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水源京  作者: 猫山英風
22/33

第21話

大変長らくお待たせしました!


「翡翠。息災だったか。」

「ええ。もちろん。清次郎さんこそ、江戸はどうだったの――ですか?」

「いやぁ、毎度のことながら驚かされる。行くたびに街は華やかに、人は活気にあふれていたよ。そうそう、そば屋に今まで見たこともない食べ物があってな。“てんふら”と言うのだが……」

「てんふら?」

「ああ。その“てんふら”というのがとってもうまくてな。こんどお前にも食べさせてやるからな!」

「へぇ。それは……楽しみだなぁ。」


あの人は、憧れだった。

それは覚えている。


どこまでもまっすぐで、自分に正直に生きるその姿に、憧れた。

そして、どこまでも自由に生きていける彼が、心の底から羨ましかった。


 侍のお勤めは厳しく、苦しいものだ。

それは商人であるわたしには到底理解することなど不可能なほどに、苦難に満ちているのだろう。

けれど、ただこの村で藍染をすることしかできないわたしにとって、彼の過酷な江戸への参勤交代(おつとめ)ですら、渡り鳥が羽を広げて飛び立っているように見えていた。


「ねぇ翡翠、私の家でお武家様の御召し物を仕立てたことは覚えているわよね。」

「ん?ああ、もちろん覚えているさ、(きく)。私の藍染なんかを使ってくれて感謝している。それで、なんだい?もう少し数を増やした方がよいのか?」

「まぁ、翡翠ったら!すぐに仕事の話になるんだから。」

「えっ!あ――いや、その……!」

「ははは。翡翠らしいな。」


 あの人はそういっていつも笑顔を見せる。

わたしは恥ずかしかった。親方と一緒にいるせいで、“女の話し方”を忘れてしまった自分をあの人に見られるのが。特に、菊と一緒にいる時は尚更だった。

 お菊はわたしの無二の親友だった。身寄りのなかったわたしとは違って、機織りの大商人の娘。蝶よ花よと育てられた、初々しく無邪気で優しい女の子だった。子供のような明るさを持ちながら、話口調はしとやかで、作法や学問にも詳しいという、清楚にして才女。その手や首は、雪の上に敷き詰められた桜のように美しい。藍染で青くくすんだわたしの手とは大違いだ。

 それでも、彼女はその家柄にとらわれることなく、わたしに友として接した。なぜこのような誰の子かもわからない、捨て子であったわたしと友達になろうと思ったのかと聞くと、


「理由?別にないわ。だって、私は翡翠と友達になりたいんだもの。そう思うことに、なにか特別な理由が必要なのかしら?」


と、答えた。

 随分と自分勝手な理由だと思った。けれど、不思議と――不快ではなかった。


「えと、それで?菊、仕立てがどうしたって?」


 わたしの言葉に、彼女はクスリと肩を揺らす。


「だからね、その仕立てをしたお武家様たちとお食事を開くことになったの。」

「いつも我ら天道家は柳屋に世話になっているからな。その礼を込めて宴を催したいと、そう主君――我が父上が申してな。」

「へぇ。それはすごいじゃ――わね。」

「でね――」

「その……お前も参加しては貰えないか、と思ってな。」

「えっ!?」


 あの人の言葉にわたしは高揚し、そして不安に思ったことを、今でも覚えている。


「いやいや、その、何故わたしなんかを?」

「翡翠、お前の手にかかればどんな染物も自由自在だ。翡翠の染める藍染は一切のムラもなく、色落ちせず、そこいらの染師じゃ作れない一品だ。もしお菊の着物を着るのであれば、その染師にも礼を尽くすのが筋だと、そう思ってな。」

「私もそう思って、もうお父様にも天道様にもご報告したわ。もちろん、快諾して頂いているわ。」

「えっ!いや、そんな勝手に!?」

 

わたしは慌てた。お菊が仕立てる「お武家様」とは清次郎さんの御父上や家臣一同のこと。そのようなわたしとは身分の違う方々と一緒に食事をするなど、恐れ多くてとてもじゃないが箸など動かせるはずがない。

