1:目覚めの時
「勇者様、起きていらっしゃいますか?」
そう声をかけながら、私は歩を進めます。
ぷしゅ、と軽い音を立てながらドアがスライドして元の位置に戻っていく気配を背後に感じます。
私の靴底を受け止める毛足の長い臙脂色の絨毯は、埃を舞い散らせることもなく、清掃をした者の仕事振りを無言で表しているかのようです。
歩む先には豪奢な天蓋付きの寝台が設置されており、清潔で柔らかな寝具に包まれて一人の青年が規則正しい寝息を立てています。
この部屋に運び込まれてから丸二日、彼は滾々と眠り続けているのです。
その腕には栄養点滴の管が刺さっており、こめかみや足指には計測用の機器が貼り付けられています。
そこから送られて来たデータのモニター中に目覚めの兆候を感じ取り、御挨拶をと想って足を運んだのですが、どうやらまだお目覚めではないようですね。
「すぐに目が覚めるとも限りませんし、ちょっと失礼しますねぇ」
私はするりと寝台に上がって膝を突くと、彼の腰の右側に添えられていたクッションを手に取り、左腰に当て直そうと青年の身体を乗り越しました。
あんまり長い時間、同じ姿勢で寝ていると床擦れができてしまう場合があるので、クッションの位置を変えることでその対策をするのです。
ふと、寝台の脇に置かれていた姿見が目に入りました。
鏡には、寝台に横になっている男性を跨いで四つん這いの姿勢をとっている自分の姿が映っています。
まるで夜這いしているみたいですね。
「違いますよっ! これは介護。仕事の内なのですからっ!」
頬に熱を感じ、誰も居ないのに言い訳がましい事を口にしてしまいます。
「・・・・み・・・・き・・・・」
その時、青年の口が言葉を紡ぎました。
跡切れ跡切れではありましたが、自己弁護の最中にあった私を驚かせるには充分です、と言うか口から心臓が飛び出すかと想いました。
恐る恐る彼の顔を覗き込むと、まだ寝息を立てていますね。
どうやら寝言だったようです。
一瞬、恋人の名前かと思いましたが「みき」は彼が転移前に一緒にいた友人だったと思いあたります。
どうやら転移直前の記憶を夢として見ているようですね。
まだ目覚めないのかと残念に思う気持ち、今目覚めたのでは無くて安堵する気持ちが同時に押し寄せ、溜息となって零れます。
それにしても、整った寝顔です。
少年から青年への変遷期でしょうか、子供らしい丸みを少し残した頬のライン。
日に焼けた肌も、くっきりとした眉も、まっすぐに通った鼻筋も、意志の強さを感じさせます。
やや大きめの目と口も含めて考えるとやんちゃ坊主のような印象を与えます。
身長一八〇センチ台で引き締まった筋肉質の体格と比べるとアンバランスな感じですね。
「幹っ!」
「きゃあっ!?」
突然のことでした。
しげしげと寝顔を見つめている所で青年が急に跳ね起きたため、危うくぶつかる所でした。
大慌てで飛び上がり難を逃れましたが、寝台の天蓋から吊り下げられている薄絹にあちこちを引っ掛けてしまいました。
だから天蓋付きの寝台は苦手なんですけど。
というか今、腹筋だけで上体を起こしてませんでしたか?
などと、いつまでも驚いている場合ではありません。
叫んで身体を起こした青年は、半ば呆気に取られながら周囲を見回しています。
床は緋色の絨毯に覆われ、自分が居るのは天蓋付きの寝台、その傍らに置かれた丁度品も貴族の館かと思わせる設えで、シャンデリアに灯るのは火でも魔法でもない不思議な暖かさを宿す光。
意識を失う前の状況と違い過ぎるのですから当然の反応でしょう。
彼の目が私の方を向きました。
「おはようございます。ご気分は如何ですか?」
その視線に何らかの感情が浮かぶ前に、落ち着いた口調を意識して話しかけます。
こういう時は緊張してることを悟られないようにしなくては。
「うん。おはよう・・・・」
上手く言葉が通じるか心配でしたが、無事に通じたようで良かったです。
しかし、彼は私を見上げたまま首を傾げています。
「あの・・・・どうかなさいましたか?」
「いや、蜘蛛の巣に囚われた蝶は、どんな気分なのかな、と思って」
そう言われた瞬間に自分の状態を思い出しました。
四つん這いの姿勢から無理に飛び退いたため、寝台の天蓋から吊り下げられた布に腕も脚も翼も絡め取られて宙吊りになっているこの状態は、確かに蜘蛛の巣に囚われた蝶に例えることもできるでしょう。
恥ずかしさから頬が熱くなってきます。きっと真っ赤になっているでしょう。
「あ、あああああの、これ、は、ですね・・・・」
言葉も上手く出て来なくなりました。情けなさに涙が浮かびます。
