第08話
「まったく、心配させやがって!!」
「いててて。ハク、痛いし重い。」
僕は部屋の隅にまで飛ばされ、柱に背中を強打した。もしかしたらこの療養がパーになるんじゃないかと思うくらいの衝撃だ。
「ったくよぉ。お前には言いたいことが山ほどあるぞ!
ええ?何俺一人残して走っていきやがった!あの後大変だったんだぞ!緑鉄のやつはあたふたするだけで役に立たねーし、ジジイはジジイで憔悴しきってるし、なんでこの俺が病院とかいう訳分かんない場所に電話しなきゃなんねーんだよ。」
「で、電話したんだ……」
「しかも、だ!あの後の家の復元も、当然俺一人でやるしかないじゃねえか。この白蛇一匹になーんつう肉体労働をだな!」
「いや、ホントにごめん!あの時はその……なんとかしなくちゃって思ってて。」
僕は声を荒げるハクに頭を下げる。
「そんなもんでなんとかなるわけがないだろ!だー、もう!なんで一人で突っ走っちまうのかね、お前は!あれほど山にはやべー神霊がいるって言っただろ!?で、何?ばっちり『鈴鳴り』に出会うだぁ?死にたいのかよ!」
「本当にごめんなさい!」
「本当だ!――本当に、心配させやがって……」
ハクはその白い頭を、僕の額にコツンと当てる。彼の熱い息が、水の中にいても伝わってくる。
「……で、『精』は元に戻ったのか?」
「うん……もう、大丈夫だよ。翡翠が手当てしてくれたおかげで、傷も癒えたんだ。」
「……」
ハクはチラリと部屋の隅で佇む翡翠を見る。
「……おう、久しぶりだな。」
「そうだな、ハク。――40年ぶりになるか?」
「ああ……」
二人の神霊の間に、不思議な沈黙が続いた。お互いに視線を合わせようとしていない。けれど、そこに嫌悪や憎悪のような感情は漂っていなかった。そう、いうなれば、「ただ、気まずい」というものだった。
その沈黙をわざとらしく張り上げた声で破ったのは、ハクだった。
「さーて、帰るぞ、碧。」
「えっ?今??ちょっとまってよ。これから翡翠と話を――」
「なーに寝ぼけたこと言ってんだよ。お前、4日も家を留守にして俺達以外の誰も心配していないとでも思っているのか?」
「……」
「ジジイと緑鉄はそりゃ当然だが、なんて名前だったか忘れたが、学校の奴らが二人連絡してきたぞ。」
「そう、なんだ……」
僕はハクから視線を逸らす。きっとその二人は、この三年間何かと僕を気にかけてくれていた二人だ。別に悪い人じゃない。ご飯を一緒に食べようと気さくに語りかけてくれる、明るくて優しい人だ。勉強だってできるし、運動だってできる。クラスの中では人気者、というほどでもないけれど、「頼りになる」という枠組みに入る人たちなのは間違いない。僕だって彼らと話すことを苦に思ったことは無いし、普通に会話はするし、一緒に町の祭りに出かけたことだってあるんだ。ただ――
「ま、そういうことで、相棒が世話になったな、翡翠。早々にお暇するぜ。」
「……そう、か。」
彼女は僕とハクから顔を逸らし、窓の外の街並みを眺める。僕は彼女のその姿をみて、慌ててハクに詰め寄った。
「いや、ちょっと!まだ着替えてないし、もう少し後でも――」
「ええい、もうちょっと周りを見ろっての!」
「ぐはっ!」
ハクの手刀ならぬ尾刀が、僕の腹部に決まる。
「――あ、やりすぎた。」
間の抜けたハクの言葉だけが、消えゆく僕の意識にむなしく響く。そう、悲しいかな。その言葉が、僕がこの日、この塔で聞いた最後の声になってしまった。
◇
鳥の鳴き声で、僕は目が覚めた。崖の真上から照り付ける太陽が、僕の顔を照らしている。
「やーと、起きたか。」
「ハク――ここは?」
「水源京の、真上だ。」
僕は周囲を見渡す。
生い茂る瑞々しい草木に、湿った土の匂い。遠くから聞こえる鳥の声と蝉の合唱。そこは、神秘の水で包まれた都ではなく、命溢れる森の中だった。そして、僕は足元に広がっているそれを見て驚いた。
「え、まさか、この水たまりが、水源京――!?」
そこにあったのは、池と呼ぶには小さすぎる水のたまり場。大人が二人いれば余裕で囲えるほどの大きさしかない。しかも、その底は明らかに浅い。拳一つが入るか入らないかくらいの深さしかないんだ。落ち葉が積み重なったら埋もれてしまう、雨上がりの水たまりそのものだった。
「……ああ。そうだ。」
「嘘でしょ!?え、じゃあ、僕が崖から落ちた先がこの水たまりじゃなかったら……」
僕はそびえ立つ崖を見上げる。
