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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第2章 彼はすみれと例えられ
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第6話 花盛る診療所


 コンコルディアの街が、深い夜の(とばり)に包まれている。

 三区にある食堂、アナグマキッチンも店を閉めて灯りを落としていたが、店主の住居である二階の窓からは、小さな輝きがこぼれていた。

 それは窓辺の机に置いた、手燭(カンテラ)の光だった。机には植物図鑑が広げられており、その上に覆いかぶさるように、リュリュが机に体を預けて眠っている。本を読んでいる途中で寝てしまったのだろう。眼鏡を外した彼の寝顔はあどけなかった。


 前の店主が置いて行った植物図鑑は、アナグマキッチンの店先にも植えているハーブの育て方が載っている。けれど今彼が枕にしている頁には、紫の花の挿絵が描かれていた。どうやら彼が読んでいたのは、すみれの花の項目らしい。


 スミレ[Viola mandshurica]

 春に花を咲かせる野草。日当たりのよいところに生える。

 5枚の花弁からなる花を咲かせる多年草。

 花言葉はmodesty(謙虚)、faithfulness(誠実)……


 眠っているリュリュが自身の腕を、胸の方へとたぐり寄せた。彼の腕の下敷きになっていた箇所には、紫色のすみれの花言葉が載っている。

 

 ――You occupy my thoughts.



 ◆ ◆ ◆



 そこは、佇まいがとても穏やかな医療所だった。

 白い漆喰(しっくい)の壁でできた木造建築、その一室が診療室として開放されている。部屋には白く塗られた木製の棚が備え付けてあり、透明な硝子瓶に入ったガーゼやピンセット、金属のトレイに収められた布巾や包帯、水銀の目盛の血圧計などが整然と並んでいた。

 診療室の窓は開け放たれており、あたたかな陽が直接差し込んでくる。ときおりちらちらと形を変えるひなたの影は、おそらく屋外の樹木の枝や葉によるものだろう。ここでは医療機関によくある無機質な素っ気なさや、冷たさは微塵(みじん)も感じられない。


 ソワイエは患者用の丸椅子に腰掛け、室内から窓の外をぼんやりと眺めていた。診療所の庭には、アザミやライラック、ジャスミンやオールドローズといった色とりどりの花が咲き乱れ、そのかぐわしい香りは部屋のなかにもこぼれていた。

 庭で紋白蝶がひらひらと花から花へと惑うさまが、こちらからは四角い窓に縁取られて見える。蝶を目で追っていると、動く絵画を眺めているような気がして不思議だった。


「うん、いいよ。前を留めてくれ」


 ソワイエの胸にあてていた聴診器を彼女の肌から離しながら、女医は淡く微笑んだ。

 その肩の上で切り揃えられた髪は白銀。肌は着用している白衣に負けず劣らず白く、右の瞳は深紅の薔薇を閉じ込めたかのような、鮮やかな赤だった。左の瞳は、白いガーゼの眼帯で覆い隠されていて見えない。

 先天性色素欠乏症(アルビノ)を思わせる外見の女性──ハナハルは、ゼウスという神の信仰が絶対的な権限を持つ一区で、診療所を営んでいる医師だ。


「心音は正常だね」


 ハナハルがカルテに筆記具を走らせる音を聞きながら、ソワイエはあらわにしていたビスチェの胸元を閉じる。


「後は、どうしようか。血液と尿の検査をして、数値に異常が無いか確認。血液や体液の成分分析もできるけれどなかなかに高額だし、異常があっても病の特定には繋がらないから、おすすめはできないかな」


 視線をカルテに落としたまま一定の抑揚(よくよう)で話すハナハルの横顔を、ソワイエは見つめた。うつむく顔を髪が覆い隠しているさまが、どこか鈴蘭の花に似ているなと思う。


「……なぁ。俺以外で、こういう理由で検査に来たやつって、いた?」


「いや、今までにそういった依頼はなかったね。そもそもボクは思いつきもしなかったよ。異能が病から来るものじゃないか、なんて可能性は」


 ハナハルの返答に、ソワイエは溜め息を吐いて肩を落とした。


 20歳の時、ソワイエは突然異能を発動した。しかもその異能は自分で制御できる代物ではなく、発動の対価として後天的な文盲と感覚障害に侵された。今現在も徐々に人間らしさが失われ、異能に浸食されている最中だ。

 異能に無知な彼女が真っ先に疑ったのは、病だった。けれど今まで住んでいた街では、奇病にかかった患者として実験材料のように扱われそうで、医療機関を訪ねることができなかった。

 

 ソワイエがコンコルディアに移住して、すでに5日が経っている。その間に四区でさまざまな異能――突然姿を消したり、壁や天井を歩いたり、手で触れたものを分解するといった能力――を目の当たりにした彼女は、この能力が病からくるものではないことをほぼ確信していた。けれどわずかな望みにすがるように、信頼できる医師を探してハナハルに辿りつき、彼女を訪ねて今に至っているのだ。

 

 病であって欲しかった。病なら、治療が可能かもしれないからだ。もっともその可能性も、医師の反応から見るに難しそうだけれど。

 ソワイエの落胆に、ハナハルは思い出したように顔を上げた。


「あぁでも、狼男を医学的にとらえていたって文献が過去にあったね。たしか、中世のころだったかな。人を襲ったり月に遠吠えしたりするのは、知能障害や精神錯乱。毛で覆われた姿は、多毛症。今でも多毛症は、狼男症候群って呼ばれている。けれどボクはこれを、人が理解不能な事柄を、むりやり医学に当てはめて安心しようとしているだけだと思っているよ。人知を越えた能力や存在っていうのは、確かにこの世にあるのだから」


 暗に自分の行動の無意味さを(さと)されたような気がして、ソワイエは反射的に唇を歪めて嘲笑する。


「はっ、さすが一区民。医師でも信心深いんだな」


「……現実的なだけだよ」


 ハナハルは瞳を細めて、おだやかに微笑んで皮肉を受け流した。


「安心して。ボクは別に君の考えを否定したいわけじゃない。勿論きちんと検査もするし、過去にそういう事例がないか、医学文献を当たってみてあげる。ただ、すべてを自分の知っている枠のなかに当てはめて、安心しようと思わない方がいい」


 なにせ世界は広いのだから。

 淡々とそう呟きながら指先で万年筆を回すハナハルは、ソワイエと年齢が近いにも関わらず、ずっと理知的で大人に見えた。


(……結果が思わしくなくても、現実から逃げるなってことか)


 一枚も二枚も上手(うわて)をいかれて、思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてしまう。それでもソワイエは彼女の言い分に納得して、こくりと首を縦に振った。

 ハナハルが、ふっと肩の力を抜くように笑んだ。今度は心からの笑顔のように見える。


「――物わかりのいい、素直なひとは好きだよ」


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