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水源京  作者: 猫山英風
24/33

第23話


「神霊?」

「そうだ。生きながらにして『精』を操る術を持つ者。それが神霊だ。」


 千恵はわたしが差し出した茶をすすりながら答えた。


「『神霊』は生きているうちに自然となっているものだ。だがまぁ、汝の場合はそれとは違うな。」

「違う、のですか?」

「ふふふ。そう堅苦しくなる必要はない。」


千恵は数百年以上を生きた“神の目”を、私に向けた。


「汝は、神の精に中てられたのだろう。」

「中てられた?」

「ああ。現象から誕生した神と呼ばれるモノたちは、この世に生きるどの生物よりも“命”に()()、また最も“生き物”から()()存在だ。そういう存在に、触れているとその精を帯びる。」

「……?」

「まぁ、わからなくていい。いずれそう感じる時がくるだろう。」

「では……」


わたしは疑問を口にした。


「神霊とそうなる前とでは、大差はないのか。――よかった。」

「ふん。」


 部屋の真ん中で蹲っていた銀狐が、不意に声を上げる。その瞳はあきれたような、あざ笑うかのような濁った眼をしていた。


「そいつはどうじゃろうなぁ。()()()()()()。なにせ、(わらわ)がお主を喰わんでもよいと思ったほどじゃ。相当に()()とおもうのじゃがのぅ。ククク。」

「……」

「……お銀、それは自分への当てつけか?」

「!!――ッチ。」


 わたしは彼らのことがよくわからなかった。二人がどんな仲なのか、とかそういうこともそうだが、存在自体をよく理解できなかった。


 彼らはまた来ると言った。そしてその宣言通り、何度もこの水源京に足を運んだ。

お銀と呼ばれた銀弧は、雌だった。最初雄だと思っていたことを知られたときには天が割れるのではないかというほどに怒らせてしまったが、それ以外は普通だった。随分と口は悪かったが、()()()()ではない。過去に何か人間とあったようだが、それが何かはよくわからない。けれど、それでも彼女は『妖』のような類ではないと、何度か会ううちに分かるようになった。

 千恵は賢者だ。わたしに様々なことを教えてくれた。『術』の使い方、神・神霊・妖精・霊のこと。わたしは精を操り、そして『精を感じる術』と『癒す術』を身につけた。千恵曰く、


「汝は染師であったからな。自身の精を他の命や物に染みこませることが出来るのだろう。そして精は嘘をつかぬ。その『術』は神霊自身の心根に依存した効果を必ず持つ。

――汝は優しい。()()()()()のだ。故に、その心根がお前の『術』へと反映・昇華されたのであろうよ。」


ということだった。


「優しすぎる――か……」


 彼女はそう言ったが、そんなことは、ない。

そんなはずは、ないんだ。

わたしは、わかっている。

確かにお菊を助けたかったのは事実だ。だけど――

もう決して実らない想いを捨てるために、「人柱」という口実をつくっただけだ――

ただ、諦めただけなんだ……。


 だからだろうか。

千恵が話してくれた己の見聞きした、もしくは自身の摩訶不思議な体験談。その中でも、「音」を頼りに何度も逢瀬を繰り返す二人の恋人の話が、わたしは特に印象に残った。

 それは千恵が経験したことの中でも非常に不思議な体験であったそうだ。何度も何度も生まれ変わっては、相手の奏でる「音」に惹かれ、二人は逢うのだそうだ。年の差も身分の違いも何もかも関係なく……


「……ではその二人は、一緒になれたのか……」

「ああ、毎度な。」

「そう、か……」

「不思議な生き物よなぁ、人とは。“何故何度も出会うのか”その理由を知りたいかと問うたら、あの二人はきっぱり断ったのだ。」

「……」

「この世には原因と結果がある。どんな物事にも理由があるのだ。それを一番理解できる生き物だというのに、人はその理由を不要とするのだ。ふふふ。『想い』とは、なんとも奇妙な存在よ。

