第4話 夜に独り
磨きあげた、まるい鏡に似ている。
白々と冴えた満月が高く昇っているさまを見上げながら、ソワイエはぼんやりとそう思った。狼男だったら、きっと今ごろ体は獣になっているんだろう。脈絡のない考えが浮かんでは消えていき、ソワイエはなんだかおかしくなって、唇から吐息と共に笑みをこぼした。
ああ、酔っているんだ。ほてった頬を夜風が冷やしてくれて、心地良い。
ソワイエは一人、四区へ続く道を歩いていた。三区の大通りは夜でも賑わって、そこかしこで店の照明や街灯が暖かな色に輝いていたが、道を外れるごとに明かりの数は減っていき、区の境界あたりでは満月ばかりがまぶしかった。
ふわふわとした足取りで歩きながら、今日あったできごとを思い返していたソワイエは、アナグマキッチンで知り合ったレディとクラップのことを思い出す。出会いこそ微妙な空気がただよったが、いくつか言葉を交わして一緒に食事をとるうちに、彼らとはいつしか打ち解けていた。
この街の住人である彼らは、たくさんコンコルディアの話をしてくれた。街の仕組みや、区それぞれの代表の名前と人となり、治安が悪く立ち入らない方がいいであろう場所から、自家製のサングリアが美味しいというおすすめの酒場の場所まで。
クラップがいわゆるいけるクチだと知ったソワイエは、二人の話を聞きながらお礼に酒をごちそうして――15歳のレディにはオレンジジュースだ――客が引けたころに遅い昼食を取るリュリュも巻き込んで騒いだ。
コンコルディアに顔見知りもいなかったリュリュとソワイエにとって、三区に住むというレディとクラップは、初めての知り合いだ。アナグマキッチンの常連だという彼らと親しくなれて、リュリュもなにかと心強いだろう。
「姉さん、そろそろ四区へ行かないと。今日街に着くって、あらかじめ四区の代表と家主に連絡しておきましたし、あんまり遅いと迷惑かけますよ」
酔ったソワイエをたしなめるリュリュの髪が、硝子窓から差す陽で黄金色に染まっていたから、あれは夕方に聞いた台詞だったか。
「そうだけどさー、日付が変わるまでは今日じゃん。この店可愛い子多いし、レディもクラップも親切だし、気に入ったんだよー。アナグマキッチンマジ天国めいててここから動きたくねぇ」
「子どもですか姉さん……またいつでも来ればいいじゃないですか」
困ったように笑うリュリュを見て、ソワイエは唇をとがらせた。酒を片手に、この一杯を飲んだら行くと駄々をこねてねばったが、夕食目当ての客で店がいっぱいになった頃にレディとクラップは店を出たので、酒の肴を失ったソワイエも四区へ行かざるを得なくなった。
ああ馬鹿みたいだ、と思う。
弟を心配して移住先の様子を見る姉のつもりでいたけれど、結局は自分がリュリュと離れがたいだけだ。
昔、すみれが咲きみだれる陽当たりのいい野原が、住まいの近くにあった。
そこは姉弟にとってお気に入りの場所で、ままごとやかけっこ、花冠作りや昼寝まで、すみれと陽だまりが一緒だった。あの時の幸せな光景を、一枚の写真を見るように鮮明に思い出せる。野原を紫一色に染め上げたすみれの花びらが、さんさんと降り注ぐ陽の光で透けていた。リュリュの髪と同じ色で。
ここはまるでリュリュのようだと、彼に言ったことがある。その時彼は今と変わらない、はにかんだような笑顔を浮かべていた。
幼かった彼に、彼女の言葉の意味が理解できたのかは分からない。もっともソワイエも、そんなことを素直に言えるくらいには、屈託がなかった子供の頃の話だけれど。
ソワイエにとって、リュリュは陽だまりだった。いつ何があっても、彼だけは変わらずソワイエの側にいてくれて、居心地のいいひなたのようにあたためて、安心させてくれる。リュリュの側が心地良いのは自分だけじゃない。温和な彼のまわりは、いつでも人で一杯だった。
それが誇らしくも、羨ましくもあった。
区をまたいで四区に入る。商業施設の多い三区に比べて遠目にも明かりが少なく、街並みはより雑然としている印象を受けた。白い月明かりが冴え冴えと満ちた道を歩いているうちに、急に気温が下がったような気がしてくる。すっかり酔いが冷めたソワイエは冷気に身震いして、背中に払っていた外套を胸の前に掻き寄せた。
瓦礫だらけの、人の気配のない道を通り過ぎようとした時。
「……おい、姉ちゃん」
暗がりから粘り気のある声がした。
ざらり、とやすりで擦り上げたような気配と共に、二人の男がソワイエの前に姿を現す。ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる小太りで背の低い男と、骨ばった体に手足ばかりが大きい長身の男。あたりに視線を配ってみても、ほかに人は見当たらない。自分に声をかけたのだと気付いたソワイエは、面倒そうにため息をついた。
「……なに。俺、寒いから早くあったかいところに行きてぇんだけど」
緊迫感のないソワイエの言葉に、男達は顔を見合せて濁った笑みを交わした。