その頂は天を仰ぐほど高く、先なんて見えやしない。見ているだけで僕は背筋が寒くなった。
「水源京ってのは、だいたいどこも……まぁ、こんなようなものだ。中には祠が立てられるほど大きいものもあるが、な……」
ハクはどこを見るわけでもなく、ぼうっと周囲をその赤い瞳で眺めていた。僕はハクのその姿に、思い出に浸る郷愁を感じたけれど、何か違うな、とも思った。ハクの生まれが水源京だったとか、そういうことなら話は別かもしれないけれど、彼は普通の卵から産まれた普通の蛇だったようだし、そもそも「思い出に浸る」ようなことを彼はしない。昔、山で暴れまわったことを僕に意気揚々として語ることはあるけれど、それでも彼は「今」を生きている。「今」どうしたいのか、「今」どう生きていきたいのかを常に考え、自由気ままに暮らしている。そんな彼が「郷愁に浸る」ということは、ちょっと考えにくかった。
「さて、じゃあ、家に戻るか。」
「ねえ、まって。」
「うん?なんだよ。」
先に進もうとするハクを、僕は呼び止めた。
「また、会えるよね?翡翠に。」
「――」
僕の問いに彼はしばらく答えなかった。そして僕から向かうべき場所へと視線を移し、ゆっくりと体をくねらせながら言った。
「……まあ、お前がそう望むなら、な。」
◇
「――それで、汝は銀灰に大目玉を喰らったと?」
クスクスと笑いながら、千恵は楽しそうに小鳥と戯れている。
「もー、本当に、あんなに怒ったじいちゃん初めて見たよ。」
「ふふ。彼は昔からああだからな。人一倍怒りっぽく、尚且つ人の三倍以上人を愛している。家族であるならば尚更よ。碧、汝はそれだけ大事にされている、ということだ。」
「そうなら、もうちょっと穏やかにしてほしいなぁ。大体、けが人なんだからもっと安静にしておいてほしい。」
僕は千恵の前で肩を竦める。あの後、僕が家にかえるなり、じいちゃんは思いっきりゲンコツを喰らわせてきた。それも、部屋の一番奥から玄関までまっすぐに走ってきて、だ。自分の方が重症なのに、ゲンコツを喰らわせたあとの抱擁は、もはやタックルに近いほど強かった。まったく、なんで、あんなに元気なんだか。
「はっ!お前にはあれくらいのお灸がちょうどいいぜ。」
「もうハクの尻尾だけで十分だよ。大体、あれ、すっごく痛かったんだよ!気絶したんだもん。」
「ま、まあ、アレは、なんだ……うむ、流石にやりすぎた。悪かったって。」
ハクが気まずそうに視線を逸らすのを見て、僕は頬を膨らませる。
「だいたいさー、あんなに早く帰る必要ないでしょ!せっかく翡翠と友達になれそうだったのに!それに服とかだって水源京に忘れてきちゃったし!」
「いや、それは……」
「というか、そもそも、なんで翡翠がこの山にいるって教えてくれなかったの?」
「ま、まあ、なんだ、いろいろあってよ……」
「いろいろって何さ。」
「それは……」
ハクの煮え切らない態度に、僕はその質問を別の人物へと向ける。
「千恵も、どうして教えてくれなかったの?」
「ああ、水源京の翡翠か。」
千恵は小鳥たちに分かれを告げると、僕に淡く優しい瞳を向けた。
「我としてはお前を紹介すること自体はやぶさかではなかったさ。」
「じゃあ、どうして教えてくれなかったの?」
「翡翠が、『誰にも水源京の話をするな』と言ってきたからさ。特に、汝ら『紺家』には、な。」
「――え?なんで?」
僕はびっくりしてハクを振り向き、じっと見つめる。
「……まさか、ハク。」
「な、なんだよ……」
「……お酒飲んで暴れた?」
「ちげーよ!暴れてねーよ!?」
「じゃあ、なんで翡翠が『紺家』に自分のこと知られるのを嫌がってるのさ。」
「いや、俺のせいじゃねえって。『紺家』の問題のあれやこれやをなんでも俺のせいにするなよ!確かに8割くらいは俺が原因だけどよ!」
「じゃあ、原因はなんなの?」
「そりゃあ……」
「はい、そうやってまた黙るー」
「ガキかよ、お前は!」
「だーってハク全然正直に話してくれないんだもん。そんなんじゃ秘蔵のお酒、飲ませてあげないからね!」
「なっ!」
ハクの口がぽっかりと空き、何度か彼は愕然としたように口をパクパクと開けたり閉じたりしていた。
「さ、それが嫌だったら話してもらおうかな!翡翠のことを……!」
「て、てめえ、俺の、俺の酒を人質にするとは――鬼か!?」
「さあ、答えるんだ!ハク!」
僕はハクににじり寄る。
