序
この作品に立ち寄ってくださり、ありがとうございます。
少しでも「面白い!」と思っていただければ幸いです。
それでは、一夏の思い出になればと、願いを込めて。
寒い。
痛い。
怖い。
吸い込んだ大気が、氷の針となって肺を貫く。
打ち付ける雨粒が、手足の感覚を奪っていく。
それでも、僕は走った。
あの妖から、逃げるために。
雨音は空気を切る音と混ざって、もう何も聞こえない。
濡れた木の葉が、枝が、
顔を、腕を、鞭のように叩いてくる。
顔も手足もきっと傷だらけだ。
今すぐに足を止めてしまいたい。
今すぐに楽になりたい。
諦めて、しまいたい。
けれど、この足を止めたら、両手を振ることを止めてしまったら――
後ろにいる妖に取り込まれてしまう。
――嫌だ。
そんなのは、嫌だ。
妖になるために、僕はこの森に来たんじゃない!
もっと早く、もっと遠く!
山をかけ上がれと命令する僕の脳が、金切り声を上げている。
死んでしまうと、叫んでいる。
後ろを振り返る暇などない。
恐怖から逃れるために、ただひたすら夜の森を、転げるように走り続けた。
だから、浮遊感を認知するのに時間がかかった。
ほんの1秒。
たった1秒。
でも、無限の1秒。
夜、星もない風雨の山林。
足を踏み入れたこともない闇の世界を、全力疾走していたんだ。
目の前に崖があるなんて、気付く訳がなかった。
崖に身を投げ出した――
それを意識した後は、一瞬だった。
頭が真っ白になるより早く、僕は冷たいものに、全身を包まれた。