……汝もそうは思わないか?お銀。」

「フン。……妾には――関係のないことだ。」

「そうかな?」


千恵は瞳を閉じて口元を緩ませた。

 その淡い微笑みが、わたしの心をくすぐった。口元は紡がれているのに、わたしにその口は何かを語っている。


「……な、なぁ、千恵よ。」


わたしはたまらなくなって千恵に尋ねた。


「なんだ?」

「お、お前は、神霊の中には、住む場所から出られないものもいると言ったな。」

「……ああ。言ったな。」

「わたしは、出られるだろうか?」

「うん?」

「この水源京から、わたしは……出ることが、できるだろうか?」

「――」


千恵は小さく微笑み、言った。


「ああ、そうだな。水の精を操る術はもう十分だろう。であるならば、あの池から、きっと外に出られるはずだ。」

「そうか!」


わたしは喜び、同時に胸を締め付ける“不安”を感じたことを、今でも覚えている。


「……おぬしは、会いたい人物がいるのか?」


 お銀の低い言葉に、わたしは答えた。


「それは……分からない。」


お銀はゆっくり体を上げ、わたしに尋ねる。


「……今更会いに行って、何とする。そもそも、おぬしの村がどこにあるかなんぞ分からんのじゃぞ。少なくともここ――水源京がある地は、お主のいう村とは別の場所だ。たとえ出て行って探し出せたとして、何をしようというのじゃ。」

「……ああ。そう、だな。もう、きっと会ったところで何も変わらない。今更なにをしたって……彼には会えないし、一緒になることだってできやしない。菊になんと声をかければよいのかも、分からない。

 フッ。――それにあの後、二人がどうなったかなんて、容易に想像がつく。

何もできないし、なにができるのかも分からない。得体のしれぬ不安もある。けれど――」

「けれど?」

「理由は分からないが……“会いたい”とは、思うのだ。」

「……」

「それに、他の理由も、なくは――ない。」

「他の理由?なんじゃ、それは。」

「――外の世界を、観てみたいんだ。」


 わたしは、その時もなお憧れた。()()()が語って聴かせてくれた、あの美しい世界を。

宿舎から見る富士の峰。遠く離れても聞こえる川のせせらぎ。

人でにぎわう江戸の街並み。面白き見世物に不思議なたべもの。

そして、夜に咲く菊の花――

そういったあの人が見た世界を、あの人が体験した人の営みを、わたしは見たかった。

自由な世界に、足を踏み入れたかった。

 

 わたしの言葉に、千恵は瞳を閉じて小さく言った。

 

「そうか。ならば……」


汝が思うように、するとよいだろう。





 何年振りに蝉の声を聴いたのだろうか。

何度も浴びた照り付ける太陽の日差し。

嫌というほど嗅いだはずの山の土の匂い。

深緑の息吹が充満する空気。

それを、わたしは肺一杯に吸い込んだ。

聞こえるもの、見えるもの、肌に感じるものすべてが懐かしく、そして新鮮だった。


「これが、水源京の――」


 わたしは池の中心に立っていた。深さは腰ほどしかないが、水源京は何本もの木々を取り込めるほどの大きな泉だった。この泉の下に10年近く住んだ都があるのかと思うと不思議だった。


