第46話 入眠儀式
二十数年を遡っても、なお鮮やかな思い出。ずっとそれを紡いでいたサンセリテは、ふと唇の動きを止めた。夏の陽の輝きを映していた眼で、改めて現実を見ると、そこは晩秋のうら寂しい雨の夜だった。息をつき、臀部を床に降ろして、固まっていた足を伸ばす。
「……これが私とリュエットの出会い。リュエットは私の恩人よ。そのあとも私が望めば、人としての作法や読み書きを教えてくれた。私はリュエットに、人間にしてもらったの」
薄暗い室内に、詰めていた息を吐く音が三つ響いた。少し離れた窓辺で話に耳を傾けていた初老の男ダグラット、それから目の前にはロランによく似たすみれ色の髪を持つ、彼の息子であるリュリュと──リュエットに瓜二つの娘、ソワイエ。
「そっか……母さんが……」
ソワイエは嬉しそうに頬を緩ませた。
サンセリテは、ちらと彼女の頭に目をやる。褐色に汚れた包帯が巻かれた額は、幸いなことに出血は止まったらしい。それでもソワイエの目蓋が重たげな様子を見てとると、サンセリテは手燭を持って立ち上がった。
「続きは明日にしましょう」
「えっ……? いや、肝心なところの話ががまだだし、俺なら大丈夫だ」
「何を言ってるの。今日あなたは心も体も消耗したし、早めに休まないと傷にも触るわ。どのみちしばらく外には出れない。そんなに焦らなくてもいいのよ。二階に寝室があります。案内するからついてきて」
「や、でも……ここってサンセリテの家だよな? 俺が寝室を潰したら、あんたどこで寝るんだよ」
サンセリテは溜め息をついた。言葉遣いこそ違うけれど、そのかんばせと、自分よりも人のことを気遣う性根はリュエットそっくりだ。
「私は子どもの頃は納屋暮らしだったし、それに寝室には寝台がふたつあるから大丈夫。この家はもともとアンブローズ夫妻のものなの。空き家になったから、村長から管理を兼ねて住むように言われただけで」
「──え」
ソワイエが絶句して、眼をまるくする。残る二人も同様に驚いた表情で、口を開けたまま室内のあちこちを眺めていた。
品の良い臙脂の壁紙、黒褐色の調度品。木彫りの額に収められた植物画に、煉瓦造りの暖炉の上の、植物を模った金の燭台。それらすべては、誘われて訪ったあの頃よりも、ずいぶんと色褪せて白けてしまったけれど。
サンセリテは強く瞬きをして、追慕を振り払った。
「さ、二階に。ダグラットとリュリュは、もう少し一階にいて貰っていい? 村人達はこの家にソワイエがいるとは思わないだろうけど……念のために」
「ああ、まかせとけ」
サンセリテは薄い微笑みを二人に向けて、まだ不本意そうなソワイエの背に手を添え、部屋を出て突き当りの階段を昇った。寝室の扉を開けて彼女を迎え入れ、うっすらと埃が積もっている方の寝台カバーを取り払う。
横になったソワイエに布団を被せる。ふっと息を吹きかけてサンセリテが手燭の炎を消すと、布のかかった窓越しの灯り──外で彼女を探すために焚かれる松明のちらつきが気になるのか、ソワイエは眼を閉じても、またすぐにうっすらと睫毛をほどく。
「……ここなら大丈夫、心配ないわ。側にいるから、安心してお眠りなさい」
小さな声で囁いて、サンセリテはソワイエの手を握った。もう片方の手で掛布を優しく叩く。幼子をあやすように。
「……ん」
ソワイエはくぐもった返事をして、とろとろと目蓋を降ろした。
引き結ばれていた彼女の唇はやがてやわらかく開き、隙間から穏やかな寝息が漏れ始める。そうしてソワイエが深い眠りについたことを確認すると、サンセリテはそっと繋いでいた手を離した。
彼女は一階へと戻り、リュリュとダグラットに、三人交代の見張りを立てることを提案する。
「サンセリテとリュリュはソワイエに付いててやれ。なに、一晩くらいの寝ずの番なら、俺一人で事足りるさ。仕事柄、時々徹夜はあるしな」
ダグラットの申し出に、異を唱えたのはリュリュだ。
「夜は長いです。夜半まで僕が見張りに立ちますから、ダグラットさんは休んでいて下さい」
「いや、だが──」
「僕だって男です。こう見えて体力には自信がありますし、夜が更けたらダグラットさんを起こして、ちゃんと交代して貰いますから。もしかしたらまた姉さんを担いで貰うことになるかもしれませんし、体力を温存しておいて下さい」
理路整然と言いくるめられて、ダグラットも反論できないようだった。きまりの悪そうな顔で頭をがしがしと掻いて「必ず起こせよ」とリュリュに念押しして、彼は絨毯の上で横になる。
「サンセリテさんは姉さんの隣で休んで下さい。こういう時は女性同士の方が安心して甘えられると思うんです。お願いします」
リュリュはそう言って、黒縁眼鏡の奥の眼を笑みの形に眇めた。
さっきまで姉の独白に呆然としていたとは思えないほど、的確な判断だった。
「……そうね。そうするわ」
サンセリテは彼の言葉に首肯を返して、簡単に家のつくりを言い伝えた。玄関のある方角、厠と洗面台は廊下を渡った先にあること。いざという時のために、もう一つ手燭を渡しておく。
「おやすみなさい」
早々に寝入っていびきをかくダグラットを背後に、居間に残ったリュリュは戸口までサンセリテを見送り、夜の別れの挨拶を口にした。くれぐれも姉をよろしく頼むと、そう青い眼で語りながら。




