表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第4章 断罪の火よ
46/56

第45話 追憶Ⅱ ─名前─


 二人は湖畔を隠れ家とした、秘密の友達になった。

 リュエットは、スレイヴが初めて口にする甘い菓子を分け与え、文字の読めない彼女に物語を読み聞かせてくれた。顔の泥を拭い、もつれた髪に指を入れ、くしきほぐし、戯れに編み込んでリボンを結んでくれる。


「あなたの肌の色と髪の色はとても綺麗ね。緑を育む腐葉土と、賢く美しい鴉の濡れ羽根の色」


 歌うようにたとえながら見目を整えてくれるリュエットのおかげで、スレイヴは前よりも、他人と違う褐色の肌や、汚泥のように黒い髪を忌み嫌うことはなくなった。


 けれどせっかく丁寧に編んでくれた髪も、湖畔から離れる際にはほどき、髪を掻き混ぜてぐしゃぐしゃにしなければならない。スレイヴがリボンの端をつまんで引く時、リュエットはいつも少しだけうつむいて、寂しそうな表情を隠した。

 それでも。整えたまま村に帰れば、誰かに咎められる。もしもリュエットがスレイヴの髪を結ったと分かれば、きっと迷惑をかけてしまう。


 しかしスレイヴは髪をほどく際、いつも理由を言わなかった。それどころか、スレイヴはリュエットと一度も言葉を交わしたことがなかった。彼女を前にすると、不思議とうまく声が出ないのだ。


『ねぇ、あなたの名前は?』


 前にリュエットにそう聞かれた時、スレイヴは黙って首を横に振った。

 もしかすると、口がきけない、あるいは名前がないと思われているかもしれない。それでもいいのだ。こんな名前を彼女の前で口にするくらいなら──



 ◆ ◆ ◆



 夏が深さを増していく。樹木にしがみついた蟲達がかしましく鳴き、太陽はいっそうの輝きをもって地面を焼く。緑の天蓋のついた湖畔でもそれは例外ではなく、それでもリュエットは白いつば広の帽子をかぶって、たびたび湖に訪れた。


(こんなに暑いのに、なんでわざわざここにくるんだろう……)


 スレイヴは桶で水を汲みながら、木陰で休む彼女を見て首を傾げる。いつものように白い犬の側で、書物を繰る彼女の俯き顔は美しい。

 ふと顔を上げたリュエットと、ぱちりと目が合う。彼女はにこりと微笑んだ。気恥ずかしくなって、スレイヴはぱっと視線を外す。


(もしかして、あたしに会うため?)


 思い上がった考えが脳裏をよぎった。

 彼女はその考えに羞恥を覚えたらしく、幼い頬にさっと赤みが差した。スレイヴは慌てて水桶を天秤棒に引っ掛けてそれを担ぎ、足早に湖畔を後に──しようとした。


「あっ」


 小さく短い叫び声に、スレイヴは振り返る。彼女の虹彩に映ったのは──風に高く舞い上がった白い帽子と、それを追ってスカートの裾を翻すリュエットの姿。

 彼女の数歩先で緑は繁るのをやめ、地面は落ちくぼんで深い水をたたえている。リュエットがその境界の落差に足を取られる。かしいだ彼女の頭蓋の先にあるのは、湖畔から顔を出す荒々しい岩石──


「リュエット!」


 本能的に叫ぶ。同時に体が動いた。

 一足飛びに彼女のもとに駆け、幼い両腕で彼女の頭を抱きしめた。勢いあまってそのままリュエットを横に押し倒す。

 水が激しく割れる音が響いた。


 ……水に波紋が広がり、静寂が湖畔に還る。抱きしめた体から、とくとくと血潮が流れる音がする。肌のぬくみと甘い香りが伝わって、スレイヴは我に返ってあわててリュエットから体を剥がした。水が揺れる甲高い音。彼女の側にはいつの間にか、ずぶぬれになった白い犬が寄り添っている。


 青い瞳を見開いたまま、茫然とした表情でへたりこんだリュエット。白い犬が鼻を鳴らし、心配そうに彼女の頬を舐めても身じろぎひとつしない。


 どこか怪我をしたんだろうか。

 同じように彼女の向かいで水のなかに座ったスレイヴが、何か言おうと唇を開いた時。


「……ふ…………うふふ、ふふふふっ!」

 

 リュエットが破顔して、笑い声を漏らした。それはたちまち大きくなって、彼女は口を開けて声を立てて笑いだす。唇に手をあててもなお抑えられないのか、体を揺らしながら、白い歯をこぼして。濡れた赤銅の髪からぽたぽたと落ちる雫が、光を浴びて真珠めいた輝きを帯びる。


「ご、ごめんなさい、びっくりして……ふふふっ! ああ、それに、わたしの名前……名前をやっと呼んでくれた!」


 水に濡れそぼった姿を気に留める様子もなく、リュエットは無邪気にくすくすと声を立てた。その朝露を宿した大輪の花のような姿に、思わず見惚れていたスレイヴは、彼女の言葉に呆気にとられる。


(あたしが名前を呼んだこと……リュエットは、うれしいの?)


