第18話
「うおおおおっ!速い!速いっつーの、碧!」
「だって待てない!早く、早く翡翠の下に行きたいんだ。」
僕はハクを抱きかかえて、森の中を鹿のように駆け上がる。
「それは分かったから下ろしてくれ!さっきから枝や葉っぱが顔に当たっていてーんだよ!」
「大丈夫!もう少しの辛抱だから!」
「鬼か!そんなに急がなくても、水源京は逃げたりなんかしないぞ!?」
身体が軽い。
まるで背中に翼が生えたような気分だ。
踏み出す一歩は軽やかで、今なら空だって駆け上がることができそうだった。
◇
「や、やっとついたか……」
ハクはヘロヘロになりながら僕の腕から離れる。
「翡翠ー!」
僕は水たまりを覗きこみ、その奥にある水源京に向かって叫ぶ。
「話したいことがあるんだ!」
翡翠は答えない。なんの音も水底からは聞こえてこない。聞こえるのは森に響く蝉の合唱と鳥のさえずりだけだ。
「翡翠……」
僕は自分の顔が写った水面を見て肩を落とした。
――それはそうか。よくよく考えたら分かることだ。“もっと人でいたかった”と思っている彼女に、僕は口で言わずとも態度で語ってしまった。“人間といても面白くはない”と――。それは、他人の夢を否定する行為だ。人の願いを否定する行為だ。そんなことをされて「また会いたい」と、そう思う人は多くは無い。
だが――
水面に手を伸ばしたとき、僕は気が付いた。
まだ、『精』は応えている――
と。
僕は翡翠に昨日のことを話したかった。涼と紅葉と出かけた、あの日のことを。彼等が教えてくれた、人間の面白さを。僕はそれを一刻も早く伝えたかった。そして僕が間違っていたと、そう、伝えなくてはならないと強く感じた。
彼女が僕を水源京に受け入れてくれた理由は、はっきりとは分からない。けれど少なくとも、“僕が人間だったから”という要素はある。彼女は最期に触れたかったんだ。自分が出来なかった、“人の営み”に。けれど僕は、彼女に「僕に何を聞いても、人としての営みに触れることは無い」と、そう思わせてしまった。僕は彼女を、諦めさせてしまったんだ!
300年も抱き続けた思いを諦めさせていいなんて、誰が許すのだろう。彼女をあのまま死ぬまで水源京でいさせるなんて、誰が「良し」とするのだろう。いいや駄目だ。そんな悲しい物語があってたまるものか。
だから、僕は迷うことはなかった。
「まぁ、あれだ、碧。一昨日は確かに翡翠を失望させたかもしれん。だが、あいつはお前を嫌っている訳じゃねぇ。だから、きっとあいつは、今はちょっと会うのが気まずいと――っておい。お前、何やってんだ。」
僕が水たまりに足を踏み出しているのを見て、ハクが固まる。
「翡翠に会いに行くんだ。」
「まてまてまて!翡翠の迎えが無くて水源京に入ったらどうなるか、分かってんだろ!?」
「大丈夫だよ、ハク。」
僕は大きく息を吸い込む。
「翡翠は、来る。」
そういって、僕は水源京に飛び込んだ。
◆
水面の波紋が、オレの目の前で大きくうねる。
――ああ。だから心配なんだ。
お前は、銀灰とは違う。
あいつが翡翠にあった時、あいつは大人だった。
あいつは優しくて愛情深くて、そしてどうしようもなく、大人だったんだ。
翡翠の心を理解して、彼女の意見を尊重してしまった。
自分の立場を理解して、自分がとるべき行動を判断してしまった。
それがあいつの良さでもある。
どんな存在とも、うまく付き合っていける。
そう……自分の妻を殺した雨音とでさえ、うまく付き合えてしまうほどに――
雨音が“そういう存在”だと、そう理解しているからだ。
――だから、絶対に翡翠を救うことは出来ないのだと、それを銀灰は理解してしまった。
けど、お前は違うんだ。碧。
銀灰と同じように優しくて愛情深いが、お前は――どこまでも素直なんだ。
どこまでもまっすぐで、自分の心に正直だ。
だから、翡翠の心を察しても、尊重しすぎることはない。
自分に何が出来るかもわからないくせに、自分がすべきだと思ったことを、迷わず行動する。
