第43話 逃亡
崩れ落ちる姉を、ただ、見ていた。
一瞬のことだった。鈍い音がしたかと思うと、ソワイエがその場で膝を折った。
リュリュは驚きのあまり呼吸を忘れる。
彼女の側に転がっているのは、血に濡れた石塊。
「やっぱり魔女だったんだ! 見ろよ、ひとつも年を食ってねぇ!」
「魔女が! 今度こそ殺してやる!」
ひとつの火種は燃え移り、辺りに狂乱の炎を焚きつける。罵声の合間に、またソワイエ目掛けて石が投げられた。その行為は伝染し、石つぶてが次々と村人らの手から放たれる。這いつくばった彼女は、血だまりのなかで頭を押さえて呻く──
「やめろ……やめろっ!」
リュリュが姉の前に立ちはだかる。腕を突き出して彼女を庇い、投げられた石を叩き落とした。痛みなど、感じない。
懐から短剣を取り出し一閃する。村人達はどよめいて一歩下がった。
恐れと蔑みに満ちた、顔、顔、顔。リュリュはそれらを射殺すような鋭さで睨み据え、剣を構える。
姉が何をした。
なぜこんな不当な暴力を受けなければならない。
頭が強く脈打ち、体は熱く冷たく、全身に沸騰した血が巡る。産毛のひとつひとつが憤怒に逆立ち、眼球は業火を宿して干上がった。
この場にいる全員、殺してやろうか──
突然、手を強く引かれた。体勢を崩すまいと、思わず片足を一歩踏み出す。その動作で我に返ったリュリュは、自分の手を引いて走っているのがダグラットだと、ようやく気付く。彼は逆の手でソワイエを抱き上げていた。
「馬鹿野郎! こういう時はな、さっさと逃げるんだよ!!」
ダグラットはもと来た道を駆けて、村の出口へと向かう。しかし大勢の村人達が彼らを逃すまいと、壁となって立ち塞がる。口々に呪詛の言葉を吐き、ソワイエに手を伸ばそうとする彼らに、ダグラットは身を翻して、村の最奥へと向かった。
「森だ! 森に逃げるぞ!」
ダグラットがリュリュにそう告げた時。
村人達の恨みがましい唸りが突然膨れ上がり、怒号に変わった。遠巻きに見ていた者達も眼を血走らせて喚き、三人を追い立てる。
狩りだ。はっきりとした殺意を伴う狩り。
どこからか鐘を打つ音が響き、森の近くにある家々からも狩人が吐き出された。手に鍬や鋤といった武器を握って足を踏み鳴らし、狂気を孕んだ村人らが追ってくる。その様相にダグラットすら息を飲み、思わず立ちすくんだ。
「くそっ、なんだってんだ……!」
「ダグラットさん、こっちの路地へ!」
リュリュが先頭にとって代わり、家々の間にある細い道へ滑り込む。陽の差さない小路に響く、二つの足音。リュリュは辺りを警戒しながら奥へと進み、同時に必死に頭を働かせた。
どうすればこの村から逃げ出せる? どうすれば──
「あ、っ……!」
リュリュの耳が小さな声を捕らえたと同時、彼の体は地面へとなだれた。腰をしたたかに打って呻く。
目の前には小さな布袋、そこからはみ出た硬貨、使い古された粗末な手巾と、何かを書き散らした紙片、ちびた燧石が転がっている。それらをまき散らし、リュリュと同じように地に這いつくばっているのは、曲がり角から身を現した、一人の細身の女だった。
(……叫ばれる前に口を)
塞がないと。
リュリュは起き上がり、身構えて──そのまま動きを止めた。女の真紅の瞳は驚きを宿していたが、ソワイエの姿を見とめた途端、彼女の眼はみるみるうちに凪いでいったからだ。
女はきゅっと唇を噛んだかと思うと三人を見据えて、凛とした声音を紡いだ。
「──こっちへ来て。隠れられるところに案内します」
◆ ◆ ◆
黒雲はその重さに耐えきれず、ついには水銀の雫を吐き出し始める。
雨音が地を打つ音で、村が白く煙っていく。しかし雨のなかでも、村人らはソワイエの捜索をやめなかった。
