第04話
「碧、具合はどう?」
――誰?
「ほら、寝てなきゃだめでしょう?」
柔らかな羽毛の布団が、そっと肌に触れる。爽やかな石鹸の香りが、彼女から香ってくる。彼女はベッドで横になる僕の手を取り、驚いて言った。
「まあ!とっても冷たい手。」
太陽のような穏やかな温もりが、光とともに彼女から僕に流れ込む。
「大丈夫、すぐによくなるわ。」
彼女は微笑み、僕に語り掛ける。
「だから、おやすみなさい。」
乳白色の天井、そよ風に揺れる白いカーテン。
真新しいベッドの香り。
ああ、これは、あの日最後に見た――
◇
「――さん」
朝。僕は、自分の寝言で目を覚ました。
見慣れない木目の天井が、視界いっぱいに広がっている。
「――ここは?」
僕は首を横に動かし、部屋の様子を確認する。
江戸時代の日本家屋。第一印象はそんな感じだった。部屋は四畳半ほどだろうか。土壁は崩れ、ところどころ骨組みが見えている。足元と左手の壁は障子となっていて、外の青い光を取り込み、部屋の中を涼し気に照らしている。部屋の隅には、漆が剥げた小さな文机が1つ。その上には装飾の消えた黒い小さな燭台が、もの寂しげに置かれている。古びた畳はところどころ藁がはじけ、枯れ草色の轍をつくっている。
最近まで誰かが住んでいたような気配はない。
けれど、誰かがかつて住んでいたはずの気配も感じない。たしかに誰かがこの部屋に住んでいたのは間違いない。けれど、人がかつていたという、古い家ならではの臭いがない。この部屋からは、あるはずの誰も住んでいなかった埃臭さがなかったんだ。どこまでも澄んだ、清らかで美しい水の香りがする。
僕は麻と綿でできたかけ布団から起き上がり、さらに部屋の様子を確認しようとした。と――
「あれ?服が変わってる?」
着ていたはずの洋服はなく、代わりに浅葱色の着物が着つけてあることに気が付いた。見たこともない着物だし、サイズも小さく合っていない。
「これは……いって!!」
窮屈な着物を緩めようと力を入れた瞬間、全身に激痛が走った。
全身打撲、というやつだろうか。足がしびれた時のような電流が全身に走り、骨を突き刺すような痛みが僕を襲う。
「~~~~~!」
僕は布団の中で一通り悶えた後、自分の体が包帯でぐるぐる巻きになっていることに気が付いた。どうやら誰かが手当てをしてくれていたようだ。傷だらけの腕や指に、余すところなく丁寧に包帯が巻かれている。よほど几帳面なのか、包帯は全て等間隔で巻かれており、白と影の淡く美しい縞模様を描いている。血と泥だらけだった口の中は、一切の不快感も痛みもなく、不思議と傷は癒えていた。雨に濡れて硬くなっていた髪は、陽だまりの猫の毛のように柔らかになっている。
「誰が、助けてくれたんだろう。」
僕は記憶をたどる。
あの妖から逃げているさなか、崖から転落したことは覚えている。それは覚えているのだけれど、その先が分からない。転落した後、僕はどこに落ちたのだろうか?あの体を包む冷たい感触は、血だったのだろうか。
僕は布団の中で小さく首を振る。
いや、そうではないだろう。もしそうであれば、僕はとっくに死んでいる。ここがあの世だというのなら、わざわざ治療を施す理由はないと思う。だったら、僕はまだ生きてこの世にいる。なら、あれは血ではなく――
「水、か。」
落ちた時の、硬い衝撃と、その後に広がる柔軟な感触。ああ、あれは昔、川に飛び込んだ時のものによく似ている。ということは、僕は池か川かに落ちたのだろう。そして誰かが僕を見つけ、手当てをしてくれたに違いない。
安心した僕は閉じた障子の向こう側に興味を抱いた。
「……池が、あるのかな?」
障子を透過する光は、ゆらゆらと万華鏡のように揺れている。水面を移したかのような穏やかで清らかなその模様に、僕は見惚れた。生まれては消え、消えては生まれる光の筋。その静かな動きを見ていると、体の痛みや疲れが消えていく。
「――違う!」
意識が薄れそうになった瞬間、僕の目の前に、冷たい手をした老人の姿が映った。
「こんなとこで寝ている場合じゃない!!雨音のところに行かないと!じいちゃんが――!」
僕は痛む体に鞭を打ち、布団から這い出る。こすれる着物が、皮膚に突き刺さる。まるで針山の上を這っているみたいだ。
「くっそ!じいちゃんを、助けに行かなきゃいけないのに!これじゃ、無理じゃないか――!」
僕は畳を鷲掴む。乾いた藁がぼろぼろと崩れ、粉になって包帯の上に霧散する。
――いや、まて。
手当てされているということは、この家には誰かいると言うことじゃないか!だったら、今やれることは1つしかない。
僕は一番近くの障子に爪を立て、猫のようにその窓を開ける。
「すみません!誰かいませんか!」
僕は上半身を起こし、外に向かって力の限り叫ぶ。
「誰か!助けて、ほし――いん……です……」
だけど、僕の声は最後まで続かなかった。目の前に広がる景色が理解できず、言葉はその勢いを失った。
「――え?」
部屋の外にあったのは、池でも川でも、ましてや庭などでもなかった。
水だ。水の壁だ。
障子を開けたその窓の外に、水の壁がそびえていたのだ。
「は?」
僕は訳が分からず、状況を確認しようとその水の壁に顔を近づける。
そして、僕は、もっと信じられないものを見た。
「――は?え?……な、なんじゃこりゃあ!?」
街だ。街がある――!
