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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第4章 断罪の火よ
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第44話 追憶Ⅰ ─出会い─


「スレイヴ」


 名前を呼ばれて、息を切らした幼子は顔を上げた。こちらを見下ろすのが村長むらおさであることに気付き、肩に食い込む天秤棒を降ろす。棒の両端に下がった、たっぷりと水を蓄えた桶が、たぷんと水音を立てて揺れた。


「納屋に食べ物を運んでおいた。桶を運び終えたら帰りなさい」


 スレイヴをねぎらうでもなく、それだけ言い終わると、彼はその場を後にした。

 村長の家のくりやに続く勝手扉の前に水を運び終え──室内に入ることはかたく禁じられている──スレイヴは村の外れにある納屋へと足を向けた。


 粗末な木組みの納屋は、人ひとり寝転ぶのがやっとといった大きさだ。土の上に干し草を敷き詰めただけの床、調度品など何もないそこに、欠けた皿が置かれている。その上に乗った小さく硬いパン、隣にはへこんだブリキの杯に入った水と、黒ずんだ椀に入った野菜屑があった。スレイヴは村長のほどこしを、手掴みで口へと運んで貪る。


 食事を終えると、彼女は村の中心へと足を運んだ。村長から、用のない時は村人達の手伝いをするようにと言いつけられている。石畳の広場に立って辺りを見回すと、複数人の婦人達の影があった。

 噂話に興じているらしく、自然とスレイヴの耳にも押し殺した声が届く。


「ほら、あの少し前に挨拶にきた若夫婦。確かもうすぐだよ、越してくるのは」


「まったく、なんだってこんな時に……よそ者が」


「仕方ないさ、あの時はまだ神花も見つかっていなかった。村長に落ち度はないさ。とっとと別の街に行くか、素直に言いなりになってくれりゃいいんだけど」


 陰鬱な囁きに、スレイヴは目をしばたく。

 ──この村によそ者が?

 思わず彼女らに近付くと、その気配に婦人らの会話が立ち消えた。近付いてきたのが小さな影だと気付いて、婦人のひとりが仰々しく息を吐く。


「……ああ、なんだお前か。特に用事はないよ。立ち聞きなんて、品がないったら」


「やだね、この子にそんなもの求めるだけ無駄さ」


 スレイヴを見下げて、くすくすと笑う声がまとわりついた。彼女は婦人達から視線を外し、足早にその場を後にする。


 以前は自由だったのに、三ヶ月ほど前から、村の最奥にある森への立ち入りは禁じられていた。村の男衆が少し前にたくさんの鉄材を森に運んでいたから、おそらく今では神花を守るための鉄柵がこしらえられているのだろう。

 スレイヴは森の入り口の脇にある小道を歩いて、よく水汲みに訪れる湖の側で腰を下ろした。やわらかい風が頬を撫で、濃く深い木々が香る。鳥達のさえずりが耳をくすぐって、スレイヴはそこでやっと深く息をついた。


 ──前は、こんなじゃなかったのに。

 スレイヴは小さな膝を抱えて、水鏡のゆらぎを眺めた。

 あの神花とやらが見つかってから村人達は皆、神経質になっている。以前から家畜と同等の扱いを受けていた身だが、それでもいわれのない陰口の的にされたり、気まぐれで理不尽な暴力を受けることはなかった。


 スレイヴはそっと水鏡を覗き込む。くしいたことのないもつれた黒髪、それにふちどられた幼い褐色の頬。顔の腫れはいまだ引かない。けれど唇の端が黄褐色に変色してきたから、もうじきあざも薄まってくるだろう。

 自分の顔を確かめているうちに、彼女の眼がたちまち潤っていく。


「……みにくい」


 ぽつりとスレイヴは言葉を吐いて、顔を膝にうずめた。彼女が覗き込んだ湖には、落ちたしたたりによる波紋がうすく広がっていった。



 ◆ ◆ ◆



 春の萌葱はやがて濃く色付き、光が暴力的にさんざめく夏が訪れる。緑葉が濃く繁り、極彩色の命が生まれ、腐り落ち、濃い影のなかに死が濃密に横たわる。

 にぎやかしい生の隣には骸の気配があって、その陰影の激しさに疲弊する季節。


 その日もよく晴れていた。スレイヴは陽が高くなる前に、広場の石畳に水を打っていた。少しでも村人らが涼を取れるようにと、村長から言いつかったのだ。広場に水桶を運んでは、椀で水をすくって撒く。

 彼女が立ち止まって額の汗をぬぐっていると、ふと背後から影が差した。


「あら、まだ小さいのに偉いわね。手伝いましょうか?」


 聞きなれない優しい声が降る。


 ──振り向いた時に眼を焼いた鮮烈さは、きっと一生忘れない。

 そこには一人の女の姿があった。豊かな赤銅の髪は、赤薔薇のような鮮やかさ。身に着けている繊細なレースのワンピースは、陽の光をはね返して輝く純白。眩しさに思わず目をしばたたいても、まなうらに女の像が残る。まるで強い光を、太陽を見た後のように。