水溜りを蹴る足音、交わされるくぐもった話し声、いまだ冷めやらぬ怒りの気配と、陽よけ布越しに行き交う不気味な人影。リュリュ達は薄暗い部屋の最奥で、息を殺してそれらを見聞きしていた。
すぐ側で扉が開く音、次いで木の軋んだ音が響く。
「薬箱を……手当てをしないと」
開け放った扉から姿を見せたのは、あの路地で出会った女だった。炎の灯りを宿す錆びついた銀の手燭と、腐食した蝶番のついた木箱を抱えている。暗がりでは女の赤い眼ばかりが映える。
言葉を落としたのちにこちらに近付く彼女に、リュリュに身を寄せたまま呆けた表情をしていたソワイエが、体を固くする気配が伝わった。彼は怯える姉の背を、ゆっくりと撫でる。この家に着いてからソワイエはずっとこんな様子で、物音ひとつにも過敏に反応していた。
その気配に気付いたのか、女は足を止めた。じっとソワイエを見ていたかと思うと、その場で膝を折り、目線を同じ高さに揃える。
「……怖かったでしょう」
女が囁き、ソワイエにしなやかに腕を伸ばす。暗がりに馴染んでいると思った肌は、もともと浅黒い褐色であり、その長い髪は、闇を蓄えた漆黒だった。ソワイエはびくりと体を震わせたが、逃げようとはしなかった。表情の変化に乏しい女は、しかし硬く握ったソワイエの白い手を、黒い手のひらでやわらかく包み込む。
「安心して。もう大丈夫」
「…………ぁ」
手を撫でさすられて、ソワイエは小さな音を漏らした。言葉を忘れていた者が久方ぶりに喉を震わすような、裏返ってしゃがれた声。やがて彼女は何度か体をひきつけたかと思うと、静かな嗚咽を漏らした。
やっと表情を取り戻したソワイエは、大粒の涙をこぼした。女はそんなソワイエの手を引いて、その腕のなかへと誘い、抱きしめる。ソワイエの頭や髪は血で酷く汚れていたが、女はそれを気に留める様子はなかった。
ひとしきり泣くと胸のつかえが落ちたのか、ソワイエは赤く腫れた目蓋を伏せて、女の手当てにされるがままになった。女は脱脂綿に消毒液を沁みこませ、そっとソワイエの額を拭っていく。
「痛っ……」
思わず声を漏らしたソワイエが歯を食いしばる。左目の上が青黒く変色し、綿で拭き取っても、割れた傷からはすぐに鮮血があふれ出た。その痛々しさに、リュリュは胃の底がめくれ返るような心地がした。
分厚いガーゼをあてて、止血のために少しきつめに包帯を巻く。水で濡らした綿布で赤銅の髪を清めたのちに女は木箱の蓋を閉め、手当てを終えた。
「吐き気や眩暈はない?」
淡々とした女の問いかけに、ソワイエが小さく頷く。
「……ありがとう」
それからしばらくしてソワイエがぽつりと呟くと、女はほんの少しだけ唇を持ち上げてみせた。
けれど彼女は、すぐにその表情をあらためる。何かを慎重に確かめるような面持ちで、不安気に眉を寄せてゆるゆると唇を開く。
「リュエットの娘と息子……よね? リュエットとロランは? 一緒じゃないの?」
姉弟が顔を見合わせる。おそらくこの女の人は、父母と懇意にしていたのだろう。しばらく二人は視線を伏せていたが、先に顔を上げたのはリュリュだった。
「亡くなりました。二人とも」
端的なリュリュの物言いに、女が眼を見開く。
彼は死因を聞かれると身構えていたが、
「…………そう」
彼女は重い溜め息と共に、そう呟いただけだった。
まるで何か、勘付いていたかのような。
「……ソワイエの怪我と、外をうろついてる連中の熱が落ち着くまで、しばらく隠れていた方が良さそうだな」
姉弟から少し離れた窓辺で、日除け布をわずかにめくって、外の様子を窺っていたダグラットが舌打ちする。
