第50話 雨の隙間
握り込んだ手はとうに冷え切っていて、新たな熱が生まれない。
末端の温度とは裏腹に、腹の底は焼けるように熱かった。爛れた痛みが腑に響き、それに耐えるようにソワイエは歯を食いしばる。
モンブロワの一夜が明けた。
相変わらず空には灰色の雲が垂れ込め、雨雫を落としている。目覚めた時から朝宵すら定かではなく──太陽がまったく姿を見せないので──銘々《めいめい》は自然とまた居間に集まった。
昨夜に話を打ち切ってから、すっかり口を重くしていたサンセリテ。ソワイエはまず、自分の異能について話した。そうして母の話の続きを物語るよう、彼女に促したのだが……
──続きを渋っていた理由が分かった。
あまりにも凄惨な、過去の出来事。
「ロランは死んだウルーの腹を裂いて、血や臓器をリュエットへと移した。彼女の腹を縫合し終えると同時に、ロランはウルーの残りを頭陀袋に押し込んで、リュエットを抱き上げて、屋敷を後にしたわ。そこから後のことは、私も知らない……」
サンセリテの声は先細り、やがてふつりと途絶えた。
ソワイエは震えながら、ひとつの昏い予感を覚える。
この身の裡の獣は、もしかしたら母から引き継いだ業なのではないか……。
すでに胎に存在していたことを考えると、あながちありえない話ではない。
側で同じように話を聞いていた、リュリュとダグラットに視線をやる。彼らも恐らく同じことを考えているのだろう。押し黙ったまま二人はソワイエに頷いた。
深い溜め息を吐く。鬱屈した気持ちを持て余し、赤い髪を掻き混ぜる。その拍子に包帯をあてがった額が引き攣れて、熱を持って痛んだ。
彼女は疵に手をあてながら、自分に石を投げた村人達の狂気を思い出す。
私刑の末に、村から姿を消したアンブローズ夫妻。ロランもリュエットも、とうの昔に亡くなっている。それでも、二十数年経った今も、二人は村人達の暗部として存在し続けていた。モンブロワの人々はずっと、人殺しと魔女の再来に怯えていたのだ。
「……それにしても……いくら神花を守るためとはいえ、なぜそこまで……」
リュリュが掠れた声で口火を切ると、サンセリテは短く嘲笑する。
「分からない? 神花は信仰の対象でもあり、村の収入源だった。人を殺してでも絶やしたくない……それだけの価値があの花にはあった。村人達は今も昔も、ずっと長い間、あの花に魅入られているの。それなしの暮らしが考えられないほどに」
サンセリテが、村人達の執着を言葉で噛み砕く。それを聞きながらソワイエは、この村に着く前に嗅いだ、甘い匂いを思い出していた。レユールキャットのカロムが狂って、馬車を飛び出すに至った香り。ソワイエも間近で芳香を嗅ぐうちに、透明な花房に魅入られた。
あれが、神花。
白い防護服を身に纏った村人達が、絶えず側で守り続ける──
「神花の香は甘い幸福で人々を満たす。苦しみも、痛みも、どろどろに溶かして、喰い尽くして、なかったことにしてしまう。何度かその匂いを取り込んでしまったら、二度とそれ無しではいられない」
「……まさか」
「そう。神花の香は麻薬よ」
ダグラットの上擦った声を受けて、サンセリテは真紅の瞳を鋭く投げかけた。
深い沈黙が落ちる。雨がぬかるみを叩く音ばかりが反響し、世界からこの部屋が取り残されたかのような錯覚を覚えた。
──突如、玄関から扉を叩く重々しい音が響く。
三人は動揺のあまり腰を浮かせたが、
「……大丈夫。訪いはあらかじめ分かっていた事よ。玄関先で話を済ませてくるから、あなた達はここから動かないで。物音がしたら怪しまれるわ」
サンセリテは小声で淡々とそう告げて、居間を後にした。
玄関扉が開く音がして、雨の音が大きく響く。交わされる会話は細々としたもので、仔細な言葉は雨に紛れて聞こえない。ソワイエ達は息を殺して、体をこわばらせた。
やがて扉が閉まる音が響き、軽い足音が居間に近付く。サンセリテが姿を現したのを認めて、三人は大きく息を吐いた。彼女は両手に、たたんだ白い布を乗せていた。
「それは?」
「神花の香を直接嗅がないための防護服よ。モンブロワは村人達が交代で、神花を見張っているの。私も夕方には森に出かけないと……」
ダグラットに言葉を返して、サンセリテは落ち着かない様子で窓の外に目線をやる。
「サンセリテさんが不在なのに、僕達は今夜もここに隠れていた方がいいんでしょうか……? さっきの村人の様子はどうでしたか?」
リュリュは一晩経って、騒ぎが小さくなったことを願っていたのだろう。しかし彼女は、その質問にゆっくりとかぶりを振った。
「昨日よりは落ち着いたみたいだけど、まだ警戒は解けていないわ。リュエットは二十数年前に突然姿を消して、昨日また現れたと思われている。しばらくは見張りの眼が厳しいでしょう」
──状況の突破口が見当たらない。
その事実に三人は深くうなだれた。
とりあえず背嚢に入っていたパンや干し肉といった保存食と、サンセリテが今ある食材で作ってくれたスープを胃に収める。
味がしないのはいつものことだが、食欲もない。それでもソワイエは何とか、喉の奥に食料を送り込んでいく。
食事を終える頃になると、雨の音が途絶えた。そのうちに陽よけ布を通して薄明りが灯るようになり、雲間から陽が差し始めたのだと分かる。
時間がのろのろと過ぎていくなか、サンセリテは森に向かうための身支度を整えていた。爪先までをすっぽりと覆う白い防護服に身を包み、髪に櫛を通す。飴色に漏れた陽光を受けて、彼女の黒髪に淡い光の輪が浮かんだ。
「それじゃ……森に行ってくるわ」
小さな布袋と面紗のついた帽子を片手に、サンセリテは三人に向き直る。各々は曖昧に首を縦に振った。
その時、ふと彼女が微笑んだかと思うと──サンセリテはソワイエに近付いて、腕を伸ばし、指で赤銅の髪を梳いた。
「希望を持って。雨は止んで太陽は現れた。事態は好転するわ。その時を……逃さないで」
……どうやら、酷く落ち込んで見えたらしい。慰めを口にしてくれた彼女に、ソワイエは苦笑混じりに頷いてみせた。
サンセリテが居間を後にする。まもなく玄関扉を閉じる音がして、屋敷は静けさで満たされた。
部屋の窓には光が滲んでいるのに、晴れた外の世界を覗くことすらできない。ソワイエは深い溜め息を吐いて、部屋の隅に体を押しやった。
いっそ雨が降り続けてくれれば良かったのに。
額の疵のせいか、体が熱っぽくて重だるく、気分が塞がってしまう。やることも見当たらなくて、彼女は壁にもたれて黙って眼を閉じた。そうしてしまえば、疎ましいと感じてしまう陽の光さえも遠ざかる。
彼女は眠りのなかへと逃げ込んだ。
何も見えず、何も考えずに済む世界へと。




