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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第4章 断罪の火よ
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第48話 追憶Ⅲ ─告白─


 どうしてあんなことになってしまったのか。

 その答えは明白だ。

 けれどそれは単なる端緒にすぎず、すべては長い時間をかけて降り積もっていたに違いない。いま、空からはらはらと舞って、村を覆っている白い雪のように。


「みよすべての罪はしるされたり

 されどすべては我にあらざりき

 まことにわれに現はれしは

 かげなき青き炎の幻影のみ

 雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ

 ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ

 すべては青きほのほの幻影のみ……」


 サンセリテは小さな声で詩を口ずさみながら、湖へと続く凍った道を歩いた。この詩はリュエットが読み聞かせてくれたもののなかで、一番印象に残っている詩だ。唇で言葉を形作るたびに、不思議と心が洗われる。


 水面にまだらな氷が浮かぶ湖に着く。サンセリテは剥き出しの手で氷を避けて、運んできた桶で水を汲んだ。水は痛いほどに冷たくて、指先が凍ってしまいそうだ。赤くなったちいさな指先に、彼女ははあっと吐息を吐きかける。


 湖を後にして、村へと引き返す道を歩く。あたりはとても静かだ。雪の日がこんなに静かなのは、雪が音を吸うからだと、リュエットが教えてくれたことを思い出す。

 ──ふと、雪を踏み分ける軽い音が届いた。サンセリテが道の先に目を凝らすと、雪景色に紛れてしまいそうな、真っ白な犬がこちらに駆ける姿が見える。


「……ウルー!」


 サンセリテは天秤棒を肩から降ろして、リュエットの相棒であるウルーを、両手を広げて抱きとめた。甘えたように鼻を鳴らすウルーが、サンセリテの頬をざらついた舌で舐める。


『ウルーはね、犬じゃないの。狼なのよ』


 そうリュエットが秘密を打ち明けてくれたのは、たしか秋の終わりだった。村人達が怖がるから内緒ね、と人差し指を唇にあてて艶やかに微笑む姿が浮かぶ。その時に、リュエットが曲馬団サーカスで獣使いとして働いていたことも聞いた。

 怖くない? そう聞かれて、すぐに首を振って否定する。だってリュエットだけじゃなくてウルーだって、サンセリテにとって大事な友達だと、そう思っていたから。


「ひさしぶりね。リュエットは? 一緒じゃないの?」


 サンセリテがウルーから体を離して尋ねると、ウルーは息を弾ませながら、返事をするように短く鳴いた。


「サンセリテ」


 聞きなれた声が呼びかける。彼女は顔を上げて、ゆったりとした足取りでこちらへ歩いているリュエットのもとへと駆け寄った。


「リュエット! いつぶりかしら。こんなに寒いから、湖に来れないのは仕方ないって思ってたけど……」


「ごめんなさいね、なかなか会いに行けなくて……今日はサンセリテをお茶に招待するために来たの。ご用事が終わったら、こっそり私の家に来てくれる? 勝手扉は開けておくから」


 きょとんとしたサンセリテの顔が、みるみるうちにほころぶ。彼女は何度も首肯した。


「すぐに行くわ!」


 力強い声を残して、天秤棒を担いで、村へと続く道を走る。


 点々と残る小さな足跡。少女の後ろ姿を、リュエットは複雑な表情で見送った。

 サンセリテなら、きっと喜んでくれるに違いない。とても喜んで──けれどその後に続く本題を、彼女は受け止めきれるだろうか。


 リュエットの赤い唇から、白い息がこぼれた。分厚い肩掛けを羽織った彼女に、少しでもぬくみを分け与えようと、ウルーが毛に覆われた体をすり寄せる。



 ◆ ◆ ◆



「……妊娠」


「ええ」


 リュエットはハーブティーの入ったカップを傾けたのち、目の前の小さな客に笑ってみせた。

 暖炉の灯った居間は暖かい。豪奢な座褥クッション長椅子(ソファー)に座って、手作りのクッキーをつまんでいたサンセリテは、驚きのあまり菓子を落としそうになる。躍った指先を落ち着かせて、クッキーを皿に戻して、彼女は身を乗り出した。