 わたしは辞退しようとした。あの人が私を認めてくれていることはうれしかったけれど、そんな人たちの前で無礼を働いてしまいそうで、わたしは少し怖かった。


 そんなわたしに、あの人は言った。少し困ったような顔をして、言葉を詰まらせながら。


「その……翡翠は――俺と一緒に出るのはいやか?」

「まさか!そんなことあるわけな――」


わたしは顔を背けた。自分の放った言葉に、強烈な熱を感じた。


「ふふ。翡翠、あなたの手にかかればどんな染物も自由自在だけれど、自分の顔の染方だけは思い通りにならないのね!」

「ちょ、やめてくれ、菊!」

「ふふふ。それじゃあ、宴は明後日の夜だから、支度をお願いね。」

「む、むぅ……」


 その時ちらりとみたあの人の顔は、とてもにこやかで、とても恥ずかしそうだった。



「ふぅ……」


 わたしは一人、戸を閉め切った小さな部屋の隅に座していた。

親方とともに宴会に出ては見たものの、案の定その空気に耐えることが出来なかった。箸が全く進まない。料理そのものはそれまで食べたものなかで最も美味だったことは確かだ。けれど、それ以上にここの荘厳な空気に押しつぶされそうで、席に座っていることができなかった。

 それに、妙な焦りと痛みを感じた。

天道家が柳屋を招待しているのだから、それは当然だし、あの人とお菊が正面で向かいあうことなど何も問題はないのだ。ただ、末席からそれを眺めている自分が、どうしてこんなに胸が痛んでいるのか、よくわからなかった。

 

「なにをやっているんだ、わたしは。」


 わたしは一笑し、腰を上げる。と――

 

「いやぁ、それにしても柳屋の着物はいい。肌触りが違う。」

「まったくだ。」


 厠帰りの侍だったのだろう。障子の向こう側に、月の光に照らされて影が映し出された。二人の侍は歩きながらたわいもない会話をしていたのだ。

 わたしは部屋から出るのを止めた。いまここで出て行ってもなんと挨拶するべきなのか分からない。


「だが、これはちょっと何とかしてもらいたい。」

「ああ。この色だろ?」


――


「浅葱色は田舎者の証。江戸でこの色の着物を着ていては街の者に嗤われる。」

「清次郎様はこの色を大層お気に召しておられるようだが……」

「とはいえ、次期当主が田舎者とあざけられてはなぁ。」

「まったくだ。なぜこのような染物をつくる、身元の分からぬ女染師なんぞを雇っているのだ、柳屋は。」



 わたしは愚かだ。

なるべく安く済ませようと、大量の着物を染め上げるのに、もっとも安価な素材を選んでしまった。江戸の流行を抑えてなどいなかった。間違いなく田舎者がつくった染物だ。

 何が一流の染師だ。染物の流行も分からないような者など、三流だ。そんな三流の染師がつくった織物を、わたしは平然とお菊に、そして清次郎さんに献上してしまった。皆の顔に、泥を塗ってしまった。

 わたしは恥ずかしくて悔しくて、宴会にはいられなかった。


あの人が田舎者と笑われる要因を造ったのはわたしだ。


 それが悔しくて悲しくて、わたしの足はどんどん歩みを早くする。愚かな失態をした自分が、会場に居られるわけがない。早くその場から遠ざからなくてはいけない。

わたしは何も言わずそのまま会場を後にし、山道を速足で上る。

月は冷たく、無慈悲に私に影を落とした。その影を睨み付けながら、私は歩き続けた。


「ばか。ばかばかばか!」



 そうして山村の中腹まで来たとき、背後から声が聞こえた。


「翡翠!」


振り向くと、額に汗を掻いたあの人がいた。


「や、やっと追いついた。」

「な、なんで――」

「いや、なかなか戻ってこなかったから。具合でも悪いのかと様子を見に行ってな。そうしたらどこにもいないし、草履もなかった。ながら、きっと外に出かけたのだろうと思って。お前は、不安になると風に当たるからな。」

「――」


 わたしは黙った。

その顔は明るく、屈託のない穏やかな笑みを浮かべている。それは作り笑いではないし、本心からきたものだろう。けれど、それが本心であるからこそ、どうしてわたしが出て行ったのか既に知っていると、その笑顔はわたしに告げていた。

 武家の跡取りが一人の商人の娘を追いかけてくるなんて、普通じゃない。そんなことをする必要はないし、そんなことをすればお家によからぬ噂が立つ。そうわたしは言ったが、あの人は笑って言った。


「あははは。では、よからぬではなく、めでたい噂にすればよいのではないかな。」

「それは――」


あの人はわたしの前に立つ。その澄んだ瞳が、わたしをまっすぐ見つめていた。


「翡翠。私はお前が――いや、あなたのつくる染物が好きだ。この世のどんな豪華絢爛な、流行に乗せた美しい着物よりも、あなたが染め上げたこの着物が好きなのだ。浅葱の染物が田舎者など、それこそ愚かな意見ではないか。何故なら――」


