第01話
――1984年、7月26日(木)――
氷の入った麦茶を片手に、乾いた縁側に腰を下ろす。
夏の夜風が気持ちいい。
一日の疲れが、綿毛のように飛んでゆく。
この里に来た頃は慣れなかった虫の音も、今じゃ子守歌だ。
深呼吸をすれば、草と土と命の臭いが肺一杯に広がる。
「今日の星空も綺麗だなぁ。」
薄墨色の夜空の上で、星たちがささやく。
真珠をちりばめたような天井を眺めながら、僕は麦茶をすする。
味は薄めで渋みは強め。
ちょっと料理ベタな叔父の造るお手製麦茶は、今日も僕の体に安らぎを染みこませる。
「おいおい、銀灰じいさんみたいになるのは早すぎるぜ、相棒。」
「お!今日は遅刻しなかったね、ハク!」
僕は縁側の下をのぞき込み、声の主を少しからかう。
「はっ!オレはおまえら人間の時間感覚では生きていないもんでね。180年も生きてりゃぁ、そんな30分や60分、瞬きするのとかわりゃしねぇのよ。」
ハクはぬっとその白い頭を出し、鎌首をもたげて僕の脚に絡みつく。
「だいたいな、オレは忙しいんだよ。ほら、畑荒らす鼠探したりとか?鼠食べたりとか?それから、ちょっと悪さしてる鼠を退治したりとかよ。」
「ずっと鼠食べているだけじゃん。」
目の前に現れた白い大蛇に、僕は飲みかけの麦茶を差し出す。
「お。気が利くな。ありがとよ。」
ハクは炎のような赤い舌をチロチロと出して、おいしそうに麦茶を舐める。
赤い瞳に真っ白な鱗。今年で184歳になる白蛇のハクは、僕の“相棒”だ。言動は粗野でぶっきらぼうだけど、毎晩僕の話し相手になってくれる兄貴肌な蛇だ。
小学6年の時にこの田舎に引っ越したけど、最初に友達になったのは人間ではなく、彼だった。誰に対しても自由な立ち振る舞いをする彼に、僕はシンパシーを感じたんだと思う。
――しかし、まあ、最初は随分と図々しい蛇だとおもった。彼はこの『紺家』に代々仕える専属の『精霊』だと聞かされている。しかし彼の態度は、“仕える”と言うにはほど遠い。基本的に家にはいないし、居たらいたで飯を出せだの、酒をもってこいだの、僕を顎で使ってきた。結構年なのではないかと以前聴いたら、まだまだオレは若いとかなんとかいって、ビシバシと尻尾で叩かれたっけ。
僕はコップに頭を突っ込んでいるハクに向かって言う。
「飲んだら行こうか。千恵が待っているからね。」
「おお、まってろ。すぐ飲み干す。」
ハクはグイッとコップを逆さまにし、文字通り浴びるように麦茶を飲み干した。
「じゃあ、じいちゃん、鉄叔父さん、行ってきまーす。」
「おー、千恵によろしくな~。」
「気を付けていくんだよー!夜の山は危ないからね!」
家の奥からいつもと変わらない返事が返ってくる。
「はーい」
僕は竹の水筒を肩にかけて立ち上がり、いつも通りに屋敷を後にする。
「さてと、山登りと行きますか!」
夜8時半すぎ。
僕とハクは、虫の音響く森の中へと足を踏み入れた。
◇
夜、山は淡い静けさに満ちている。
静かだと思っていても、よく聞けば虫の音や小鳥の休む音、小動物たちの息遣いが聞こえてくる。カフェに来た時のバックミュージックのようなもの、と鉄叔父さんは言っていたっけ。僕はこの静かな音色がとても好きだ。どんな演奏よりも、自分と周りが一体になっているような気がするんだ。だから夏のこの時期は、“修業”をする楽しみが1つ増える。
そして、その修行の指導役である千恵もまた、元気な季節だ。
「きたか、碧。」
森を漂う花の香りのような、甘く優麗な声が響く。
山の中腹。天を貫くようにそびえる木々に囲まれた、少し開けた野原がある。天の川の光が降り注ぎ、淡く黄緑色に光るその庭園の中心には、梅の大木がそびえている。そして、僕がここに来ると、彼女は決まってその幹に腰を掛けていた。