水の壁の向こう側に、水に包まれた街がある!
江戸の長屋のような素朴で穏やかな木造の家が、幾重にも重なり、連なっている。
「――」
僕は唖然として水槽の中の街並みを見つめた。
以前テレビで湖底に沈んだギリシャやエジプトの遺跡を見たことがあるけれど、目の前の景色は、まさにそれだった。屋根の上を泳ぐ小魚、苔の生えた柱。藻の生えた道の中を、親指ほどの小さな沢蟹が歩いている。差し込んでいる光は、きっと太陽の光なのだろう。上を見上げると、プールの底から空を見上げた時のように、その光は揺らいでいる。
揺らめく光の帯が、水底の街を静かに照らす。その様は、自分は本当に死んでしまったのではないかと思うほどに、美しかった。
「ここはいったい……」
僕はそっと水の壁に触れる。
「つめたっ!」
3月の始め。雪解け水がようやく土に染みこんできた頃の、谷川のような冷たさだった。7月末なのにこの部屋がこんなにも涼しいのは、この水のおかげなのだろう。
「本当に、水、なんだ……」
僕は指についた水の感触を確かめる。艶やかで粘りのない清水だ。僕は再び水の壁に手を近づけ、そっとその壁の中に手を差し込む。
「冷たい――」
僕は水の中で指を動かし、手を握ったり閉じたりした。不思議と水の中では痛みを感じない。むしろ、痛みが水に溶けていくようで、胸のすく快感を覚えた。僕は腕を水の中から出して、その水を掬う。
「――おいしい。」
濁りも雑味もない、すっきりとした水の味。後からやってくるわずかな甘味を感じ取りながら、僕は深く息を吐き出した。
清らかな水は、僕から不安と焦りを洗い流した。そして僕はもう一度、水の街並みを眺める。
「ここは一体……」
◇
水を飲んだ後は不思議なことに体の痛みを感じなかった。僕はこれ幸いと、調査を開始した。
まず自分のいる部屋の状態を確認すると、どうやらこの部屋は巨大な泡の中にあるということが分かった。そして、水の壁の向こう側は本物の水であり、顔を突っ込んで息をしようとしても、溺れるだけだということも分かった。
次に、僕はこの泡の中から街に向かって助けを求めた。
しかし、応答はない。どうやら声の届く場所に、僕を手当てした人物がいるわけではないようだ。
そこで僕は、この泡から脱出する方法を考えた。ここでいつまでもじっとしている訳にはいかない。身体が動けるようになったのだから、一刻も早くじいちゃんのところに行かなくてはならない。水中に差し込む光の傾きを考えるに、どうやらもう朝8時を回っている。
もし最悪の事態になっていれば――
僕は首を振ってその考えを振り落とす。とにかく戻ることを考えなくては。
脱出する方法として真っ先に思いついたのが、泳いで水面へ出ることだった。太陽光が差し込んでいるのだから、ある程度水面には近いと思った。浮上するだけであれば、そこまで体力も必要ないと、そう思った。
浅はかだった。
勢いよく水中に飛び出し、その勢いのまま溺れた。水面の影すら見る間もなく、息が続かず慌てて引き返した。
「思ったより水面が遠い……」
次に考えたのは、別の部屋までの移動だった。
というのも、その溺れかけて部屋に戻ってくるとき、他にも泡に包まれた家や部屋があるのを発見したからだ。数部屋程度の距離であれば、今の体力でもたどり着ける。
そう思った僕は、今、三つ隣の家で死にそうになっている。想像以上に水が重い。心臓が今にも爆発しそうだ。
「けど、いけない訳じゃない。これを繰り返して水面に近いところにたどり着ければ、水上に出られるはずだ。」
◇
5回ほど移動を繰り返すうちに、僕は街が傾いていることに気が付いた
緩やかではあるが、徐々に僕は坂を上っているようだ。そして、穏やかな水流が存在していることも分かった。幸いにその流れは下から上に、この街を沿うように流れている。
「よし、だったら流れに乗って上を目指すぞ。」
そう意気込んでからさらに15回繰り返したとき、僕は自分のやっていることに自信を失っていた。もうかれこれ数百メートルは移動している。こんなに移動しているのに、水面が見えてこないのはどういうことだろうか。いや、そもそも、ここは僕の知っている世界なのだろうか。家を包むような泡も不思議だけれど、なによりこの巨大な水底の街の存在を、僕は知らない。あの山の近所にダムが建設されたなんて話は聞いたことがないし、そもそもこの街は全体的に江戸時代や平安時代のような、そんな時代錯誤なところがある。それと――
「随分と『精』がすくない……」
