第39話 母を知る人
飛空艇は一刻もすると、また飛び立った荒野に舞い戻ってきた。脇道の外れに腰を下ろしていたソワイエ達は、さきほどの興奮が冷めやらぬなか、残りの道を急ぎ足で駆けて行く。
バラックに着くと、ちょうど飛空艇が艇員たちを吐き出している最中だった。手近な者にダグラットのことを尋ねている最中、背後から声が掛かる。
「おお、ジョセフから話は聞いてるぜ。よく来てくれたな、ええと……ソワイエとリュリュ、だったな。はは、本当にリュエットそっくりだ」
ひときわ背の高い体を揺らして、からからと笑った陽気な男。その男こそダグラットだった。彼は二人に近付き手を差し出す。その手をソワイエが握ると、彼は太い腕をぶんぶんと振って歓迎してくれた。
年の頃は五十過ぎだろうか。灰色になった髪をひとまとめに結ったダグラットは、がっしりとした体に黒い立襟の上衣を羽織っている。頬に深い古傷が走り、百戦錬磨といった力強い雰囲気をたたえつつも、その淡褐色の瞳には深い知性が宿っていた。例えるなら、勇敢な海賊の船長といった風貌だろうか。
ソワイエの隣に立つリュリュが、深く腰を折る。
「はじめまして、ダグラットさん。お目に掛かれて光栄です」
「あぁ、もっと砕けた口調でいいぜ、リュリュ。こちとら見て分かる通り、武骨なならず者の集まりだ。なぁみんな!」
ダグラットが荷を降ろしていた艇員に大声で呼び掛けると、彼らは思い思いの言葉で、笑いながら肯定した。
重そうな木箱を飛空艇からせっせと運び出す艇員達は、皆ソワイエ達よりもずっと年上だった。やたらと手足の長い者や、背が極端に低い者、身体に特徴を持つ者が多い。
「皆、曲馬団にいた連中さ。いつまでも体を張って夢を見せるには、いいかげん年がいってたからな。十年ほど前に曲馬団をたたんで、この仕事に鞍替えしたんだ。ほら、空を飛ぶのは男の浪漫だろ?」
いたずらっぽく片目をつむってみせるダグラットに、何度も頷いたのはリュリュだ。彼は飛空艇が飛び立つ姿を見てすっかり魅了されたらしく、頬を紅潮させて、憧れの眼差しをダグラットに向けている。
ソワイエ達が見たバラックは、飛空艇の格納庫だった。ひと旅終えた空飛ぶ鯨は、高い天井の下に収まって、ゆったりと休んでいる。
「まぁ、ここで立ち話するのもなんだ。案内するから、なかに入ろうぜ」
ダグラットはそう言って、艇員たちに仕事の指示をいくつか飛ばしたのちに踵を返し、格納庫の奥へと大股で歩きはじめる。ソワイエ達も小走りで彼のあとに続いた。
生活の匂いのする部屋をいくつか過ぎて、廊下の突き当りにある、いっとう重厚な扉をダグラットが開く。そこは艇長室であるらしく、足を踏み入れた二人は、入ってすぐにある小さな机を挟んだ長椅子を勧められた。年季が入って飴色になった革張りのそれに腰を下ろして、ソワイエは部屋をぐるりと眺める。
部屋の一番奥にある、大きな窓からまぶしい陽光が差し込んでいる。窓に背を向けるかたちに置かれているのは、どっしりとした木製の執務机。たくさんの書類が乗った机の側の壁に、大きな世界地図とコルクボードが貼られていた。
コルクボードにはいくつかのメモと一緒に、幼い文字が書かれた紙がピンで留められている。
「飛空艇に乗った子ども達からの、感謝の手紙みたいですね」
同じところを眺めていたのか、隣に座ったリュリュがひそりと耳打ちする。ソワイエは思わずそっと頬を緩めた。仕事が変わっても、ダグラットは子ども達に夢を与え続けている。
「ああ、あったあった。これだ」
部屋に入ってからずっと用箪笥を漁っていたダグラットが、酒瓶が入っていたらしき大きさの木箱を持って、ソワイエ達の目の前に置いた。そのなかに、古めかしい封筒が立ち並ぶかたちで収納されている。