「姉ちゃん、あんた見ない顔だな。しかもその男言葉、せっかくの美人がだいなしだ。似合わないからやめた方がいいぜ?」
背の低い男がソワイエの前に立ち、行く手をはばんだ。長身の男は含み笑いを漏らしながら、彼女の背後へにじり寄る。
……こういう男達の用件なんて、相場が知れている。恐喝、追い剥ぎ、体目当て、そんなところか。どれにしても面倒はごめんだ。街についた初日にごろつきに絡まれるなんて、ついていない。
「……どけよ。金目の物なんて持ってねぇよ」
無駄だろうと知りつつも、ソワイエは男達をうざったそうに忌避した。
それを聞いた背の低い男は、ねめつけるような笑みを深くする。唇がめくれて黄ばんだ歯が見えたかと思うと──
「っ!」
ソワイエは突如、背後から両腕をはがい締めにされた。
「金目の物はねぇって? それはこれから俺達がじっくり確かめてやるよ」
長身の男の下卑た笑いが、すぐ背後で聞こえる。
背の低い男がソワイエに近づいて、外套の留め具に手をかけたかと思うと、それを勢いよく引きちぎった。夜の湿気で柔らかくなった土に、金属の釦が埋もれる鈍い音がして、ソワイエの白い鎖骨が冷えた夜風にさらされる。彼女は食いしばった歯の奥で、小さく舌打ちした。
あぁ、釦付け直さないと。面倒だな。着いたばっかだし、あまり騒ぎたくねぇんだよな。荷物か胸か分からねぇけど、まさぐって調子に乗って油断したところを、後ろの奴にはみぞおちにひじ打ち、前の奴には股間に蹴りを入れて、腕を振りほどいて走って逃げる。それが妥当か。
──なんにせよ、〈発作〉が出ると面倒だ。早くずらかろう。
そう頭の中で算段をつけていると、目の前の男がふと目を見開いた。嬉しそうに鼻を鳴らして、ソワイエの首もとへ手を伸ばす。
「姉ちゃん、嘘は良くねぇなぁ。これ、赤珊瑚じゃねぇか? 細工も立派だ」
男は、ソワイエの付けていたチョーカーの飾りをつかんで引っ張った。大輪の薔薇を象った飾りを引かれて、首に巻いていた黒い布地が締まる。突然気管を絞められたソワイエは、息を奪われてぐらりと眩暈を起こした。
暗転していた視界を取り戻すと同時に、激しい憤怒が彼女を満たす。
(大切なものだ。触るな!)
鋭い怒りが胸を突いた、次の瞬間。
身のうちに生あたたかい気配がうごめいた。それを感じたソワイエの体温が、一気にひやりと下がる。背中に冷たい汗が伝った。
衝動的な感情に呼応して、ソワイエのなかの〈獣〉が目を覚ました。
(──まずい)
ソワイエはあわてて怒りで高ぶった感情を抑え込む。しかし既に遅かった。体の奥で目を覚ました獣が暴れ出し、彼女の心を喰らって支配しようとしている。理性で必死で押さえようとするも、もはや制御がきかない。ひたいから脂汗がにじみ出る。ソワイエの様子がおかしいことに男達は気付かない。彼らは目の前で軽口を叩いている。声の意味が分からない。脳に届く前に言葉が耳の奥で溶けていく。頭が強く脈打ち痛い。瞳孔が勝手に開く。弟と揃いだった青い瞳が血濡れの色に変わっていく。
(……駄目だ。お前は出てくるな!)
かすかに残った理性で叱咤する。
けれどその声も内側から押し潰されるように、大きく脈打つ心臓の音のなかに、
消えた。
「ぎ、ゃあ、あぁぁ、ぁっ!」
ビチビチとぬめる繊維を引き裂く、生々しい音。
苦痛にあえぐ男の、途切れて泡立った絶叫。
背の低い男が、叫びながら激しく痙攣する。
小刻みに震える喉笛から生ぬるい血が吹き出して、辺りを鉄錆の臭いで満たした。
真っ赤な血しぶきに、ソワイエの赤銅の髪がたなびき混じる。
髪の隙間から、血潮の色に変わった眼が覗く。
両手の自由を奪われてなお、腰を低く落として髪を振り乱した彼女がそこにいた。
――その歯牙にくわえられた、男の喉の肉片。
「ひ……っ!」
長身の男が恐怖に顔を歪めて固まった。
ソワイエはつばを吐くように肉を吐き捨て、はがい締めにしている男の腕に指を立てる。
男の筋肉の隙間に、深く釘を打つように爪を突き立て、腕を一気に後方へ引いた。
「ぎゃああああぁああああっっ!」
手首からひじまでが、いくつかの筋に分断された。外気にさらされた薄紅色の肉が、躍るように痙攣する。赤い血液と、半透明の体液と、白い脂肪がまき散らされ、辺りをびちゃりと汚す。
激痛に発狂した男の腕をすり抜け、ソワイエは両の腕を地に降ろし、男の喉笛めがけて跳躍した。その勢いに男の喉骨がゴキリと砕け、首があらぬ方向に折れる。
目玉をぐるりと反転させる無抵抗な男に構わず、首に犬歯を突き立てて、うなり声と共にくわえた肉をはがした。
肉に埋もれた白い骨があらわになる。一瞬ののち、ほとばる鮮血が彼女を濡らす。
とうに意識が無かった男は、それでも何度か感電したようにひくつきながら倒れた。
その痙攣に反応したソワイエは、四つん這いになったまま赤い唇を開き、男の喉元めがけて駆けた。その勢いのまま、ためらいなく牙を突き立てる。
噛み、砕き、はがし、ぐじゅぐじゅと粘り気のある水音を立てながら、彼女は男の肉を何度も何度も食い荒らした。