「ごめんよ、待たせたかな?」
「いや。そんなことはないさ。我はいつもここにいる。汝が勝手に逢いに来ているだけのことよ。」
萌黄色の着物を着た少女、千恵。見た目は僕と同じ中学生のようだけれど、彼女はぼくよりずっと年上だ。梅の花のような白い肌。自身の背丈の何倍もある鶸色の髪からは、ところどころ梅の葉が生えている。千年を超えて世界を見続けた細く小さな釣り目は、見る者に畏怖と尊敬の念を抱かせる。僕より背は小さいけれど、僕よりその有り様はずっと大きい。彼女の放つ祖母のような落ち着きと、“高貴な存在”としての神々しさが、一緒くたになってこの庭に漂っている。
「して、その腰に下げているものは例のあれであろう、碧。」
「ああ、うん。」
僕は腰に下げていた水筒を外し、千恵に近づく。
「千恵の梅から作った梅酒だよ。」
「うむ。」
彼女は基本的に自分の木から降りることはしなかった。今日もそうだ。彼女は滝のように幹から垂らした己の髪を、ゆっくりと僕の方へと伸ばしてくる。そしてそよ風に揺れる木々の音が、僕の手から竹筒を受け取った。
「この香り、約束通り40年前の梅酒であるな。……うむ、よい塩梅だ。ハクもつまみ食いをしなかったと見える。」
「ああん?千恵ばあさんよ、オレはそんなちんけなマネはしねえぞ。
するなら全部もらっていくってもんよ!
……いや、まあ、でも?まずくはないし?ちょっと喉も乾いてきたことだし?毒身が必要ってことなら、飲んでやらんこともな――」
「ハク、お酒好きだよね。」
彼女は僕の言葉に小さく微笑むと、竹筒をあけて薄紅色に輝く酒を確認する。
「また、誰かにあげるの?」
「ああ、そうだとも。我の梅は『精』が強いからな。『術者』にとってはいろいろ使い勝手がよいらしい。まあ、汝にはまだ早い代物ではあるがな。」
彼女がそういうと、その竹筒は枝に隠されるようにして、木の葉の中へと消えていった。
「さて――」
千恵は僕をまっすぐ見て微笑み、いつものように、花びらのような唇を動かした。
「碧。修行の時間だ。」
◇
「生命力。
それは生き抜くための力。『生きる力』だ。
我らが生きるこの世界は、生命力であふれている。
大気にも、水にも、土にも、植物にも、蛇にも、人間にも――ありとあらゆる生命と生命ならざる全てのモノに、その『生きる力』は存在する。
これを、我らは『精』と呼ぶ。」
千恵の声が、僕の耳に静かに染みこんでくる。
「『精』を無意識のまま使い、営むことが出来るモノ、それを、『生き物』という。
故に、我らが生きるこの世界には、ありとあらゆるものに命が宿る。
土にも、雨にも、虹にも、汝ら人間が使う道具というものにも、『精』は存在するからだ。
汝ら人間が、“八百万の神たち”と呼ぶモノたちは、総じて等しく『生き物』だ。
ただ、そのあり方が違うだけで、呼び名が変わるだけのこと。」
ハクの温もりが、僕の体の輪郭を、ゆっくりと大気に溶かしていく。
「岩。土。水。
そういった生物でない“物”から生まれた『生き物』を、我らは『妖精』と呼ぶ。
それに対し、我やハクのような、生きながらにして『精』を操る術を身に着けたモノを、『神霊』と呼ぶ。
そして最後に、『生き物』が死した後に、新たに誕生する『生き物』を、『霊』という。
この三種の『生き物』を、総じて我らは、『精霊』と呼んでいる。」
小川のような彼女の声が、僕の心を眠りの一歩手前の静けさへといざなう。
「――瞳を開けよ、碧。
汝の前にいる者は、果たして『妖精』か、『神霊』か、はたまた『霊』か、いずれのものか。」