「そ、それは……いや、そんな理由で話せられるわけないだろ!?ってかオレをなんだと思っているんだ!?」
「今ならお隣さんからもらった、究極のキュウリの糠漬けも出そう。」
「くっ……あのばあさんの糠漬けか……あれはほんとにうま――じゃねえ、だから、俺を何だと思っているのだ!?」
「いや、これなら話してくれるかなって。」
「そんなわけないだろ!?なんでそれで翡翠とジジイの話なんざ――」
「あっ」とハクが口を開けた、その時だった。
「懐かしい話だナ――」
空から、声がした。
それは天から降り注ぐ雨のようにまっすぐに、小雨のように少し高い声だった。
「――雨音か……」
千恵が庭園の裾をチラリと見る。
「また会ったな、千恵、ハク――そして碧。」
「雨音ちゃん!」
さっきまで誰もいなかったその場に、彼女は立っていた。ひらひらフリルのついたミニスカートに、青いリボンが特徴的なゴシック調の服。鮮やかな刺繍細工の日傘を持った幼子が、その周りにだけ降る小雨の中を、スキップ交じりで駆けてくる。
「ワタシも混ぜてくれないか?土産話もたくさんあるし、たくさん聞きたいゾ。」
「……相変わらず、とんでもなく傾いたヤツだな。ほんとに2000年以上も生きている『神』なのか?」
ハクは目を細め、呆れた声を出す。確かに、雨音は神々しい『神』というより、“ちょっと芝居がかった小学生”のような言動をとる。まぁ、格好については、僕はよくわからないけれど……
「……別に、そんな楽しい話じゃねーよ。」
ハクがそっぽを向くと、雨音はその小さな手でハクの尾を掴む。
「なんだ。ワタシには話せないのカ?では、ワタシから話そウ!次はオマエ、ダ。話さないならブン投げル。」
「むちゃくちゃな……」
ハクは僕の近くにそっと身を寄せる。確かに、彼女はそのまま投げる。そういうことを、平気でやる子だ。僕はそれ自体を変わっているな、とは思っているけれど、そこまで怖いと思ったことはない。けれどハクはそれが怖いらしい。
「――で、雨音、汝、なんの土産話があるのだ?」
「おおう、そうだそうダ。」
千恵の言葉に雨音はハクの尾から手をはなし、彼女の隣にふわりと腰を下ろす。
「東のワタシがあの銀狐に会っタ。」
「おお、お銀か。だがそれはいつもの事ではないのか?」
「そうなのだが、ここからが面白イ。実はな、アヤツ、ついに身を固めることにしたらしいのダ。」
「ほう。それは驚いたな。」
「だろだろ?そして、相手は何と――」
「人間、であろう?」
千恵の強く自信たっぷりの言葉に、雨音は目を見開く。
「何?なぜワタシの言おうとしたことが分かったのダ?もしやオマエ、ついに未来を予知することも可能になったのカ?」
「そのような力を、我は持っておらぬよ、雨音よ。」
千恵は微笑み、枝葉の髪をすく。
「ではなぜダ?」
「簡単なことだ、雨音。あの狐は、人間を心から憎んでいた。つまりな、彼女は人間を心から好いていた、ということよ。」
「うーむ。てんで分からヌ。」
口をへの字に曲げる雨音は、面白くなかったのか、急に僕の方を向いた。
「碧。オマエはどう思ウ?人間と神霊、種族の違うモノが婚姻を結ぶ、ということを、オマエはどう思ウ?」
「ええ?いや、そんな急に言われても……」
僕はちらりと千恵を見る。ほのかに漂う甘酸っぱい香り。白い梅の花は、静かにそこに座っている。薄紅色の瞳は微笑むだけで、何も言わなかった。
「……よくは分からないけれど、友達にもなれるんなら、結婚だってできるんじゃ、ない、かな?」
「なるほド。オマエの言葉の方が、ワタシは気に入った。分かり易イ!」
「いや、多分僕と千恵が言っていることは違うと思うよ。」
「ムム?そうカ?いや、確かにそうだナ。千恵はすべてを見ていル。千恵はいつだって賢者であル。『神』ですら、時々理解できぬほどに、ナ。」
千恵は黙ったままだ。ただ静かに瞼を閉じ、意味ありげに微笑んでいるだけだ。
「――それで、次はオマエ達の話の番だゾ。早く聞かせてくレ。」
「……」
雨音の言葉に、誰も答えなかった。
雨音は無音が嫌いなのだと、以前言っていた。それはきっと、彼女が音のする存在だからかもしれない。何も音のしない世界、というのが慣れないのかもしれない。だから彼女は、その無言の庭に早々に終止符を打った。その声はひどく冷たく、そして雨のようにこの庭を濡らした。
「別に話せないことではないだろウ?死にかけの、翡翠のことくらイ。」