甲服に身長百二十センチほどの小柄な身体を包んでいます。
当然ながら熟睡という訳にはいきません。いつ襲われるかもしれないという警戒状態ではどうしても眠りが浅くなりますし、硬い鎧を着たまま、身体を折り曲げて座ったままの姿勢というのでは却って疲労が溜まってしまいます。これが何日も続くと身体を壊してしまいそうで心配になります。
「特に、幼い内の睡眠は大切だと言われますし」
警戒心や鎧についてはどうしようもないので、せめて姿勢だけでも楽にしておきましょう。介助用の寝台は空いていますので、抱っこして移してあげようと思います。
「重っ・・・・」
持ち上がりませんでした。
一瞬ですけど眠ったままのユリア様から殺気が迸りました。驚いたことに、ユリア様は武器を抱えたまま眠っていました。箱に弓弦と持ち手を付けたような大型の〈重弩弓〉。その引鉄に指をかけたまま眠っていたユリア様。迂闊な近づき方をしていたら大怪我を免れなかったでしょう。
仕方無く両脇から腕を回して、脚を引き摺るように寝台まで運びました。
そうしてユリア様を寝台に移した後でイルヴァさんの顔を覗き込みます。
揺らめく炎の灯りに照らされた部屋の中では正確な顔色を推し測るのも難しいですけど、彼女の顔が真っ赤になっていることは一目瞭然でした。額には玉の汗が浮かび、うなされてもいるようです。
手術した跡が熱を持ち、イルヴァさんに痛みを与えているのです。
イルヴァさんの手術は〈治癒術〉だけでなく〈医術〉による外科処置も併用して行いました。連戦の後だったということもあって私の魔力は充分ではありませんでした。かといって魔力の回復を待っていてはイルヴァさんの身体が保ちません。また、初めて担当する〈地鼠人〉の内臓が見えないまま処置することで予期せぬ事態が起こることも懸念されました。結果的に手術は成功したものの即座に完治とはいかず、サロリナさんと相談した結果、経過を見ながら段階的に治療を進めることになったのです。
再び水瓶に往復して冷たい水を汲み、手拭いを浸します。ぐっしょり湿っていた入院着を脱がせ、絞った手拭いで身体を拭いて清め、治療痕を確認してから新しい入院着に着せ替えます。完全武装していたユリア様ほどではないですけど、少し重いですね。〈地鼠人〉って見た目の割に筋肉がついているのでしょうか。
手拭いを額に乗せてしばらくすると、イルヴァさんの寝息が落ち着いてきました。
うなされていた原因は発熱だったようですね。あまりにも高熱になるようだと熱を下げる薬を処方した方が良いでしょうけど、そうでなければ迂闊に熱は下げない方が良いのです。傷口から体内に入り込んだ細菌等を熱し殺すための体機能なのですから。
イルヴァさんも様子見が必要と判断した私は一息つくことにしました。
診療所の台所をお借りしようと思ってみてみると珈琲豆の袋が見つかりました。ちょうど頭をすっきりさせたいと思っていた所だったので、珈琲を頂くことにしましょう。
コーヒーミルで豆を挽きながら、完全武装で警戒したまま寝ていたユリア様やうなされていたイルヴァさん、熟睡している勇者様、それぞれの寝顔を思い出していきます。
「カルテでも書きますか」
私はこのまま起きて、あるかどうかも判らない襲撃を警戒することにしたのでした。