眠りから目覚めるように、僕はゆっくりと瞼を開ける。
陽だまりのような、暖かな光に包まれた世界が、目の前に広がっている。
夜空の暗闇をスクリーンに、青や赤、緑や黄色といった色鮮やかな光が、ゆらりゆらりと群れている。
無音の、光の草原。
そしてその草原に降り立つように、僕の前に一つの光が現れる。
「淡くて手の平にのるような、小さな光。そしてその輪郭は――」
青い光が、ふわりと揺れ動く。
僕はその小さな光に微笑んでから、千恵の問いに答えた。
「ああ、そうなのか。君は、菖蒲の『精』だね?」
「見事だ。」
もう一度瞳を閉じて、再び瞼を開ける。先ほどまでの光の草原は既になく、目の前にいた青い光は、一輪の菖蒲になっていた。
「ハクを通して『精』を見分けるだけでなく、“対話する術”を、汝は完全に習得しておる。『妖精』と普通の生物の『精』は、見分けるのが難しい。しかし碧よ、汝は見分けるだけでなく、その『精』が何であるか、直接その『精』に語り掛けておる。最初こそ見分けられなかった汝だが、もはや立派な『術者』だ。」
「まだまだだよ、千恵。僕が出来るのは『精』を見ることと、対話することだけ。銀灰じいちゃんみたいに、土を動かしたり水を操ったりはできてないよ。」
「ふふ。」
千恵は梅の花のような白い顔を、意味ありげにほほ笑んでみせる。
「『術者』なぞ、それぞれで使える技が違う。確かに銀灰のように、『神霊』の力を借りて現象や物を操る者が、最も多い『術者』の有り方だ。だが、汝のような、『見る』『話す』ということも、立派な『術者』の技の1つだぞ。」
『術者』。それは、『神霊』の力を借りて、『精』そのものを操る者のこと。
普通の生き物に『精』を操る術はないけれど、『神霊』はそれができる。他の『精』に干渉して岩や水を操ったりとか、傷を癒したりとか、何らかの現象を引き起こすことができるんだ。そして、その『神霊』に協力を仰ぎ、間接的に『精』を操り、現象を引き起こす者。それが『術者』だ。ちょっとした魔法使いのような存在だと、僕は思っている。
「ま、オレは今のままでいいと思うぜ。これ以上何かを習得する必要はないだろ?
なんせ、オレは楽だからな!
確かに、オレは水と土を操れるが、ありゃあ、くたびれるんだよ。
銀灰の奴、若いときは散々俺をこき使ってくれたからな~。もう毎日くったくたでよ。あんな重労働はお断りだぜ。」
「でも、今の僕の技を使うと、もっと疲れるんじゃなかったけ?ハク。」
僕がからかうように言うと、ハクはばつが悪そうに眼を逸らす。
「いや、まあ、それは――」
「ははは。素直じゃないね、ハクは。」
「……うるせえぞ、相棒。」
「でも、毎日付き合ってくれてありがとう、ハク。」
「――」
僕がハクの額の鱗を撫でると、ハクは目を閉じて、深いため息をついた。
ちょっとだけ嬉しそうに、そして、何故かちょっとだけ悲しそうに。
と、それと同時に、いつの間にやってきたのか、僕の前に千恵が立っていた。草原のような髪が宙を漂い、さっぱりとした甘い香りが僕を包み込む。彼女はその小さな顔を僕に近づけ、透き通るような笑みを浮かべる。
「だが、ハクの言う通りだ、碧。汝は他の人間とも、『術者』とも違う。
普通の『術者』は、『精』を感じることはあっても、見ることはできない。
しかも汝は『精』を、“光の明るさ”、“輪郭”、“大きさ”、そして“色”で区別しておる。
それは、神霊の領域だ。
もし、汝が今の『心眼』と『対話』以外の術を身に付けたら――」
薄紅色の瞳が、まっすぐ僕を見据えて言った。
「――その時、汝は神霊となる。」