兎に角この状況を何とかしなくてはいけません。私はあちこちに絡みついた布から自由になろうともがき、そして・・・・
「きゃうっ!」
ぺしょり、と軽い音を立てて寝台の上、青年の膝の上辺りに落下しました。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です。御心配をおかけしました」
思ったよりも優しい声をかけてくれた青年に謝意を伝え、寝台から降ります。
深呼吸を一つ、落ち着きました。ここから仕切り直しです。
「先程はお恥ずかしい姿を見せてしまいました。改めまして、私はポムクルス・インペリアといいます。良ければ、ポムとお呼びください」
「ありがと、ポム。俺は卯月 鰆」
「はい。ウヅキ・サワラ様、ということは勇者様ですね。ご気分は如何ですか?」
何とか軌道修正できました。互いに自己紹介も済ませ一安心です。
やはりこの青年は勇者様だったようです。事前に得た情報だけでも確信はあったのですが、これで確定ですね。
「気分は悪くないっていうか調子良いくらいなんだけど、ちょっと待ってよ。前後の状況が判らないっていうか、何がどうなってこうなってるのか、そもそも勇者ってどういうこと?」
「はい、それはですね私からお話するよりも女王様に・・・・」
「女王様に?」
不自然に話を途切れさせた私の言葉を鸚鵡のように繰り返して尋ねる勇者様ですが、私としてはそれどころではありません。
「女王様に、勇者様が目覚めたことをお伝えするの、忘れてました!」
慌てて勇者様に断りを入れて、寝台の傍らにあるナイトテーブルから取り出した通信機器を操作します。
「女王様。ケーナ女王様、勇者様がお目覚めになりました」
平静に聞こえるよう努めた声で必要事項を伝えます。しばらく待てば説明をしにきて下さるでしょう。
「お待たせすることになりますので、ごゆっくりしててくださいね」
今の間に計測機器や点滴などの後処置をしてしまいます。
「じゃあ、その間に俺の状況以外で質問しても良いかな?」
「はい? 私に答えられることで良ければ」
腕に脱脂綿を当てて慎重に針を抜いていると勇者様に問いかけられたので、どんな質問が飛び出すのかと身構えながら答えを返します。
「背中の翼。この世界は、ポムみたいに翼のある人が多いの?」
なるほどです。言われてみれば、勇者様にとって私は初めて遭遇した異世界人という事になるのですね。
それなら、下手をすると私がこのフォーリヤ世界の基準になってしまうという可能性があります。この誤解は早めに解いておいた方が良さそうです。
「このフォーリヤ世界では、私のように翼を持つ人は多くありません」
私と、異世界人である勇者様の見た目上の種族差は大きく二点あります。
一つは、勇者様には一対しかない耳が私には二対あるという点。
顔の横にある側の耳は勇者様のものと似た形をしていますが、側頭部にある蝙蝠に似た耳は勇者様には無いものです。
もう一点が、勇者様の問いにあった背中の翼です。
肩甲骨の辺りから腰にかけてを基点にした被膜状の翼が、私の背中には生えています。
先刻、四つん這いのまま飛び退くといった器用な真似ができたのも、この翼のおかげでした。
もっとも、飛び上がりすぎてカーテンに絡まってしまったのは失敗でしたけど。
ともあれ、勇者様の疑問に答えなくてはですね。
「私みたいに側頭部に動物に似た二対めの耳を持つ種族を〈獣耳人〉と言います」
獣耳人は耳が一対多い分、他の種族と比べて音を聞き取りやすいという特性があります。中には獣耳が小さくて髪の毛の上からは判らないような人も居ますけどね。
「獣耳人は、耳だけでなく動物の特徴が身体に現れる事が多いんです。象の人は体格が大きいとか、鯨の人は長く潜っていられるとか、兎の人は高く跳べるとかですね」
そういった特徴が近いと暮らしぶりも似るようになるため、同じ種類の耳を持つ人達が集まって暮らすことが多いようですね。
「その中でも、私のように蝙蝠の特徴を持つ〈黒翼人〉は〈蝙蝠人〉と呼ばれて迫害されているので人口は多くないのです」
「迫害っ!?」
勇者様が目を見開きます。
話題の展開を誤ったようで、驚かせてしまいました。
「あぁ、いえ。迫害といってもですね・・・・」
『何をやって居るのじゃ』
話題を変えようとした所で、ぷしゅ、と気の抜ける音が聞こえます。
振り向いた私と勇者様の視線の先、開いた扉の向こうでは、小さな女性が呆れた顔で浮かんでいます。
「ケーナ女王様!」
私は、慌てて姿勢を正すのでした。