あの人は、わたしに微笑んだ。


「あなたの浅葱色は、春先の空のように爽やかなのだから!」

「――!」

「春の空の風情を分からぬ者など、気にする必要はない。それとも翡翠。あなたは私の言葉よりも、顔も知らぬ江戸の者たちの意見を気にしてしまうのですか?」

「い、いや、そういうわけでは。」

「では、誰でもない――この私のために、着物を染めてほしい。」

「!?」

「私が今後跡目を継ぐときの装いも、私の子や孫の着物も、普段着も、あなたにつくっていただきたいのだ。この私が一生涯着る着物を、私の傍で、あなたに染めてほしい。」

「それは……」

「私はあなたの染物が好きだ。仕事に真摯に打ち込むその姿が好きだ。その強き眼差しが、好きなのです。ええ、わたしは――」


あの人は、私に言った。


「あなたを、愛しているのです。」


 わたしは、あの時何を言ったのかよく覚えていない。震える体からまともな言葉など出るはずもなく、わたしはきっと赤子のような声をはっしていたのだろう。そんなわたしに、あの人は懐からあるものを取り出して私に見せた。


「これを、受け取っては貰えませぬか。」

「これは……」


それは、(くし)だった。黒漆の表面に細やかな螺鈿(らでん)と金箔による装飾が施された、手の平程の美しい髪飾りだった。


「私はあなたと生きてゆきたい。朝目覚める時も、日中の語らいも、あなたと共に過ごしたいのです。そしてあなたにこの村の外の世界を見せたい。富士の白き霊峰も、掛川の川渡りも、そして江戸の街並みを、あなたに見せたい。いや、ともに見たいのです。ここではない空の青さも、一面に広がる黄金の稲穂も、夜の江戸に咲く花火も……あなたと共に見たいのです。」


そしてあの人は動揺するわたしに言ったのだ。そしてわたしは、その言葉にどう返事をしたのかを覚えている。今思えば、身分が違うことも、自分がしでかした失敗のことも、何もかもを忘れた浅はかな小娘の発言で、なにを言っているのだと一蹴したくなるほど恥ずかしいものだ。けれど、あの人の言葉はどんな賛美よりも強く、そしてうれしかった。


「私と、夫婦(めおと)になってくれないか。」




けれど、そんな幸せが、許されるわけがなかった。



 当然あの人の父である天道家の当主は反対した。やはり、というか当然なのだが、もしも妻にめとるのであれば、お菊にせよと当主は言ったそうだ。しかし、あの人は頑として首を縦に振らなかった。

 それはわたしにとってうれしかったが、同時に心苦しくもあった。どう考えたって、あの人に似合うのはわたしではない。それこそお菊のような女性らしい女性が、あの人の傍にいてようやく釣合がとれるというものではないのか。そう思うとあの人に申し訳なく、そして同時に悔しくもあった。

 あの人はそれでも、誰もでもないわたしが好きだと言ってくれた。どこまでもまっすぐに、どこまでも強くわたしを見た。

 お菊は最初から全てを分かっていたようで、わたし達を支えるとにこやかな笑みを浮かべていた。

 わたしはとても恵まれていた。あの人のように村の外に出て行くことはできないけれど、わたしの周りには、わたしを支えてくれる人がいたのだ。わたしを支えてくれる友人がいたのだ。それは、わたしにとってかけがえのない存在だった。