 その女は美しかった。白くやわらかな肌に、一枚の真紅の花びらを浮かべたかのようにみずみずしく色付く唇。青い瞳は蒼穹よりもなお精彩を放ち、まなじりは慈愛に満ちていた。彫刻家が丹精込めて作った、繊細な女神像のようだ。けれど彼女は今スレイヴの目の前で動き、呼吸をしている。


 言葉を忘れて、ただただ彼女に見惚れていると、後ろから大きな白い犬と長身の男が歩いてきて、彼女に追いついた。男は少しくたびれた白衣を纏い、両手一杯に荷物を抱えている。


「リュエット、まずは村長にご挨拶に伺わないと」


 男は銀縁の丸眼鏡の奥で、困ったように眼をすがめる。男もこの村ではあまり見ないたぐいの、線が細くて端正な顔立ちをしている。無造作に束ねたすみれ色の長い髪が、陽に煌めくさまが印象的だった。


「分かってるわよ、ロラン」


 男の物言いに、女は頬をまるく膨らませた。むくれた姿すら天使のように愛らしい。女はふわりと表情をほどき、スレイヴに微笑んでみせる。


「じゃあ、また。これからよろしくね」


 ──若夫婦。越してくるよそ者。歓迎されない想定外。

 目の前の美しい女と、村人達の噂話が繋がって、スレイヴはあっと息を飲んだ。

 彼女に一言も返せないまま会話が終わる。綺麗な後ろ姿が遠ざかっていった。



 ◆ ◆ ◆



 スレイヴが懸念した通り、リュエットは村に馴染まなかった。しかし同時に、アンブローズ夫妻の名が、噂話に上らない日などなかった。

 あでやかな髪色と人並み外れた容姿は、とかく人々の目を引いた。同時にその華やかさと美しさは、畏縮や嫉妬を引き起こす。

 加えて今は村人達にとって、神花の存在が明らかになったばかりだ。よそ者が勝手を働くのではないか。そんな猜疑心さいぎしんが村人らの心を満たし、リュエットが話し掛けても無視、あるいは曖昧な返事をして、逃げるようにその場を立ち去るのが常であった。


 夫であるロランは医療の心得があるらしく、しばらくは村で開業医として門戸を開いていたが、村人達が寄り付かないことを悟ると、乗合馬車で隣町へと働きに出るようになった。結果、深夜を除いてリュエットの話し相手は、たった一匹の白い犬だけ。


 しかし彼女はくじけなかった。無視をされても何度も明るく村人達に挨拶をし、家に閉じこもることもなく散歩をし、季節の潤いを楽しむ。

 スレイヴが水汲みに通う湖にも、リュエットは姿を見せるようになった。ラタン旅行鞄トランクケースと小さな布鞄を下げ、白い犬を引きつれて。湖畔は緑が濃く水が近いので、夏でもずいぶんと涼しい。それが気に入ったのか、彼女は野辺に敷布を広げ、そこで書物を読んだり、持ち込んだサンドウィッチをつまんだりして過ごす。


 伏せて目をつむった白い犬の鼻先で、揚羽蝶が舞い遊んでいる。犬にぴったりと身を寄せたリュエットは、静かに本の頁を繰っていた。

 森の木々が陽だまりに繊細な影を落とし、彼女の目蓋の上にの模様をつくる。黒いレースの面紗ヴェールのように。


 彼女が先客として湖畔にいる時、スレイヴはいつも木陰に身を隠した。そのまま湖をぐるりとまわって、彼女の目につかないところで水を汲む。

 しかしその日は、そうはいかなかった。湖をまわりこもうと歩いた獣道で、踏んだ小枝が存外にも大きな音を立てたのだ。まだ葉の繁る長い枝が、隣の繁みを揺らしたらしい。

 はっとして彼女の方を振り向くと、リュエットは驚いてまるくなったまなこをスレイヴに向けていた。


「……こんにちは」


 やわらかい笑みを向けられて、鈴の音が響く。スレイヴは襤褸ぼろの服を握りしめて、足をもじもじさせてうつむいた。あんなに綺麗な彼女に、こんなに身なりの汚い自分を見られるのが恥ずかしかったのだ。それはスレイヴにとって、初めての感情だった。


 しかし声を掛けられた以上、もし村人達のように無視すれば、リュエットを傷付けてしまう。しばらくの逡巡しゅんじゅんのすえ、スレイヴは無言でぺこりと頭を下げた。

 視線を戻すと、彼女がぽかんと小さな口をあけているのが目に留まる。見開いた目を何度かしばたかせ、リュエットは頬を上気させた。


「──ねぇ、良ければ一緒にお茶にしない? 焼きたてのスコーンやジャムもあるのよ。わたしの手作り!」


 リュエットが声を弾ませる。

 それが彼女らの、二度目の会話だった。


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