「ほんとう? 本当なの? リュエットのおなかに赤ちゃんが?」


「ええ、間違いないわ」


 リュエットがきっぱりと言い切ると、サンセリテの呆けた表情が、あっという間に弾けんばかりの歓びで満たされた。彼女は腰を浮かせてリュエットの手を取り、何度も上下に揺する。


「すごいわ! リュエットがママになるのね! ああ、おめでとう……おめでとうリュエット! どうしよう、男の子かしら、女の子かしら……そう、名前! 名前はどうするの!?」


 興奮のあまり頬を染め、早口でまくし立てるサンセリテ。リュエットのおなかはまだわずかに膨らんできたばかりで、本来なら気が早いとたしなめるところだが、


「女の子よ。名前も決めてあるの」


 リュエットはそう答えて、微笑んでみせたのだ。


「……分かるの?」


「ええ、女の子よ。ねえ、ソワイエ」


 愛しげに腹部を撫でて語りかける彼女に、サンセリテは目をまるくする。けれどリュエットの隣で、静かに彼女を見上げるウルーを見て、リュエットなら分かるのかもしれない、と考えてしまう。言葉にできない神秘性を、いつも彼女からは感じていた。

 だからサンセリテも、あえてそれを問うような真似をせず、顔を低くしてリュエットの瞳を下から覗きこんだ。


「ソワイエって名前なのね? どんな意味を込めてるの?」


 自分に真心サンセリテと名付けてくれた彼女のことだ。きっと愛娘にも、心のこもった名前を贈るに違いない。


 あのね、とリュエットが唇を動かす。手のひらで囲いを作って、サンセリテの耳に押し当てて、そこにひそひそと言葉を落とした。屋敷には二人とウルー以外誰もいないのに、爆ぜる炎にすら秘密にしたいという面持ちで。


「……素敵。とっても素敵ね」


 頬を紅潮させて、瞳をきらきらと輝かせるサンセリテ。リュエットははにかみながら、ありがとうと彼女に返す。


「でもリュエット。もしも、もしもよ? あなたの勘が外れて、男の子が産まれたらどうするの? その場合のことも考えておいた方がいいんじゃない?」


「ロランにもそう言われたわ」


 ふふ、と笑みをこぼすリュエットに、サンセリテは自分の顔が熱くなるのを感じた。

 実のところ彼女は、リュエットに憧れるのと同じように、リュエットを誰よりも愛するロランにも、思慕に似た感情を抱いていた。端正な顔立ち、優しい微笑み。会話を交わしたことは、まだほとんどないけれど。

 リュエットは微笑みを絶やさず、言葉を続ける。


「ちゃんと考えているのよ。この子が女の子なのは間違いないけれど──次はきっと男の子だって気がするから。だからもしも男の子が産まれたなら、リュリュって名前を贈るわ」


私の可愛い子(リュリュ)? リュエット、それは小さい頃は可愛いけど、大きくなったら恥ずかしがるんじゃない? 男の子なら、なおさら……」


 言い淀むサンセリテに、あら、とリュエットは呟いて、得意気な顔になる。


「だからこそ、よ。男の子は小さい頃は懐いてくれても、大きくなったら母親と話すことさえ嫌がる時期が、きっとくるわ。それでも私は名前を呼ぶの。リュリュ、リュリュ──私の可愛い子(リュリュ)、って」


 瞳を細めたリュエットが、そっと自分のおなかに手をあてる。ゆるく撫ですさりながら、彼女は眼差しをやわらかく緩めた。


「名前は、その子への初めての贈り物。そしてその子が天に召されるまで、一生誰かの口から生まれ続ける、短い愛の言葉だわ」


 ──瞳の奥が、熱くなる。サンセリテは慌てて何度も眼をしばたき、そう、と唇で形作ると、彼女から視線を外した。気を緩めたら、泣いてしまいそうで。

 真心サンセリテ。それがリュエットが奴隷スレイヴだった少女に授けてくれた愛。自分の子どもだけではなく、自分にも同様に愛を贈ってくれたのだと分かって、胸が一杯になる。