「畜生、悪い予感なんてものじゃなかったな……ソワイエが魔女呼ばわりされたのも、この村でリュエットがなんらかの誤解を受けたからだろ? なぁ、あんたは何か知ってるのか? この村で一体何が──」
「ダグラットさん。その話は止めて下さい。今の姉さんに聞かせるのは酷です」
女に水を向けるダグラットの物言いを、リュリュは冷たく硬い声で制した。
思わず口を噤んだダグラットが、溜め息をついて頭を掻き、「悪い」と呟いた矢先、
「……話してくれ」
掠れた声が場に落ちた。
「母さんに……リュエットに、この村で一体何があったんだ? 知ってるなら、話してくれ」
「姉さん! 今はその話は……」
「いいんだ、リュリュ。俺なら大丈夫だ。だって俺がこんな目にあうくらいだ、母さんはきっともっと辛かったはずだ。なぁ、教えてくれ、この村で母さんは──」
「……駄目です、今は安静にして下さい! 姉さんは……どうして姉さんは、自分の痛みを無視するんですか!」
彼が絞り出したのは、怒りと悲しみを孕んだ声だった。
ソワイエが言葉を飲む。リュリュは彼女の顔を見た。赤く腫れた眼、血の気の失せた唇。赤銅の髪は無様にもつれ、頭部に巻かれた白い包帯からは、早くも鮮血が滲んでいる。
胸を掻きむしられる。あの時だってそうだ。傷ついたリュリュをかばうために、ソワイエは彼に怒りを覚え、初めて異能を発動させた。自我を取り戻したのは、すべてを蹂躙して、辺りを肉塊で満たしてから。目覚めた時、恐ろしかったはずだ。その罪の重さと、身の裡に眠る化け物が。
『……もう、大丈夫だから。安心しろ』
けれどあの時彼女は真っ先に、弟を安堵させるために微笑んでみせたのだ。
──僕はいつだって無力で、何もできない。
リュリュは強く唇を噛んだ。皮膚が破れて血の味が広がる。情けなさに体が震えた。
ソワイエは弟に視線をやったまま、しばらく表情を固めていたが、やがて唇を微笑みのかたちに歪める。泣き笑いの表情で目じりを濡らした彼女の、揺らぐ声が響いた。
「だって……だって、考えたくないんだ。足を止めてしまったら、俺はきっともう、そこから動けない」
ソワイエは一度口を噤んで、涙と共に裏返った声を吐き出した。
「俺は自分の欠落を、疵を、痛みを見て、それに向き合うのが──怖いんだ」
思わぬ言葉に、抉られる。
リュリュはソワイエが返した言葉に、今までとんでもない思い違いをしていたことに気付く。姉は強いのだと、無意識にそう思い込んでいた。頭が真っ白になる。
初めて異能を発動させた時は、弟のことを。最近では、色盲になった時にゼロとスリールのことを。そして謂れのない暴力を受けた今、母のことを。彼女は自分ではない誰かに愛情を傾けることで、自分の痛みから目を逸らすことで、なんとか今まで正気を保っていたのだ。
──それがソワイエの、過酷な現実を忘れる、精一杯の逃避だったのだ。
「ごめんなさい……」
リュリュは渇ききった喉から謝罪を絞り出して、押し黙った。
重い沈黙が落ちる。手燭の蝋燭の芯が燃え縮れる音さえ響く、静寂。
雨の音すら遠い。厚い雨雲のせいで陽光が届かない。暗く閉め切られた部屋が、時間の感覚を狂わせる。今は夕刻だろうか、それとも夜だろうか。
「……私がまだ幼かった頃よ。リュエットが、モンブロワに越してきたのは」
ぽつりと言葉をこぼしたのは、黙ってリュリュ達のやりとりを見ていた女だった。
自然と皆の視線が女に集まる。彼女は木の床の上で居住まいを正し、地味な黒いスカートを跪座した足首の下に折りこんだ。白い高襟に包まれた長い首を伸ばして、女は二人にまっすぐな視線を送る。
「もし望まれるなら、彼女の子どもであるあなた達には話すわ。昔、この村で何があったのかを」