「出られ――る。」


踏みつけた土の柔らかい感触。落ち葉が足の裏をちくちくとつつく。

わたしはその感触を楽しみながら、山を駆け降りた。

出られたことに、外の世界に触れたことに、高揚した。

年甲斐もなく、はしゃいだ。


そして、山の中腹から、わたしは村を見つけた。


ああ。

あそこに行けばわたしの知らない人に出会える。

あの人が体験したことと同じことができるのだと、そう高ぶった。



そう、本当に、情けないことに。





 わたしは見る物すべてに目を奪われた。

綺麗に整えられた小道。

小麦を引く水車。

青々とした田畑。

そして、乾いた木肌の家――。


見ているだけで涙が出てきた。

やっと、じぶんの知る――そして知らない世界に、触れることができたのだと。そう思った。


「すみません、どなたか――という村をご存じではありませんか?」


わたしは、自身の村の名を口にした。だが、村の人々は皆顔を見合わせるばかりで、一言もなにも口にしなかった。


「すみません、どなたか――という村をご存じではありませんか?」


わたしは気づかなかった。

村に入ったときの周囲の視線に。

わたしが踏み入ったことで生まれた、その村の不穏な空気に。

わたしは、“私”が何であるかを、分かっていなかったのだ。

それなのにわたしは、わたしがしたいことで頭がいっぱいだったのだ。


「あの、すみません。」

「はぁい。」


ある家で見かけた女性が、ようやく言葉を返してくれた。だからわたしは、村人に言い続けた言葉をその女性にも言った。


「すみません、――という村をご存じでは――」


 その時、やっと気が付いた。その女性はわたしを見るなり顔から笑みを失い、その肌は見る見るうちに血色が悪くなった。そして――


「あ、ああ……あああ!だ、だれか、だれかきておくれ!!」


 最初は分からなかった。

なぜこの女性は腰を抜かしているのだろうか。

何故怯えた顔で、わたしの顔を見ているのだろうか。

でも、それはすぐに分かった。

鏡に映った、自分を見て。

 そこにあったのは、およそ人とは言えないモノだった。

髪が、顔が、体が、透けていた。映っていたのはぼんやりとした「私」の輪郭だけで、まるで湖を覗き込んだときに見える湖底のように、背後の景色が揺らいでいた。

そこには、人間はいなかったのだ。



「お、お化けだ。幽霊が出たよ!」




「そっちへ行ったぞ!!」

「捕まえろ!あんな化け物がうろちょろしてたんじゃおちおち寝られねぇ。」

「探し出してあの酒屋の元へ連れて行こう!あの家の者ならば悪霊を退治する術を知っている!」


わたしは走った。

ただ、その()()から逃げるために。


「追い詰めたぞ!」

「――!」


村人たちは手に鎌や鍬をもち、わたしににじり寄った。その瞳にあったのは恐怖だ。何か分からぬものに対する恐怖。その瞳が、わたしの体を突き刺してくる。

そして一人の男が一歩私に近づいた時だった。



“邪魔じゃ”



全身の毛がよだつような冷酷な声が響いた。空気は一瞬にして凍てつき、村人たちの顔に影が差す。


「う、うわぁああああ!」

「ば、化け狐じゃぁ。」


村人たちの頭上に現れたのは、家を踏みつぶせるほどの巨大な体をした銀弧だった。


「おぎ――」

“黙っておれ。行くぞ”


お銀はわたしを咥え、自らの背に放り投げた。


“どけ。人間ども!”




「ふん。ここまでこれば奴らも追っては来ぬ。ここは千恵の()()()()()()


 山の匂いがした。人の匂いなど一切ない、土と木々と獣の匂い。

その中心で、お銀は言った。


「……どうした、翡翠。はやく降りぬか。」

「うん……」

「……立てるか?」


わたしを覗きこむ彼女の瞳に、今にも泣き出しそうな一人の少女が映っていた。

その少女の姿に、わたしは耐えられなくなった。


「なぁ。お銀。わたしは、何がいけなかったのだろうか。」

「……」

「なにを、間違えたのだろうか。」

「いや……。お主は何も、間違えてはおらぬよ。ただ……人とは、ああいうものだというだけだ……」

「そんな――」


 わたしは絶望した。

わたしが憧れたものは、わたしが夢見たものは、そんなものだったというのか。

あの人が見た世界は――あの人が出会った人たちは、あんなものだというのか……


「――いや。いいや!違う!

違う、はずだ!違う、はず――なんだ……

あの人が見た――わたしの憧れた人の営みは、あんなものでは――」

「翡翠……」

「なぜだ、お銀。なぜ、わたしは――わたしは!同じ人であるものからこのような仕打ちを受けねばならぬのだ!なぜ――わたしは……

このような、姿なのだ。」


お銀は言った。


「妾達は神霊。決して元には戻れぬ命の極地に至る者だ。決して、元の『生き物』とは同じではない。山に住まう生き物はそれを大して気には留めぬ。だが――」


銀弧の瞳が、再びわたしを映した。


「人間は違う。」

「――」

「人間は、自分たちと違う存在を忌み嫌い、恐れる。そして例えソレが関わりを持とうとしていなくとも、人間たちはソレを無条件で恐れ、迫害する。人間とは、弱く浅はかであさましく、愚かで自分勝手な生き物だ。