「曲馬団を辞めたあとも、リュエットはこまめに手紙を寄こしてくれてたぜ。子育てに追われたのか、だんだんと間隔は空いてきたもんだが、それでも亡くなるまでずっとだ」
木箱の一番隅に立てていた封筒を、ダグラットは抜き取る。机の上に置き直したそれは薄いすみれ色の封筒で、青い万年筆で優美な文字が綴られていた。
リュエットが書いた手紙だ。ソワイエは思わずそっと封筒に手を伸ばし、今は亡き母の気配を感じようとするかのように、それを手元に手繰る。
「自由に読んでいいぜ。お前ら、珈琲でいいか?」
ダグラットは二人に背を向けて、用箪笥の上に置かれていた硝子の水差しを取った。隣には金の金属筒と硝子筒が一緒になった、実験器具めいた天秤式の珈琲サイフォンが置かれている。
「はい、ありがとうございます」
リュリュがそう応えると、ダグラットは金属筒の方に水を注いで、懐から燐寸を取り出して擦った。金属筒の下に置かれた酒精洋灯の先に火を灯し、側にあった灰皿で燐寸を揉み消す。
ソワイエただじっと、手もとの手紙に視線を落としていた。封を開く気配がない、そんなソワイエの様子に片眉を上げたダグラットに、
「姉は、文盲なんです。後天的な」
リュリュが静かに言葉を添えた。
「──どういうことだ?」
「ええと……ジョセフはどこまで俺達のことを手紙に書いてた?」
ソワイエが困ったように視線を上げて尋ねると、ダグラットは神妙な顔つきになって、二人の向かいに腰を下ろす。
「近々リュエットの娘と息子が、母親のことを尋ねるために、俺のところを訪ねるかもしれないこと。娘の名はソワイエで、息子の名はリュリュだということ。それくらいしか書いてなかったぜ。お前達は思い出話を聞きにくるんだって、俺は軽くそう考えていたが──いやに様子が真面目くさってるじゃねえか」
「ああ、そっか……ジョセフは多分、又聞きの話を手紙に書くより、直接俺達が話した方がいいって思ったんだな」
酒精洋灯に炙られた金属筒のなかで、水が沸騰してあぶくを作る音が響き始める。
ソワイエはかいつまみながら事情を話した。二十歳の時に異能が発動したこと。その異能は自我を失い、獣のようになって人を屠る能力であること。対価として人間らしさを徐々に失い、現在味覚障害、文盲、色盲まで症状が進んでいること。いずれ異能が自我を飲み込むかもしれないこと──
沸騰した湯が、ふたつのうつわを繋ぐ金属の管を通り、珈琲の粉を底に仕込んだ硝子瓶へと注がれていく。水が移動したことにより天秤は傾き、カタンと音がして、金属筒の底に引っかかっていた酒精洋灯の蓋が閉まって、炎が消えた。
「……なるほどな。それで異能者が集まるコンコルディア四区育ちだった、リュエットの生い立ちについて調べてる訳か」
ダグラットは溜め息をついて、長椅子の背もたれに寄りかかる。
「お前らの母親は──リュエットは、間違いなく四区出身だ。けどあいつは、異能なんてものは持っていなかったぞ。どんな動物とでも親しくなれる能力も、異能じゃないと、昔リュエット本人からも聞いたことがある。もっとも俺からしてみれば、十分魔法じみて見えたけどな」
眼に懐かしさをにじませながら、ダグラットは思い出し笑いをこぼす。
沸騰から落ち着いた湯が、また金属管を通って、もといた金属筒へと帰っていく。天秤は再び音を立てて傾き、その音を合図にダグラットは席を立った。金属筒に付いている活栓の下に珈琲カップを差し入れ、弁を倒してあたたかな茶褐色をカップに注ぐ。
できあがったものを三つ盆に乗せて、応接机の上で給仕しながら、ダグラットは気落ちした様子の二人に、また言葉を掛けた。
「ただ──何か問題解決の糸口になるかもしれない昔話なら、たんまりできるぞ。お前らが知らないリュエットの話を、俺はたくさんここにしまっているからな」
得意気な様子で、ダグラットは親指で自分の胸を突いてみせた。