 だから、あの人との祝言が認められずにずるずると過ぎ去る日々の中で、その話を聞いたとき、私は迷わなかった。


 八月のある日のことだった。連日の豪雨は田畑を池に、道を川へと変え、山肌を削っていった。何人もの村人が流行り病に倒れ、死んでいった。

 そしてお菊も彼も、その病に伏せてしまった。


「一体どうすればよいと言うのだ。」

「医者にはこれ以上どうすることもできないと。」

「やはりこれは神の祟りであろう。昔からこの付近では天がお怒りになるとこのようなことが起きてきたのだ。」

「もはや――伝統通り、神の怒りを収めるしかあるまい。」


 この村には、人の手には負えない災いが降りかかった時、人柱を立てる風習がある。

そのようなことをする村が少ないのか多いのかは分からないが、わたし達にとってそれは()()だった。

人柱は順番に回ってくる。

身分も家柄も関係なく、皆分け隔てなく人柱になる可能性を持っていた。普通は罪人などを人柱にするというが、この村に罪人などいない。だから、順番制だった。


そして、その年は柳屋がそれに当たったのだ。


 お菊はわたしに言った。


「私の命ひとつで皆が救われるなら、安いじゃない。」


と。

病に伏せる彼女の声は小さく、手は熱く、そして震えていた。


「――だめだ。」


わたしは言った。菊の命は、他の誰よりも重いのだと。彼女には才能がある。知恵がある。風情を理解する教養もある。そんな明らかに未来ある命が、軽いはずがない。少なくとも、染物しかできないわたしよりは、重いのだと、そういった。


「お前がいなくなると皆が悲しむ。――けれど、わたしが居なくなっても、誰も悲しまない。」

「――何を、言っているの?」

「わたしは浅葱色の染物を提供してしまった。皆に迷惑をかけたやっかい者だ。そんな奴がいなくなったところで、誰も困りはしないだろう?」

「やめて!」


起き上がろうとする菊を、わたしは肩を抑えて言った。


「お前はわたしの無二の親友だ。わたしはお前がいない世界では生きてはいけない。お前の命で救われるのは、わたし以外の者だけだ。たとえお前のおかげでお天道様が見えたとしても、明日を迎える度にわたしの心に雨が降る。お前のいない世界で生きていく意味は、わたしには、ないんだ。」

「だめよ!翡翠、あなたには――あなたには、清次郎さんがいるわ。あなたが死んだら、清次郎さんが悲しむ!それに、あなたが死んだら――死んだら!わたしの心に、雨が降るわ……」

「わたしは……あの人――いや()とは、一緒にはなれないんだ。上様は彼とわたしのことをお認めにならない。それに、お菊。お前の雨は彼が止ませてくれる。お前には、多くの人が付いている。」

「まっ――ゴホッ!そんなことはないわ!だめよ!あきらめちゃ!あの人は、あなたを愛している。あなただって、あの人を愛している。それに、あなたは言っていたじゃない。村を出ていろいろなものを見たいって、いろんな場所に行ってみたいって!それは、それはどうするの!?」


わたしは、わたしが持つべきものではないものを咳き込むお菊の手に握らせた。


「……!翡翠、これは!」

「菊、いったじゃないか。わたしとどうして友達になろうとしたのかって聞いたときに、『理由はない』って。」

「翡翠、だめ――」

「理由?別にないよ。だって、わたしはお菊を助けたいのだもの。友達を助けたいと思うことに、なにか特別な理由が必要なのかしら?」



 最期の日まで、私はあの人に会わなかった。いや、会わないようにしてもらった。それだけが、上様がわたしとあの人に与えた、優しい命令だった。

 崖の上に立った時の恐怖は鮮明に覚えている。下を見ると足がすくんで腰が抜けそうになる。顔を打ち付ける雨の強さに、膝が震える。視界は霞み、嗚咽交じりの呼吸が胸を苦しませる。それでも、それでも、この一歩を踏み出さなければ、何もかもを捨てなければ、わたしはもっと苦しい世界で死ぬことになる――


「翡翠!」


 全ての覚悟を決めたはずの足を止めたのは、お菊の声だった。

息を荒げ、雨の中素足で彼女は立っていた。


「菊!なんできたんだよ!おまえ、体が――」

「これ!」


菊は役人の腕を振り払い、わたしの前に立つ。そして両腕で大事そうにかかえてきたものを、わたしに差し出した。


 それは、着物だった。どこまでも青く、川底よりも深く美しい、藍色の着物だった。


「お前、その手――」


お菊の手は、汚れていた。あの真珠のように白く透き通った美しい手は、そこにはなかった。皮膚は割け、肌は荒れ、爪の中まで真っ青に染まったひどい手だった。

 菊は豪雨の中、枯れた声を精一杯振り絞り、わたしに言った。


「せめて、せめて――これを、持っていって。」


なぜ、彼女はその着物をつくったのだろう。

それは、今こうやって書いていてもわからない。

分からないんだ、菊。

お前は、どうしてこの時、わたしに着物を渡したんだ。

わざわざその美しい手を、わたしと同じように汚してまで、どうして――


ああ。

わからない。


けれど。

けれど――



一緒に添えられていた漆塗りの髪飾りは、雨に濡れて泣いていた。




次回は明日更新します!

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