第51話 退避
「……イエ…………ソワイエ」
低い声が耳を震わせる。同時に体を揺り動かされて、ソワイエは眠りの縁から現実へと呼び戻される。うっすらと目蓋を持ち上げると、ダグラットの顔が間近にあった。
彼のどこか焦燥した様子に、まだぼんやりと浸かっていた虚脱が引いていく。
「何かあったのか?」
思わず立ち上がろうとしたソワイエを、大きな手のひらが押し留めた。
何も言わないダグラットと視線を合わせて黙りこくる。すると自然と、窓の外から喧騒が耳に届いた。慌てふためいた様子で何事かを叫ぶ村人達の声、急ぐ足音、くぐもった雨音──いや、違う。大量の粉が撒き上がるような、この音は……
「森が燃えている」
ダグラットの言葉に、今度こそソワイエは体を起こした。火の気がなくて、ついさっきまで寒いと感じていたはずの部屋には、じっとりとした熱気が充満している。あたりを見回すと、背嚢に荷物をまとめているリュリュの姿が目に入った。
「まだ火の手はここまで来ていません。けれどいくつかの家がすでに、炎に巻かれている可能性があります。僕達も避難を」
弟の言葉に追い立てられ、彼女は背嚢を担いだ。外套を頭から被って、顔と緋色の髪を隠す。三人は頷き合うと、屋敷の廊下を駆けた。勢いのままに玄関扉を開き、小路を抜けて、暗がりを抜けて開けた場所に出る。
頬を熱風が打った。思っていた以上の惨劇に、彼らは言葉をなくした。空はすっかり暮れているのに、夕陽よりも強い赤が彼らの顔を煌々と照らす。
一面、天まで手をのばさんとばかりに、赤い炎が躍っている。森の木々を喰らいつくし、胎内で幹を爆ぜさせ、脆くも折って崩しながら──
「神花を守れ! 湖の水を引いて鎮火に当たるぞ!」
「ああ、神よ……! 我々を見捨てないで……!」
村人達が口々に叫んでは、火元である森へと駆けていく。そのかんばせに危険を憂う色はない。眼を血走らせ、祈りと呪いの言葉を吐きながら、彼らは砂糖に群がる蟻のごとく、村の奥へと集っていく。
白と黒が混ざり合い、生き物のようにもうもうと膨らむ煙が、村人達を飲み込んでいった。
絹を裂く叫びが聞こえた。驚いて声の主へ眼をやると、地に膝をついた女が、泣き叫びながら天を仰いでいる。絶えず赦しを請い続けるその眼は、もはや健常な精神のものではなかった。
今だけは、誰一人としてソワイエを気に掛けない。
一番最初にそのことに気付いたのはダグラットだ。
「今が好機だ。この村を出るぞ」
彼は短く言い切って、ソワイエの腕を引く。しかしソワイエは、その手を振り払ってダグラットに向き直った。
「サンセリテが……! サンセリテが、まだ森に!」
リュリュとダグラットは息を飲んだ。
しかし彼らは苦い表情を浮かべながら、二人掛かりでソワイエの腕を掴んだ。彼女を引き摺ってでも、この村から逃がすつもりで。
腕を引かれたソワイエが唸る。二人の手を振り払おうと抵抗する。踵で溝を作ってその場に踏み止まる。褐色に枯れていた額の包帯に、また赤が滲んだ。それでも彼女は抗うことを止めない。
「駄目だ、離せ……っ!」
「姉さん……! 今は自分のことを第一に考えて下さい! 僕達に何ができるんですか!」
リュリュが叫ぶ。
しかしソワイエは、二人の腕と静止を振りほどいて駆けだした。
「姉さん!」
沈痛な声が後ろに流れる。二人が追ってくる気配を背後に感じながら、それでも彼女は振り向くことなく、森へとひた走った。
何もできないかもしれない。村人達に見つかったら、今度こそ殺されるかもしれない。
──それでも。
それでも自分可愛さに、母の友人を、辛い時に抱きしめてくれたひとを、見殺しにすることはできなかった。
炎の熱気は凄まじく、顔がぴりぴりして息苦しい。森からこちらへと近付く人影が見えて、ソワイエは走りながら外套を深く被りなおし、握った布裾を口もとに当てる。これなら少しは煙と視線をやりすごせるはずだ。
彼女は頭を下げて、その影に近付き──足を止める。
目の前の人影。真っ白な防護服は薄汚れていたが、その黒髪と褐色の肌は、別れる時に見たものとなんら変わっていない。怪我ひとつないその人の……彼女の様子に、ソワイエは思わず笑みをこぼした。
「サンセリテ……! よかった、無事だったんだな……!」
ソワイエを追ってきたリュリュとダグラットも、一拍遅れて合流する。
もはやこの村に未練はなかった。ソワイエはサンセリテの手を掴む。
「早く逃げよう。サンセリテも一緒に……。コンコルディアまで逃げれば、きっとこの村の人達も追いきれない」
ソワイエは彼女の手を引いた。外の世界に誘おうと。
──しかしサンセリテは黙ったまま、そこから動こうとはしない。そのことに気付いたソワイエは、思わず彼女に向き直って眉を顰めた。
「……サンセリテ?」
「私は行けない。この村に残らないと」
想定外の答えにソワイエは息を飲んだ。
サンセリテの背後で、村は激しく燃え続けている。
◆ ◆ ◆
あの時のことを思い出す。