「──あたし、きっとソワイエとも友達になれるわ。リュエットの子どもだもの。うんと可愛がるから、リュエットが大変な時は、あたしを頼ってほしいな。力になるから」


 照れ隠しに話の水先を変えて、それでもそれはサンセリテの心からの言葉だった。

 リュエットならきっと、笑って頷いてくれる。そう思っていたのに、彼女の笑みには翳りが落ちた。

 言葉を返さず、寂しそうな顔で俯くリュエットを見て、サンセリテの喜びに膨らんだ心が、みるみるうちにしぼんでいく。


「……迷惑、だったかしら。あたし、出しゃばったことを口にした?」


「いいえ、そうじゃないの……あなたの気持ちはとても嬉しいわ」


 そう口にしたきり、リュエットは押し黙った。サンセリテも、何も言えなかった。喜びで満たされていたはずの居間の空気が、急に重苦しくなったように感じる。

 パチン、と暖炉の薪が小さく爆ぜた。


「……今日、ロランは隣町の診療所を休診にして、交易都市のシュルーズまで足を運んでいるの。いろんな街の貸し家屋かおく、その仲介人に話を聞いてくるために」


 リュエットの唇から紡がれる言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。サンセリテは、彼女の台詞をゆっくりと頭のなかで咀嚼する。

 ──するとつまりリュエットは、


「モンブロワから、出ていくの?」


 自分の声が、まるで他人のもののように響く。リュエットは、無理矢理苦いものを飲み込むような顔で、それでもサンセリテに微笑んだ。


「ロランとも、何度も話し合ったの。でも半年が過ぎても、モンブロワの人達は、わたし達を受け入れてくれない」


 リュエットの顔に苦渋が浮かぶ。確かに村人達の態度は、時間が経つにつれ軟化するどころか、悪くなる一方だ。アンブローズ夫妻へ向けられる視線は、常に懐疑的なもので──彼女は決して口にしないが、最近では嫌がらせまで受けるようになっていた。


 それもすべて、神花のため。いまやの花は高値で取引されるようになり、表沙汰にはしないものの、実質村の収入源となっている。

 誰も彼もが神花への信仰を募らせるあまり、誰かが花を枯らしたり、その種を途絶えさせたり、独り占めにするのではないかと、疑心暗鬼に陥っていた。その悪心の捌け口に、村のよそ者であるリュエットが贄となっている。


「わたしはいいの。けど、この子にまで辛い思いをさせてしまったら……。そう考えると、やっぱり移り住むよりほかはないと思ったの。安定期に入ったら、わたし達……この村を去るわ」


 サンセリテの、開いたままの唇から、なにも音が漏れない。

 嫌だ、とか、いかないで、とか。言いたいことはたくさんあるのに、それが彼女を、彼女の家族を困らせてしまうと分かってしまう。からからになった喉を潤そうと、息をひとつ飲んだ。その拍子に、喉の奥が痛んで息が苦しくなる。


「ごめんなさい。ごめんなさい、サンセリテ。わたし、あなたの友達なのに……」


 身を乗り出して、両のかいなを伸ばし、リュエットは目の前の少女を抱きしめる。

 その優しさに、必死で耐えていたものがあふれ出した。サンセリテは大粒の涙をいくつもこぼし、静かに啜り泣いた。リュエットの胸に顔を埋めて、彼女のあたたかさに、やわらかさにくるまれて、それでも彼女を止める言葉は口にせずに。


 ああ、リュエットのためだと分かっていても、胸が引き裂かれるように痛い……。


 ──それでもそこは寒さからは程遠く、暖炉の炎と人のぬくみに満ちていた。

 やがてサンセリテは知る。

 身を切る吹雪や、冬の暴虐。やがて訪れるそれに比べれば、このひとときは甘い感傷に過ぎなかったと。


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