 こんな卑しい娘が名を呼んだことが、そんなに──


 どういう顔をすればいいのか分からなくて、あわてて立ち上がって逃げようとしたスレイヴを、リュエットが指を引いて押し留めた。


「駄目よ、あなたがわたしの名前を知っていて、名前を呼んでくれたのに、わたしはあなたの名前を知らない。こんなの不公平だわ。教えてくれるまで、離さないから」


 悪戯めいた表情でリュエットは笑って、ぎゅっとスレイヴの指先を握った。冷えた手に広がるぬくみに、思わずたじろぐ。誰もこんな風に、彼女の手をとってはくれなかった。なのに。


「ねえ、あなたの名前は?」


 リュエットがきらきらとした瞳をスレイヴに向けた。晴れ渡った青の色に、吸い込まれそうになる。どこまでも澄んだ眼で見つめられて、スレイヴはずっと硬く閉じていた蓋のなかのものが、やわらかくとろけて溢れ出るのを感じた。勝手に唇が開いて、言葉が滑り落ちる。


奴隷スレイヴ


 その言葉をかたち作った瞬間、リュエットの微笑みが立ち消えた。スレイヴは思わず彼女から視線を外す。


「あたし、村長に買われた奴隷なの。いまよりもっと……うんと小さい頃に、奴隷市で買ってきたんだって、そう村長が言ってた。あたしはこの村のもので、この村のために働いて、死んでいくんだって。だから、あなたとは……ちがうの」


 たどたどしい言葉を紡ぐ。リュエットに話しているはずなのに、スレイヴはどうしても顔を上げることができなかった。彼女の表情を確かめることが、恐かった。


「……奴隷スレイヴだなんて」


 温度を持たないリュエットの声が降ってきて、スレイヴはぎゅっと目蓋を閉じて身を固くした。

 ああ、失望させてしまった。身なりが汚い子どもとはいえ、まさか奴隷と仲良くしていたなんてと、彼女が落胆するのも無理はない。こうして言葉を交わせるのも、きっとこれきりだ。

 リュエットが息を大きく吸い込み、声を張った。


奴隷スレイヴだなんて! そんなの、名前じゃないわ! いくらなんでも酷いわ、そんなの」


 思いがけない言葉に、スレイヴは顔を上げる。頬をまるく膨らませて、憤るリュエットの顔がそこにある。瞳の色に失望は……宿らない。一片たりとも。


「そうだわ! わたしがあなたの名前を考えてもいいかしら? もちろん村で呼ぶのは、あなたにとって色々と不都合なことだから……この湖で会う時だけ。そうよ、素敵だと思わない? あなたとわたしだけの秘密の名前」


 声を弾ませて、さっそくリュエットは唇に指をあてながら視線を宙にやり、思考の海に飛び込んでいく。その表情は、まるで自分だけの花園を見つけたかのように、喜びで満ちあふれていた。


「──真心サンセリテ


 しばらくののちに、ぽつりとリュエットが落とした呟き。それはスレイヴの耳を震わせ、体の奥底へと滑り込み、あたたかい何かで満たす響きだった。


「そう、サンセリテ……サンセリテはどうかしら。言葉少なだけど、いつもわたしに真心で接してくれる、わたしのちいさなお友達?」


 優しく目を眇めて少女に微笑み、小首を傾げるリュエット。


「サンセリテ……」


 少女は舌で、言葉を飴のように転がす。声帯を震わせて生まれたその名前は、じわり、じわりと心の奥深いところへ沁み込んでいく。心の一番やわらかなところに、その言の葉の響きが届いた時──なぜだか鼻がツンと痛み、眼の奥が熱くなった。


「えっ……あら、どうしたの? 名前、気に入らなかった?」


 リュエットは心配そうな声音で尋ねて、少女の顔を覗き込んだ。

 いくつもの丸い雫の珠が、水面に落ちて波紋を作る。頬を伝うあたたかさに気付いた少女は、慌てて目もとを拭いながら、激しくかぶりを振った。


「違う……うれしい、うれしいの……ありがとう。ありがとう、リュエット」


 あたしを、人間として扱ってくれて──


 湖のふちどりを覆って重なり合う樹枝の緑、その隙間からこぼれる夏の陽が、水面の上に白くわだかまる。揺れる水は銀の輝きをはね返して、水に浸かった少女の体に、肌に、髪に、光の祝福を投げかけた。


 それは、洗礼。

 この日、奴隷スレイヴ人間サンセリテになった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