藻や魚、カニなど小さな生き物たちの『精』は確かにある。しかし、その数は多くは無いし、全体的に小さすぎる。そして、この沈んだ家の木材から、ほとんど『精』を感じない。たとえ物であろうとも、そこには一定量の『精』が存在している。しかし、ここにある物は全て、その一定量以下の『精』しかない。ここまで『精』の見えない空間は、初めてだった。
「いったい、何があったんだ――」
家の中に、小さな毬がある。色あせてはいるが、まだその形はしっかりと保たれている。持ち上げると、中から綺麗な鈴の音が聞こえてきた。
「……」
きっと、ここには子供が住んでいたんだろう。可愛らしい桜の花を彩った、白い毬。女の子の遊び道具としては最適だ。
――どこの家も生活感がない、綺麗な“無”の臭いがする。
けれど、この毬があるおかげで、この家はいくらか安心できた。誰かが生きた証が、やっぱりここにあるんだと思うと、何故かほっとした。どうやら僕はこの水の底に1人でいて、寂しいと思っているのかもしれない。
たったの1,2時間だ。
けれども、ここはとてつもなく心細いところだと思うようになった。誰かが住んでいたのだろうけれど、その痕跡がまるでない。世界から忘れられてしまった空間。あるようで、ないような、そんな部屋だった。
「――あるようで、ないような――」
僕は毬を持ったまま、次の目的地を定めようと足を踏み出す。
と――
「!?」
柔らかい感触。続いて、踏み出した足の先から、一気に体重が下に抜ける。
床を踏み抜いたのだ。
何度も移動を繰り返している間に、注意力が散漫していた。そのせいで、僕は泡の外に放り出されてしまった。
まずい。
空気を十分に吸う余裕がなかったせいで、体に力が入らない。
それに、疲れも取れきっていない。
体が言うことを聞かない!
見る見るうちに、さっきまでいた部屋が遠ざかっていく。僕は歯を食いしばり、腕と足を懸命に動かす。しかし、もがけばもがくほど、空気は体から薄れ、体は沈んでいく。
そして、沈んでいくさなか、ようやく僕は気が付いた。
そう、僕は沈み続けていた。
床の下にあったのは大地ではなく、果てしない水の塊だったのだ。さっきまでずっといたあの街は土の上に建っていたのではなく、板の上に存在していたのだ。筏をつなぎ合わせた土台の上に、街は存在していたのだ。
僕は焦った。
あの街の下は、底ではなかった。
それが僕の心を恐怖のどん底へと突き落とす。怖くて背後を振り返ることができない。もはや先ほどまでの部屋にたどり着くことはかなわないけど、それ以上の決定的な恐怖を突き付けられる気がしたんだ。
今なお街の遥か下へと沈んでいるこの感覚だけで、もういっぱいだ。これじゃあどうあがいたって、水面どころか空気にすらありつけない!
「――」
身体の空気を使い切り、僕は水の重みに負けた。
薄れ始める意識の中で、僕は遥か上空を見上げる。もうそこに日差しはない。街によって太陽の光は遮られ、暗い天井が広がっている。
何を、やっているんだ、僕は――
じいちゃんを助けようとして、なんで知らないところで僕は溺れているんだ。あのままじいちゃんとハクと、一緒に叔父さんを待っていればよかったんじゃないのか。
でも、それでも、あの時動かなかったら……
右手に、冷たくなった両親の手の感触が甦る。
ああ。
どうすれば、あの天井の向こうに辿りつけるんだろう。
どうすれば、助かるんだろう。
僕は――
どうすれば、いいんだ――
「面倒くさい客だ」
声が、した。
渓流のように瑞々しく、清らかで強い、澄んだ声。春の小川のように穏やかで冷たく、それでいて海のように深く美しい声だった。
その声が聞こえるや否や、僕の体は不自然に上昇する。
背中を突き上げる巨大な水圧。滝に打たれた時の衝撃を感じながら、水を切る振動が骨に伝わってくる。みるみるうちに街の底が近づき、そして――
「ガハッ!」
僕は、踏み抜いた部屋へと押し戻された。
肺と胃から水を吐き出し、僕は床に倒れ伏す。
「――ゲホッ、た、助かった……」
僕は空気をこれでもかというほど吸い込み、全身に酸素を送る。そして安堵の溜息が出るほどにまで落ち着いたとき、僕の背後から、あの声がした。
「――まったく、次から次へと面倒ごとを起こしてくれる。
どうしてじっとしていられないんだ、人間って生き物は……」
人生を変える出会いを、人は“運命”と呼ぶのだと、いつか千恵が言っていた。
であるならば、この時が間違いなく、僕の“運命”であろう。
中学最後の夏休み。
その始まりに、僕は、彼女に出会ったんだ。