第45話 追憶Ⅱ ─名前─
二人は湖畔を隠れ家とした、秘密の友達になった。
リュエットは、スレイヴが初めて口にする甘い菓子を分け与え、文字の読めない彼女に物語を読み聞かせてくれた。顔の泥を拭い、もつれた髪に指を入れ、櫛で梳きほぐし、戯れに編み込んでリボンを結んでくれる。
「あなたの肌の色と髪の色はとても綺麗ね。緑を育む腐葉土と、賢く美しい鴉の濡れ羽根の色」
歌うように喩えながら見目を整えてくれるリュエットのおかげで、スレイヴは前よりも、他人と違う褐色の肌や、汚泥のように黒い髪を忌み嫌うことはなくなった。
けれどせっかく丁寧に編んでくれた髪も、湖畔から離れる際にはほどき、髪を掻き混ぜてぐしゃぐしゃにしなければならない。スレイヴがリボンの端をつまんで引く時、リュエットはいつも少しだけ俯いて、寂しそうな表情を隠した。
それでも。整えたまま村に帰れば、誰かに咎められる。もしもリュエットがスレイヴの髪を結ったと分かれば、きっと迷惑をかけてしまう。
しかしスレイヴは髪をほどく際、いつも理由を言わなかった。それどころか、スレイヴはリュエットと一度も言葉を交わしたことがなかった。彼女を前にすると、不思議とうまく声が出ないのだ。
『ねぇ、あなたの名前は?』
前にリュエットにそう聞かれた時、スレイヴは黙って首を横に振った。
もしかすると、口がきけない、あるいは名前がないと思われているかもしれない。それでもいいのだ。こんな名前を彼女の前で口にするくらいなら──
◆ ◆ ◆
夏が深さを増していく。樹木にしがみついた蟲達がかしましく鳴き、太陽はいっそうの輝きをもって地面を焼く。緑の天蓋のついた湖畔でもそれは例外ではなく、それでもリュエットは白いつば広の帽子をかぶって、たびたび湖に訪れた。
(こんなに暑いのに、なんでわざわざここにくるんだろう……)
スレイヴは桶で水を汲みながら、木陰で休む彼女を見て首を傾げる。いつものように白い犬の側で、書物を繰る彼女の俯き顔は美しい。
ふと顔を上げたリュエットと、ぱちりと目が合う。彼女はにこりと微笑んだ。気恥ずかしくなって、スレイヴはぱっと視線を外す。
(もしかして、あたしに会うため?)
思い上がった考えが脳裏をよぎった。
彼女はその考えに羞恥を覚えたらしく、幼い頬にさっと赤みが差した。スレイヴは慌てて水桶を天秤棒に引っ掛けてそれを担ぎ、足早に湖畔を後に──しようとした。
「あっ」
小さく短い叫び声に、スレイヴは振り返る。彼女の虹彩に映ったのは──風に高く舞い上がった白い帽子と、それを追ってスカートの裾を翻すリュエットの姿。
彼女の数歩先で緑は繁るのをやめ、地面は落ちくぼんで深い水をたたえている。リュエットがその境界の落差に足を取られる。傾いだ彼女の頭蓋の先にあるのは、湖畔から顔を出す荒々しい岩石──
「リュエット!」
本能的に叫ぶ。同時に体が動いた。
一足飛びに彼女のもとに駆け、幼い両腕で彼女の頭を抱きしめた。勢いあまってそのままリュエットを横に押し倒す。
水が激しく割れる音が響いた。
……水に波紋が広がり、静寂が湖畔に還る。抱きしめた体から、とくとくと血潮が流れる音がする。肌のぬくみと甘い香りが伝わって、スレイヴは我に返ってあわててリュエットから体を剥がした。水が揺れる甲高い音。彼女の側にはいつの間にか、ずぶぬれになった白い犬が寄り添っている。
青い瞳を見開いたまま、茫然とした表情でへたりこんだリュエット。白い犬が鼻を鳴らし、心配そうに彼女の頬を舐めても身じろぎひとつしない。
どこか怪我をしたんだろうか。
同じように彼女の向かいで水のなかに座ったスレイヴが、何か言おうと唇を開いた時。
「……ふ…………うふふ、ふふふふっ!」
リュエットが破顔して、笑い声を漏らした。それはたちまち大きくなって、彼女は口を開けて声を立てて笑いだす。唇に手をあててもなお抑えられないのか、体を揺らしながら、白い歯をこぼして。濡れた赤銅の髪からぽたぽたと落ちる雫が、光を浴びて真珠めいた輝きを帯びる。
「ご、ごめんなさい、びっくりして……ふふふっ! ああ、それに、わたしの名前……名前をやっと呼んでくれた!」
水に濡れそぼった姿を気に留める様子もなく、リュエットは無邪気にくすくすと声を立てた。その朝露を宿した大輪の花のような姿に、思わず見惚れていたスレイヴは、彼女の言葉に呆気にとられる。
(あたしが名前を呼んだこと……リュエットは、うれしいの?)
