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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第1章 かくしてこの地の土を踏む
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第5話 獣の帰還


 激しく嗚咽した後のように、鼻の奥とこめかみが痛んだ。

 その痛覚に、深く沈んでいた〈ソワイエ〉が──彼女の理性が水面に浮かぶように眠りから覚めて、ソワイエという人間の枠にカチリとはまる。


 鼻孔をふさぐ生臭さに、胸がむかつく。

 辺りにむわりとただよう赤い霧で、眼がねばつく。

 わずかに身じろぎすると、ぐちゅりという湿った音と共に、血液をたっぷりと吸った外套がソワイエを重く絡めとった。

 髪や頬からしたたる、ぬるりと不快な他人の血。


(……またか)


 あきらめたように嘆息し、立ち上がる。

 側に転がった崩れかけの肉のかたまりふたつは、あの男達の成れの果てだろう。どこか冷めた頭で考えながら、彼女は自身に怪我がないか確認し、血濡れの外套のかろうじて綺麗に乾いている箇所で、手や顔や髪をぬぐった。血に混じった脂が、ぬるぬるといつまでも彼女にまとわりつく。


 ──これが異能かは分からない。

 けれどソワイエは普通の人間より嗅覚や聴覚にすぐれ、獣じみた筋力を持っている。

 そう、獣だ。思わず硬く歯噛みする。

 ソワイエは身のうちに、獣を飼っていた。


 飼いならせてなどいない。ここにいるのは狂った野生の獣。

 普段は眠っているそれは、激しい怒りや恐怖心を引き金に目を覚ましては、ソワイエの自我を喰らう。そうして体をのっとった後は、目の前の生き物を勝手に殺しては、ぐちゃぐちゃに蹂躙(じゅうりん)するのだ。

 初めてそれを経験したのは、おおよそ1年前の20歳の時。以来、彼女の意識は何度も獣に乗っ取られた。

 獣に取って代わられ、自我を取り戻すことを繰り返すうちに──その能力の代償なのか、いつの間にか彼女から少しずつ〈人間らしさ〉が失われていった。まるで、手のひらから砂がこぼれるように。


 最初は、珈琲や煙草などの嗜好品をとることができなくなった。刺激が強すぎるからだ。

 次に、文字の読み書きができなくなった。形はとらえられても、脳のなかで煙のように霧散してしまう。

 今では、血肉以外を美味しいと思わなくなった。それでも彼女は形骸的に人間らしい食事をとった。まるで砂を噛むようなむなしさで。


 ──それでもまだ、今はいい。

 彼女はそう思っている。


「……誰だよ」


 ソワイエ以外に動くもののない瓦礫のなか、虚空に言葉を放つ。

 獣じみた感覚がとらえたわずかな気配の主は、呼びかけられしばらくして、手の内を明かすようにわざと靴底を地面にならして音を立て、月明かりの下に姿をさらした。


「あれ、気付いた? これでも隠れてたつもりなんだけどなぁ」


 明るい口調とは裏腹に、その男の気配の輪郭は鋭く、暗がりでも際立って見えた。烏の羽のような髪に、黒曜石(オブシディアン)の瞳。深い闇を思わせる風貌のなかで、湾曲した金属製の義足だけが三日月のように光っている。

 その気配に──ソワイエのなかの獣が怯えるのを、彼女は感じた。食物連鎖で自分より位が上の獣を、畏怖するように。


「怖がらないで」


 彼女の動揺を察したのか、優しい声で男は呟いた。

 静かにソワイエに近づいたかと思うと、肉食獣の優雅さを思わせるなめらかな動きで、彼女の頬に指を滑らせる。物腰はやわらかだけれど、そえられた手の皮膚一枚下に、未知の生き物を隠しているかのように感じた。静かで冷たい恐ろしさに、さわさわと背骨をなでられる。その感触にソワイエは言葉を発することはおろか、硬直したまま微動だにできなかった。