……故に、妾達神霊と人間は決して相容れぬ存在なのだ。」

「……」

「だが――」


お銀はまっすぐわたしを見つめた。


「だが――お前がそれでも、人の営みに触れたいというのなら、人でいたいというのなら、その記憶を、想いを残せ。」

「記憶を……?」

「そうだ。我ら神霊は、記憶を失う。それは神霊によって個人差があるが、忘却などという甘いものではない。消失だ。」

「消失――」

「その記憶の全てを一切合切、忘れるのだ。大切な思い出も、自分のことも、忘れたかった過去も関係ない。裁定する枝葉のごとく、一切なんの脈絡もなく、己の記憶からその記憶は断ち切られる。

もしもお前が人でありたいと願うなら、その願いを忘れるな。

逆に人でなくて良いと言うのであれば――その記憶を失うがいい。そちらの方が、楽だ。」

「そんなの――」


 お銀の言葉に、わたしは言った。

決まっている。

あの人の見た世界は――人の営みは、きっと、美しいものだったに違いない。

わたしは、それに憧れたんだ。

それだけが、あの人とわたしを唯一同じ方角へ向かせてくれるものなんだ。


それだけは――忘れたくは、ないんだ。



 故に、わたしは今筆をとった。己の思いも日々の暮らしも綴るために。

お銀は言った。生誕の日を忘れるなと。もしそれを忘れた時、わたしから記憶がなくなり始めた時だと言った。

 わたしの誕生日は、9月1日だ。

本当の生誕の日は、捨て子であったために分からない。親方がわたしを拾った日、それがわたしの生誕の日となっている。

この日を忘れた時、わたしの記憶が、消えていく。


……




 神霊となってからこの体は忌々しくも年を取らない。だから、わたしは外に出ようとも思わない。時が経てば何か体に変化があるのかと思ったが、何も変化はなかった。

こんなのでは、また同じことをされるだけだ。

同じように、わたしの憧れた世界と違う現実を突きつけられるだけだ。

そんなのは、いやだ。

だから、わたしはあの日から50年、一度も外には出なかった。


だというのに、今度はその現実の方から、わざわざわたしの元へやってきた。



「術者……」

「さようでございます。私めは第43代目が天道家当主、天道(つるぎ)と申します。」


この水源京には、あらゆる生き物がやってくる。それは、人間も例外ではなかったらしい。

とはいえ、このような異界にやってくる「人間」は普通ではない。私の元にやってきた人間は、術者と呼ばれる神霊の力を借り受けてなんらかの力を行使する、怪しげな者たちだった。


「此度は千恵殿の()()()がいると聞いて挨拶に来た次第でありますれば、何卒()()()()()()()()、神霊の力をお借りしたく……」


 わたしは、水源京にやってくる術者の話しに耳を傾けなかった。

彼等と話をしていると、自分がいかに“人間ではないか”を突き付けられる。

――やめてくれ。

そんな話を聞けば、ますますこの足は重くなる。外の世界に、足を運ぶ気が失せる。



「何ダ、翡翠。お前、何かしたいことがあるのカ。ならば何故それをせヌ?」


神である雨音は、わたしに言った。


「雨はすべての地に一様に振るが、どれも同じではなイ。全て同じなど退屈ダ。たまには全身を地に打ち付けたいと、そう思う時もあル。気持ちいいゾ、台風とカ。なのに、100年もこの都に住むだけではつまらなくないカ?」