こんな卑しい娘が名を呼んだことが、そんなに──
どういう顔をすればいいのか分からなくて、あわてて立ち上がって逃げようとしたスレイヴを、リュエットが指を引いて押し留めた。
「駄目よ、あなたがわたしの名前を知っていて、名前を呼んでくれたのに、わたしはあなたの名前を知らない。こんなの不公平だわ。教えてくれるまで、離さないから」
悪戯めいた表情でリュエットは笑って、ぎゅっとスレイヴの指先を握った。冷えた手に広がるぬくみに、思わずたじろぐ。誰もこんな風に、彼女の手をとってはくれなかった。なのに。
「ねえ、あなたの名前は?」
リュエットがきらきらとした瞳をスレイヴに向けた。晴れ渡った青の色に、吸い込まれそうになる。どこまでも澄んだ眼で見つめられて、スレイヴはずっと硬く閉じていた蓋のなかのものが、やわらかくとろけて溢れ出るのを感じた。勝手に唇が開いて、言葉が滑り落ちる。
「奴隷」
その言葉をかたち作った瞬間、リュエットの微笑みが立ち消えた。スレイヴは思わず彼女から視線を外す。
「あたし、村長に買われた奴隷なの。いまよりもっと……うんと小さい頃に、奴隷市で買ってきたんだって、そう村長が言ってた。あたしはこの村のもので、この村のために働いて、死んでいくんだって。だから、あなたとは……ちがうの」
たどたどしい言葉を紡ぐ。リュエットに話しているはずなのに、スレイヴはどうしても顔を上げることができなかった。彼女の表情を確かめることが、恐かった。
「……奴隷だなんて」
温度を持たないリュエットの声が降ってきて、スレイヴはぎゅっと目蓋を閉じて身を固くした。
ああ、失望させてしまった。身なりが汚い子どもとはいえ、まさか奴隷と仲良くしていたなんてと、彼女が落胆するのも無理はない。こうして言葉を交わせるのも、きっとこれきりだ。
リュエットが息を大きく吸い込み、声を張った。
「奴隷だなんて! そんなの、名前じゃないわ! いくらなんでも酷いわ、そんなの」
思いがけない言葉に、スレイヴは顔を上げる。頬をまるく膨らませて、憤るリュエットの顔がそこにある。瞳の色に失望は……宿らない。一片たりとも。
「そうだわ! わたしがあなたの名前を考えてもいいかしら? もちろん村で呼ぶのは、あなたにとって色々と不都合なことだから……この湖で会う時だけ。そうよ、素敵だと思わない? あなたとわたしだけの秘密の名前」
声を弾ませて、さっそくリュエットは唇に指をあてながら視線を宙にやり、思考の海に飛び込んでいく。その表情は、まるで自分だけの花園を見つけたかのように、喜びで満ちあふれていた。
「──真心」
しばらくののちに、ぽつりとリュエットが落とした呟き。それはスレイヴの耳を震わせ、体の奥底へと滑り込み、あたたかい何かで満たす響きだった。
「そう、サンセリテ……サンセリテはどうかしら。言葉少なだけど、いつもわたしに真心で接してくれる、わたしのちいさなお友達?」
優しく目を眇めて少女に微笑み、小首を傾げるリュエット。
「サンセリテ……」
少女は舌で、言葉を飴のように転がす。声帯を震わせて生まれたその名前は、じわり、じわりと心の奥深いところへ沁み込んでいく。心の一番やわらかなところに、その言の葉の響きが届いた時──なぜだか鼻がツンと痛み、眼の奥が熱くなった。
「えっ……あら、どうしたの? 名前、気に入らなかった?」
リュエットは心配そうな声音で尋ねて、少女の顔を覗き込んだ。
いくつもの丸い雫の珠が、水面に落ちて波紋を作る。頬を伝うあたたかさに気付いた少女は、慌てて目もとを拭いながら、激しくかぶりを振った。
「違う……うれしい、うれしいの……ありがとう。ありがとう、リュエット」
あたしを、人間として扱ってくれて──
湖のふちどりを覆って重なり合う樹枝の緑、その隙間からこぼれる夏の陽が、水面の上に白くわだかまる。揺れる水は銀の輝きをはね返して、水に浸かった少女の体に、肌に、髪に、光の祝福を投げかけた。
それは、洗礼。
この日、奴隷は人間になった。