リュエットがソワイエを身籠って、モンブロワを出ていくと言ったあの日。泣きじゃくるサンセリテの涙をぬぐいながら、リュエットは優しく囁いてくれた。
『ねえ、サンセリテ。一緒に村を出ましょう? ロランとも話したの。夜に逃げ出せば、きっと見咎められないわ。ロランと、ウルーと、ソワイエと、サンセリテと、わたしと……四人と一匹で、遠くの街で幸せに暮らしましょう?』
あの時も、彼女の誘いを否定したのだ。泣きながら首を横に振った。
リュエットに、ちゃんと理由を言いたかった。けれど心のうちを唇に上らせようとするたびに、言の葉は泡のように弾けていって、嗚咽で息が苦しくて……。
何も、言えなかったのだ。ただ身振りで拒否することしかできなかった。
きっとリュエットを傷付けた。
けれど、サンセリテはもう昔とは違う。
背丈が伸びて体が成長した。涙を堪えられるほどに、心も強くなった。リュエットに授けてもらった知識と知恵も、育て続けて実をつけた。彼女に導いてもらったものが手のなかにあると、今ならそう言い切ることができる。
サンセリテは表情を固めて、まっすぐに目の前のひとを見た。
リュエットの愛娘。彼女に生き写しのソワイエ。
「……神花は燃え尽きるでしょう。この騒ぎが収まったら、村人達は間違いなく怒りの矛先を探す」
声は、震えなかった。そのことに心の裏で安堵しながら、サンセリテはまた音をかたち作る。
「神花を失わせたのがソワイエだと──リュエットだと結論付けてしまったら、また憎しみは綿々と続いていくわ。村人達はあなたを赦さない。私は終わらせたいの。この不幸な憎しみと哀しみの連鎖を」
淡々と言葉を紡ぐサンセリテ。
その様子に、真っ先に違和感を覚えたのはリュリュだった。村人達と自分達が突然の出火に惑うなか、そういえば彼女一人だけが落ち着き払っている。
サンセリテの手には屋敷を出た時と同じ、小さな布袋と面紗のついた帽子がある。
──あの布袋。
リュリュは昨日のことを思い出す。彼女と初めて出会った時、ぶつかった時にサンセリテが床に撒いたのは……硬貨、使い古された手巾と、何かを書き散らした紙片、そしてちびた燧石。
彼はハッと息を飲んだ。
「……まさか、あなたが……森に火を?」
リュリュの呟きに、サンセリテはうっすらと微笑んだまま何も返さなかった。
それは、声なき肯定だった。
「ずっとこうするべきだと考えていたわ。私は確かに奴隷だけど、この村に買われて命を救われたの。今まで生きてこれたのは、村人達のおかげなのよ」
気まぐれに使い捨てられ殺される奴隷が多いなかで、サンセリテはこの年まで生きながらえた。
病に罹った時に、高価な薬を与えられたことがあった。体調が芳しくない時に、滋味のあるものを施されたことも。労働の対価はなかったけれど、時に労いの言葉を聞いた。
サンセリテの心はリュエットのもの。けれど体は、モンブロワの皆のものだ。
……この村の人々を見限ることができない。
それが、あの日リュエットに言えなかった理由。
「彼らは彼らなりに私を慈しんでくれていた。村の人達があんな風に変わってしまったのは──神花が発見されてから」
あの花が、村人達を狂わせた。
サンセリテの人生を曲げて、リュエットの心と体を痛めつけて、ロランの手を血に染めさせた。
……ああ、あの神花さえなかったなら!
「でも、でもね……神花をなくすべきだって分かっていたのに、私はそれを行動に移す勇気がなかった。迷っていたの。二十数年間、ずっと」
サンセリテの声が震え始める。
ああ、今度こそきちんと伝えられると思っていたのに──
彼女は一度言葉を切ると、大きく息を吸って、にっこりと笑ってみせた。初めて見る彼女の屈託のない笑顔は、燃え盛る森の炎に縁取られて、見開いたソワイエの眼に、強く焼きつく。
「ソワイエ……リュエットの娘、リュエットの生き写し。あなたが背中を押してくれた。あなた達をこの村から逃がすため、守るためだって思ったら、できないことなんてないって思えた。私、そんな自分に初めて誇りが持てた。私はここに残って、神花を燃やした反徒として罰を受けるわ。あの花を失って、罪を罰せて……そうしたらきっと、モンブロワの皆はここからやり直せるでしょう」
「……駄目だよ」
紅い髪が揺れる。
かぶりを振る、彼女の動きに伴って。
眉を寄せたソワイエの眦から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「駄目だ、サンセリテが犠牲になるなんて」
リュエットは魔女と呼ばれて、磔にされて杭を打たれた。
なら、彼女は?
ソワイエには分かる。きっと彼女も──
「一緒に逃げよう、サンセリテ」
震える手を差し出す。しかしサンセリテは苦しげに眼を伏せて、ゆるく首を横に振った。
そうして彼女は、喉から声を絞り出す。
「駄目よ。私は逃げない。罰を受けないといけないの。だって……だって、リュエットが魔女って呼ばれたのは……私のせい、だから」