――だから、絶対に翡翠を助けることはできないのだと、それを知ってなお、お前は助けようとしてしまう。
それが、心配なんだ。
お前は、あいつを救えてしまう。
……そうだよ。
お前の言う通りだ。水源京から翡翠を遠ざければ、あいつと『流水の神』との同化は防ぐことが出来る。けど。けれど――
あいつは、300年水源京に居たんだ。
その分の同化を防ごうとしたら、300年間水源京の外に居なければならないんだ。
でも、それは無理だ。
だって、水源京はあと1年しか保たない。1年では、どうあがいても同化は解けないんだ。
例え外で過ごそうとも、1年後にはあいつは水源京とともに蒸発してしまうんだ。
それを防ごうというのなら――
オレは歯を食いしばる。
「……ああ、もう、また一人で突っ走りやがった!」
◆
◇
「お前は!何をやっているんだ!」
水源京に飛び込んだ僕は、一秒たりとも苦しむことはなかった。
水の中に居たのなんて、一瞬だった。
水中に浮かぶ大きな泡の中で、僕は翡翠を見上げていた。
翡翠は声を荒げ、僕を睨み付ける。
「あの薬はもうないんだ。水源京に飛び込めばどうなるかくらいわかっているだろう!」
「……うん。」
「ならば何故――!」
「翡翠は、絶対来てくれると思ったから。」
「っ――」
翡翠は胸の内から湧き上がるものを噛み殺した。悲痛にゆがむその顔を右手で抑え、彼女は言った。
「――話とは、なんだ。」
「翡翠。まず僕は、君に謝らなくちゃいけないことがある。」
「謝罪だと?」
翡翠は眉を顰める。
そうだ。僕は、間違えていたんだ。それを、謝らなくてはいけない。けれど、言葉は慎重に選ばなくてはいけない。
「僕は……一昨日、翡翠の質問に答えてあげられなかった。」
「――」
翡翠は息をのむ。彼女は僕から視線を逸らし、一歩退く。
「僕はさ、知らなかったんだ。」
「何を……だ。」
探る様な言葉に、僕は彼女の瞳をまっすぐ見て答えた。
「……人の世界が、どんなに面白いのかを。」
「――」
「でも昨日、それを教えてくれた人がいたんだ。人間の世界がどれだけ面白くて、どれだけ楽しいことなのか……。
僕は今まで、“面白さ”を気付こうとしてこなかったんだ。“面白くない”と勝手に決めつけていたんだ。でも、それを気づかせてくれた人がいた。だから今やっと、君の質問に答えることが出来る。」
僕は大きく息を吸った。
「人の世界の暮らしは、楽しいよ。」
「――」
翡翠の瞳は揺らいでいた。水面に映る光のように、その藍色の瞳は潤んでいた。
「……そう、か……」
「うん。だから――」
僕は泡の上で立ち上がり、翡翠に向かい合う。
「翡翠には、諦めてほしくない。」
「――!」
翡翠は目を見開き、僕をみる。僕はまっすぐ、その瞳に語り掛けた。決してその視線だけは外してはいけないと、強く語りかけた。
「僕は、翡翠にも触れてほしいんだ。人の営みがどれだけ面白くて、楽しいのか。」
「お前……もう、分かっているのか……」
その蚊の鳴くような細い言葉には、僕は答えなかった。その代わりに、僕は微笑みを返した。
「だから、聞いてほしんだ。僕が昨日体験したことを。」
「……」
「ハクも、聞いてくれる?」
「うげっ!お前、いつからオレがいることを気づいてたんだよ……」
僕は自分の背後で泳ぐハクを振り返る。
「割と最初から。」
「かー!オレ一人まぁた置いていったくせしやがって。」
「ごめんごめん。」
「まったく……」
ハクはそういうと泡の中に顔を突っ込む。
「なぁ、翡翠。」
「……なんだ、ハク。」
「こいつの話、聞いてやってくれないか。」
「……」
「こいつさ、お前にあの日答えられなかったことが相当堪えたらしくてな。このままじゃお前に嫌われたままになるんじゃねーかとずっと心配だったんだよ。」
「そんなこと私には……」
「――それに、お前にとっても“人間の世界の話”は、悪くはないだろ?」
「……」
なおも俯く翡翠に、ハクはおちゃらけた態度で場を濁す。
