第9話 定休日は雑貨屋へ
漂白剤に漬け込んでいた真っ白な布巾を水でよくすすぎ、硬く絞った後でほどいて、手首をしならせて勢いよく布を振る。パンッという小気味良い音と共に、細かな霧のようなしぶきが飛んで、布巾のしわが伸びた。
それを物干しに引っ掛けて、さらに引っ張ってピンと形を整える。洗い桶に残った布巾をすべて絞って干した後で、彼は物干しを陽がよく当たる窓辺に吊り下げた。
「よし、こんなところかな」
調理を終え、道具を洗い、最後に布巾を洗って干し、すべての作業を終えたリュリュが、腰に手をあてて厨房をぐるりと見渡す。食品棚には軽く火を通して下ごしらえした野菜が、密閉容器に詰められて並んでいた。寸胴鍋に入ったスープやカレーは、一日置くとより味が馴染むだろう。小麦の粉をこねた生地は空気を抜いて、まるく整えたまま一晩発酵させる。明日もうひと手間かけて焼き上げれば、美味しいモチモチのパンになるだろう。
今日はアナグマキッチンの定休日だ。とはいえ、休みの日も料理の下ごしらえは欠かせない。前もって準備をしておくと、客を待たせることなく手早く料理を提供できる上に、当日の調理の手間も省くことができる。
リュリュが店を引き継いで、すでに10日が経っていた。前店主との引き継ぎの期間と合わせると半月強、その間に客の流れや調理すべき量などは、おおよそ把握できた。先程下ごしらえをしながら簡単な昼食も済ませたし、今日の午後は仕事から離れて、やっと自由に行動できそうだ。
「えーっと……スープが二種類、あとカンパーニュがひとつ」
リュリュは声に出して確認しながら、円筒型の密閉容器ふたつと、大きくてまるい田舎パンを紙で包む。それらを生成り布の簡素な手提げ鞄に詰め込んで、彼は勝手口から店の外に出た。
ずっと室内にいた彼にとって、屋外の晴れた空はまぶしかった。目を細めながら戸締りをして、リュリュはアナグマキッチンを後にする。手提げのなかの瓶がカチャカチャと触れ合う音を聞きながら、彼は大通りの人波の隙間をぬって歩いた。昼下がりの大通りは賑やかで、降り注ぐ日差しと人の熱気で暑いほどだ。
商売人達が客を呼び込む声を聞きながら、リュリュは記憶を頼りに大通りから道を外れる。行き交う人の数が減っていき、それに反して瓦礫と緑の樹木の数が増えた。
しばらく歩くうちに、煉瓦造りの建物に突き当たる。建物の前には花壇があり、色とりどりのパンジーや薔薇の花が、道にこぼれるように咲いていた。
「……良かった、開いてた」
リュリュは足を止め、看板を見上げながら微笑んだ。太陽を彷彿とさせる装飾の吊り看板には〈雑貨屋 Soleil〉と店の名前が刻まれている。
以前アナグマキッチンの休憩時間に、四区を散策していて見つけた雑貨屋だ。まだ店内に入ったことはないけれど、建物の雰囲気や飾り窓に置かれた小物の、丁寧にはたきがかけられている様子に、彼は好感を持っていた。
木製の扉を押し開くと、カランカランとドアベルが揺れる音がする。そっと店内に入ったリュリュを、橙色の灯りに照らされた雑貨達が出迎えてくれた。
リボンが結ばれた薄絹のサシェ、そこに詰められたポプリが優しい香りで店内を包んでいる。色とりどりの押し花があしらわれた栞や、花や小さな果物を閉じ込めたキャンドルが棚に並び、一番上の棚には太陽と月の装飾が施された白銀の天秤や、金属と色硝子を組み合わせた猫足の宝石箱などが陳列されていた。
開いたままの宝石箱のなかを覗くと、天鵞絨の上で繊細な細工の指輪や宝石などが煌めいている。さらに足を踏み入れ奥に進むと、可愛らしい缶や小瓶に入った傷薬や保湿剤、綺麗に包装されたマドレーヌやパウンドケーキなども売られていた。
想像していた通り、いやそれ以上に店主の愛情とぬくもりが感じられる店だ。リュリュがゆっくりと、その品物のひとつひとつを視線でなぞっていると――
「いらっしゃいま……ひゃあっ!」
挨拶が、途中で悲鳴のような裏返った声に変わった。
その声音にびっくりしたリュリュが振り向くと、販売カウンターの奥で彼と同じくらいの年の女性が、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりしている。