「初日からひどい目にあったね」


 そうねぎらって、血にまみれたソワイエの頬を愛しそうになでる。頬骨から上顎骨へ、かたちを確かめるように。男が微笑む。口角の動きで、彼の頬に入った刺青が湾曲した。


「……ナンバーゼロ?」


 からからに乾いた唇をなんとか開き、ソワイエは弟が手紙を宛ててくれた四区の代表の名を呼んだ。彼女の言葉を聞いた男は満足そうな笑みを浮かべながら、ゆるりとうなずく。


「そうだよ、ソワイエ。僕は君が四区に来るのを、とても楽しみにしていたんだ」


 遅かったね、と恋人をたしなめるような響きが耳をくすぐる。

 四区は異能を持つ者達が集まる区だと聞いている。なるほどその代表ともなれば、この男も化け物じみた異能を持っているのだろう。得体の知れない感覚に、身のうちの獣が怯えるのも無理はない。けれど――と、そこでソワイエは思考につまずき、思わず眉をひそめた。

 血濡れの彼女を、側に転がる肉塊を見て、ゼロが状況を察知できないとは到底思えない。


「……あぁ」


 ゼロはソワイエの目線の先をたどって、笑った。

 不法に捨てられたガラクタを見るような、瞳。


「気にしなくていいよ。彼らは僕の可愛い四区民じゃない」


 それより君に怪我がなくて良かった、と続ける彼の言葉に、ソワイエはぞくりと総毛立った。ゼロの持つ、自分と異なる者への残酷さと、自分と同じ者への執着。恐ろしいと感じたものの正体を垣間見た気がして、ソワイエは思わず短い息を吐いて、皮肉げに唇をゆがめて笑った。


「……はっ」


 ──狂ってる。


 ゼロは触れていた手をそっとソワイエの頬からはがした。彼女に背を向けて、静かに四区の奥へと歩き始める。

 いつしか赤い血煙は、風で洗い流されていた。生臭い血の匂いだけが、ほのかに暗い夜の底をただよっている。闇にひとり立ち止まっていたソワイエを、数歩離れたゼロが振り返った。


「おかえり」


 親しみのこもった声が、闇を震わせた。

 月を背負い、闇夜に白い輪郭を浮かばせたゼロが、ソワイエの方へそっと腕を差し伸べる。


 異能は、あるべきところへ還る。

 ソワイエは四区へ来たのではなく、帰ったのだと、そうゼロは告げていた。


 ソワイエは無意識のうちに首もとに手を伸ばして、そこに下がった薔薇に触れていた。物心ついて間もなく亡くなった母親、その形見である赤珊瑚の薔薇を。母親はコンコルディアの四区で生まれ育ったと聞いている。


 ……ソワイエが支払う代償。

 彼女から失われていく、人間らしさ。

 ──それでもまだ〈今は〉いい。

 本当に怖いのは、異能の代償を払い続けて最後には自我を無くすことだ。

 今のように立ち返ることはできない。きっと彼女の息の根が止まるまで、どこまでも傷つけて、殺して、食い荒らしてしまうだろう。ただ一人残された家族である弟ですらも。


「姉さんを一人にはしません。僕が側にいます」


 コンコルディアに行くと告げた時の、リュリュの言葉がソワイエの脳裏によみがえる。静かだが意思を譲らない決意に満ちた、まっすぐに透き通った声だった。

 その声を思い出したソワイエは、奥歯を噛みしめた。彼女の眼に力が灯る。


(……そうだ。覚悟は決めた。ここで俺は、獣と向き合う)


 ソワイエは差し出されたゼロの手に、自分の手のひらを重ねた。

 ゼロは微笑み、付き添うかのように丁重に彼女の手を引いた。




 自らの出生を、この奇怪な力の正体を暴くため。

 そして、この忌まわしい力を棄てるため。


 答えを求めて、彼女はこの地──コンコルディアの土を踏んだ。


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