「まー、それにうるせーんだわ、コイツが。やれ映画は楽しかっただの、遊園地のジェットコースターは怖かっただの、昨日帰ってきてからそればっか!もう耳にタコが出来ちまってらぁ。だからよ、オレの代わりに聞いてやってくれないか?」
「ちょっとハク。そんなに僕しゃべってないよ?」
「いや、もうずっとだろーが。飯食ってる時も、風呂入ってる時も、布団に横になったときだって、だ。睡眠不足で仕方がねぇ。なのにこの山を全力疾走しやがって……見ろ!オレの鱗があっちこっち禿げちまったじゃねーかよ!」
「ああ、えと……それはごめん……」
翡翠はずっと黙っていた。その視線は僕らの足元の遥か下、彼女が住まう水源京の中心部に向けられていた。けれど僕とハクの会話が終わった頃、彼女は顔を上げて言った。見ないようにと、瞼を閉じて。
「なんて……自分勝手なやつらなんだ……」
◇
僕はこれでもかというほど昨日のことについて翡翠とハクに話をした。ハクは何度も聞いていたはずなのに、僕の話に相槌をうち、常に新しい質問を僕に投げかけた。そして翡翠はというと、最初こそ他人事のように静かに座っているだけだったが、次第に僕の話に興味を示すようになった。――いや、正確には、彼女は最初から興味はあったんだ。人間の世界、人間の営みに触れたいと思っていた彼女が、興味をもっていないはずがなかった。ただ恥ずかしいのか気まずいのか、それともやはり、何か抵抗を感じているのか、最初は興味がない“ふり”をしていたんだ。
「と、言うことで、僕は今度二人と海に行くことになったんだ。」
「おお。海とはまた夏らしいな。」
「うん。今までは人がいっぱいいる海水浴場ってただ疲れるだけだなぁって思ったけど、もしかしたら何かこれまでとは違う発見が出来るかもしれない。ううん、何か見つけて見せる!」
「ほー。つまり、ナンパすると。中坊のお前が?」
「え?難破?どうして遭難しないといけないの?ヤダよ。」
「……いや、まぁ……行ったら気付くんじゃねーかな……」
ハクは苦笑して部屋の壁を眺める。
「それにしても……」
「ん?何、翡翠?」
「あ。いや……」
彼女は独り言のように小さく言う。
「……その“えいが”なるものは随分と不思議なものだな。今は絵巻物や書物が『術』を使わずして動く時代なのか。」
「うん。絵を何百枚も連続して見せているんだって。全く同じように見えて、微妙に違う絵を順番に見せることで、その中にいる人たちが動いているように見えるんだ。」
「そうなのか。南総里見八犬伝など、江戸の時代では多くの書が人気であったからな。あれらがもし目の前で動いていたらと思うと……それは、楽しいのだろうな。」
彼女のちょっと残念そうな、無念そうな瞳を見て、僕は言った。
「……観てみたい?映画?」
「――!いや、別によい……」
「なんで?」
「……いや、私は……私は、ここから出ることは、出来ないんだ。」
「……」
僕は彼女の瞳をのぞき込む。ハクは、彼女は本来なら自由に水源京の外に出入りできると言っていた。彼女が「できない」と言っているのは、彼女自身に何か問題――いや、理由があるのだろう。でも、僕にはまだそれが分からないし、それを追求してしまうことは少しためらわれた。今やっと一昨日からの亀裂を埋め始めたところなのに、新しい問題を自分で掘り起こすのは“早すぎる”。
だから、ありのままを尋ねることにした。
「……でも、観てみたいんでしょ?」
「それは……」
彼女はうろたえる。僕は、あえて話をとばした。
「じゃあ、一緒に行こうよ。楽しかったよ。」
「……いや、それは……お前に、迷惑がかかろう。私は江戸時代の生まれだぞ?都会どころか、今のこの国のことなどてんで分から……む?いやまて。そうではなく、私の話を聞いていたのか、碧。私は――」
「うーん。確かにいきなり都会はハードルが高いかな。じゃあ、何か他に外の世界で見たいものとかはない?」
「お前、だから私は……」
再度否定しようとする翡翠に、ハクが首を突っ込んだ。
「いいじゃねえか。見たいものを言うくらいよ。別に減るもんじゃないし?」
「ハク。お前な――」