「あ、あの……?」
「――っ!」
訳が分からないまま、リュリュが彼女の方に一歩踏み出すと、女性はびくりと小さく跳ねて、おびえたような表情で後ずさりした。白いワンピースの胸元の前で、きゅっと拳を固める彼女の瑠璃の瞳は、リュリュを凝視したまま涙をたたえている。
「えっと、僕は……何か失礼なことを……?」
それとも自分で気付かなかっただけで、調理中に身なりが崩れたりしたのかと、リュリュは慌てて自分の服や手、靴に視線を配る。
「ち、違うんですっ! すみません……っ!」
体をぎゅっと縮こまらせたまま、女性は慌てた様子でふるふると首を左右に振る。そのたびに、肩のあたりまである彼女のチョコレート色の髪がさらさらと揺れた。
「わ、私……男のひとが、怖くて……だ、だからあなたが失礼なことをしたとか、そういうのじゃないんです! むしろ、私のお店に男性が興味を持ってくれるなんてこと、あんまりなくて……嬉しいです。だ、だから、大丈夫です! どうぞゆっくり見ていって下さいね」
そう言い切った女性が、にこ、とリュリュに微笑むけれど、その頬はぷるぷると震えていて、あからさまに無理をしているのが分かる。
彼女の気持ちは嬉しいけれど、何を買うか相談したり、金銭のやりとりすら難しそうだ。どうしたものかと困ったリュリュは、笑顔を浮かべたまま「はぁ……」と、曖昧な返事をこぼす。
カタン、と音を立ててカウンター奥の扉が開いたのは、そんな時だった。
「…………」
「あ、牡丹ちゃん。ごめんなさい、声にびっくりしましたか……? え、いえ、大丈夫です。心配してくれて、ありがとうございます」
ててっ、と女性に走り寄り、彼女のスカートのすそをきゅっと握ったのは、桃色のおかっぱ頭の女の子だった。綺麗な橄欖石の瞳は不安の色をたたえているけれど、白くてふわりとした頬を見る限り、笑顔はとても可愛いのだろうと想像できる。
黒地に鮮やかな花が描かれた、袖の長い変わったブラウスを着て――それは東洋の民族衣装の〈着物〉だと彼は後で知った――ラズベリー色の丈の長いニッカース――これは袴というらしい――の帯を胸の下でリボンのように締めている。年の頃は10歳前後だろうか。
女性の顔を見上げて眉を曇らせていた少女は、次いでリュリュの存在に気付くと、は、と小さく息を吐いて、納得したような表情を見せた。カウンターの跳ね上げ天板をくぐってリュリュの足もとまで走り寄ると、手にしていたスケッチブックにさらさらと筆記具を走らせる。
〈フレアお姉ちゃんのかわりに、私が商品の説明をします〉
スケッチブックをひっくり返してリュリュに見せると、少女は想像していたよりももっと可愛らしい笑顔で、はにかみながらもにこりと微笑んだ。リュリュもつられて頬を緩ませ、目線の高さが合うようその場にしゃがみ込む。
「ありがとう、助かるよ。えーっと……」
〈私の名前は、牡丹〉
「牡丹ちゃんか。僕はリュリュだよ。今日はね、僕の姉への贈り物を探しに来たんだ」
「!」
ぱっと目を見開いたかと思うと、牡丹は嬉しそうに文字を綴り、それを彼に見せた。
〈すてき。私とおんなじ〉
「……えっと、今日白檀っていう香木を仕入れることができたので、さっきまで牡丹ちゃんと一緒にサシェを作っていたんです。白檀はどちらかというと大人の男性に似合う香りなので、牡丹ちゃんはお兄さんに、それを贈るって言っていたんですよ」
牡丹の言葉の続きを、フレアが拾って説明する。幾分か落ち着いたのか、リュリュへの説明は流暢だった。
〈すてきなおくりものを見つける、おてつだいをさせてください〉
……ここに姉さんがいなくて良かった、と思わずリュリュは考えてしまう。もしいたなら、この二人の可愛らしさに耐えきれず、彼女達を抱きしめていただろうから。それくらいSoleilの二人は愛らしくて、あたたかくて、話していると胸のあたりがぽかぽかとした。
リュリュは牡丹の申し出にうなずいて、彼女の瞳を見つめて微笑む。
「ありがとう、牡丹ちゃん」