 いつしか、わたしは怖くなっていった。

現実を見ることが嫌だっただけのわたしは、現実に触れることが恐ろしくなった。

その一方で、情けのないことに憧れは募るばかりだった。

 100年経って、その想いは降り積もった埃のように私の心の中にたまり、わたしを苛立たせる。

わたしは、あの時諦めたはずだ。

人柱になると決めた時に、人間としての生を失うと決意した日に、もうその憧れには手が届かないと、諦めたはずだ。


なのに、なんで、人ならざる神霊という存在に成り果て、その諦めたはずのものに手を伸ばそうとしているのだ。

なぜ、手が伸ばせる機会を、“神様”はわたしに与えてしまったのだ。



術者が訪れるようになってからだ。

気が付いたら、日付を書くことすら億劫になっていた。

この日記に向かうたびに、わたしの中で埃が舞う。わたしの神経を逆なでする。

もういい。もういい。

日記を書くのは、やめにしよう。




愚かだ。

愚かすぎる。

わたしは、何故今日もまた筆を手に取ったのか。

やめるといって、何故毎日書いているのだ。

もう、もういい。もう書きたくない。

なぜこの苦しみを毎日わたしは続けているのだ。

もう、わたしは人間ではないのだ。

こんなことをしても、人間には戻れないんだ。

人間の世界では、人間の生活には、触れることはできないんだ。



やっと、と言うべきなのだろうか。

それとも、とうとう、と言うべきなのだろうか。

その日が来てしまった。

わたしは、誕生日を忘れた。

思い出せない。どう頑張っても思い出せない。

いや、そうじゃない。そもそも、誕生日という言葉が指す時期が何なのか、その意味があいまいになってきている。

それを考えようとすると、まるで他人事のような感覚に襲われる。

そうだ、きっとこのままいけば、彼もお菊のことも忘れて、こんな苦しみからは――



いやだ。

いやだ。

いやだ。いやだ!

忘れたくない。

忘れたくなんかない!

彼との思い出を、お菊との思い出も、忘れたくない!

わたしの、わたしが、人間だったことの証を、忘れたくない!


わたしは、人間だったんだ。

だから――



着物の染方が曖昧になった。

人間であったころにしていたことを久々にやってみたが、わたしは染物の染方を忘れていた。唯一、浅葱色の染方だけは覚えていた。

彼が、褒めてくれたこの染方だけは。


けれど、染めてもこの着物には行き場がない。

都に住む者に与えたが、特に何も――


感じなかった。



日記に向かうのが怖い。

書こうとするたび、過去を思い返し、何かが消えていることを認識する。


いやだ。

忘れたくない。

それでも、何かを忘れている。

今日、わたしは、親方の顔を忘れた。

わたしを16になるまで育ててくれた親であった存在の顔を、忘れた。


明日は、何を、忘れるのだろうか。



今日、私は、名前を忘れた。

あの人――いや、彼?だったか……の名前だ。

友の名前だ。

絶対に忘れたくなかったということだけは覚えている。

けれど、その二人の名前を、わたしは忘れた。


ああ、「あの人」とは、一体、誰だったのだろうか。



何時からだったのか、私は姿が変わっていた。

髪の色は群青に染まり、その先は水に溶けている。黒かった眼は海のように濃い藍色となっていた。


「……前の姿は、なんだったけ……」



住人が減り始めたのは、神霊になって250年だったか、300年だったか、たぶんそんなもんだ。

水源京は収縮し始めた。

水が、雨が、()()()()()()()せいだ。

よく考えたら、雨音が訪れる機会が減っていた。

この水源京も、終わりが近いのかもしれない。


そう、私の長すぎた生涯も、ようやく終わるのかもしれない。



何時からだったのか、お銀は山を離れ、どこか別の地へ行っていた。

相変わらずどういうカラクリかは分からないが、動けないはずの千恵がたまに顔を見せにやってくる。


「翡翠、汝は――外には出ないのか?」



千恵の問いに、私は答えた。


「何故だ?私は()()だ。もう、今更――



――何も望むことはない。




「やめろ!!!」


 視界が歪み、水墨画の映画はその声と共に消えた。代わりに、悲痛に顔を歪ませる翡翠が僕を見下ろしている。


「あ……いや、その――これは……。ごめんなさい!」


 僕は頭を下げた。

人としてやってはいけないことを、した。

人が見られたくないと感じるものを、僕はこじ開けてしまった。それに言い訳を挟むことはできない。

けれど、彼女が300年もの間胸の内に秘めていたものを勝手に盗み見た罪は、そんなことでは許してもらえるはずがなかった。


「――出て行け。」


僕はその声に顔を上げる。

彼女は今にも泣きそうな顔で僕に言った。押し殺すように、そして、必死で願うように。


「――出て行け。もう、私の前に、現れるな。」


読んでいただき、ありがとうございます!!

次回は今週末予定です!

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