「ちなみに、俺は“東京タワー”ってのが観てみたい。いや、登ってみたい。だって空飛ばずして世界を見渡せる場所なんだろ?オレは雨音のことが気に食わないが、あの空の上に住んでるってところだけはうらやましい。一度でいいから『精』を使わずして世界を眺めてみたいもんだ。」
「へぇ。ハク、そんなこと考えてたんだ。」
「まぁな。一度だけ大鷲の神霊に出会ったことがあってよ。そいつに雲の上まで高々と連れ去られ――じゃない。連れて行ってもらった時があってだな。あの景色が忘れられないのさ。」
「連れ去られたんだ。」
「ちげーよ。連れて行ってもらったんだよ。ちょっと煽ったらまぁ、いい感じに?手の平で踊ってくれたぜ?ああ。うん。」
「怒らせたんだね……」
僕はハクが鷲に連れ去れて行くところを想像して笑った。きっとギャーギャーわめきながら大鷲の脚に絡みついていたに違いない。
僕はチラリと翡翠を見る。翡翠の顔には、悲壮感はなかった。ただ友人と語らっている時のような、穏やかな苦笑いが、そこにはあった。
「……それで、翡翠は何が観てみたいの?」
「え?――いや、私は……」
彼女は僕から視線を逸らし、困ったような顔をした。そして小さくため息をつくと、何もない天井を見上げる。その顔は、再び郷愁にふけっているような、悲しげな表情だった。
「……ああ、そうだな――」
《《 花火が、見たい 》》
「――」
まただ。また、彼女が言葉を発する前に、彼女の背後に誰かがいた。けれど、その誰かは「てんふら」といった声とは違う。あの時の声は、男性――のような気がした。けれど今度は違う。黒い影は、花開く朝のように爽やかで、太陽のように明るい声をした、「女の子」だった。
「――花火、かな……」
「え?」
翡翠の言葉に驚いたのは僕ではなく、ハクだった。
「お前、江戸時代の生まれだろう?花火なんていやぁ江戸の顔みたいなもんだろ?見たことなかったのか?」
翡翠はハクを一瞥してか、自分の両手に視線を落とす。
「……ああ。手持ちの花火は……見たことが――ある。だが、夜空一面を覆う、星々よりも明るく輝く打上花火というものを、私は見たことがないんだ。確かに、見ようとは、していたんだがな……」
「!!」
ハクの表情が一変する。彼は一度赤い眼を見開き、そしてその視線を強く閉じた。彼は藻の生えた畳の中に潜ろうとしているかのように頭を垂れ、翡翠に言った。
「――そう、だったのか。……悪い。」
「……いや、気にすることではない。それに――」
翡翠は水源京の外を眺める。水源京の遥か先、光の届かない暗い影を見つめながら、彼女はつぶやいた。
「……もう、私には、見ることのできないものだからな。」
「まって。」
僕は立ち上がった。僕は翡翠の前に立ち、彼女の視界をふさぐ。
「そんなこと言わないでよ。」
「……なぜだ。」
翡翠の瞳が、途端に険しくなる。
「だって、僕は見たい。翡翠と、花火を見に行きたい。」
「……なぜ、そうなる……」
視線を落とす彼女に、僕は言った。
「だって、翡翠、一昨日言っていたじゃないか。僕がどんな世界で生き、どんな暮らしをしているのか、それが気になったって。」
「それは、確かに言ったが……」
「だったら、見に行った方がいい。僕がここで話をするより、実際に見たほうが“面白い”よ?」
「……いや、お前の話だけで、十分――」
「ううん。僕の話だけじゃ、十分じゃないよ。ほら、さっき言ったでしょ、映画は映画館で観ないとその“面白さ”には気づけない。それと一緒だよ。学校の話しをしても、その面白さはそこでしか気づけない。カレーや天ぷらだって、食べたから翡翠はおいしいって分かったんだ。だったら、花火だって、話を聞いただけじゃ“面白さ”は分からないし、楽しくないよ。」
「……だが、私は――」
なおも首を縦に振らない彼女に、僕は言った。胸を叩き、涼のように明るく自信をもって。
「じゃあ、待ってて。きっと翡に、打上花火を見に行きたいって、言わせて見せるから!」
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