第38話 露営と交易都市と
それから姉弟は、とりとめもなく言葉を交わした。
ソワイエがしょっちゅうアナグマキッチンに顔を出していたとはいえ、客の対応や料理に追われるリュリュと、ゆっくり話ができる機会は少なかった。二人はほんのささいなできごとまで、今まで離れていた時間を埋めるように語り合う。見聞きした物珍しいこと、自分自身の近況報告、区の仲間達の様子まで。
退屈すると思われた馬車の旅は、あっと言う間に時間が過ぎていった。気付けばもう、陽が翳る時間。熟れて紅くなった夕陽がすみれ色の空を降りていき、山間に沈んでいく。それと同時に、馬車もまた山裾で歩みを止めて、馬達は腰を落ち着けた。
「うぅ、やっぱり陽が隠れると風が冷てぇなぁ」
「風邪ひかないように気を付けて下さいよ、姉さん。外套の上に、頂いた膝掛も羽織って下さい」
そんなやりとりをしながら荷台から降りた二人は、馬車に積まれていた薪を土の上に積み重ねる。燧石を打って炭布に火花を移し、青く深まっていく暮れ残りの空気を、橙色に染め直す。
広い荒野の隅で煙を上げる、燃え盛る炎の匂いはどこか懐かしい。二人は従者を交えて火を囲んだ。
焚火は獣避け、暖取り、それから大事な役目がもうひとつ。リュリュは背負っていた背嚢から、鉄串と干し肉を取り出した。肉に串を通して、焚火の側の地面へと突き立てる。しばらく炙って脂がにじむ頃合いになったら、今度は分厚い革手袋を取り出し嵌めて、肉の繊維をやわらかくほぐす。
最後に小瓶に入った香辛料、岩塩や胡椒や臭み消しのタイムなどを振りかけ、背嚢から出したライ麦パンに、それを挟んだ。
「はいどうぞ、姉さん。熱いので気を付けて」
リュリュが渡したミートサンドを、ソワイエはふぅふぅと口をすぼめて冷ましてから、勢いよくかぶりつく。味こそ分からないものの、できたての料理はお腹の底から体をあたためてくれた。
「んー、なんか懐かしいな。コンコルディアへの旅で、よくこれ食べたよなぁ」
赤い唇についた脂をぺろりと舐めるソワイエに、リュリュも笑いながら頷く。
「ですね。ほんのひと手間加えるだけで、保存食もずいぶんと違いますから。よかったら、従者さんもどうぞ」
「やぁ、これはごちそうだな」
三人の笑い声が溶ける宵に、一番星がまたたきはじめる。次いでアンドロメダやカシオペヤが昇り、空は粉水晶が散りばめられた、豪奢な濃紺の幕へと編み上がっていく。それは地上にふわりと覆い被さって、静かに微睡んでいるように見えた。
野外で眺める星の天蓋は、何も遮るものがない。自分達はちっぽけな存在だと思えるほど、夜空はどこまでも大きく、広かった。
馬達は積んでいた干し草を食み、体を横に休ませて睡眠をとる。
ソワイエ達も荷台に残った干し草を広げて、その上に寝転んだ。少しちくちくと肌を刺激するものの、外套に体をくるむとそこまで気にならない。心地よい位置を探って体を動かすたびに、カサカサと干し草の擦れる音がして、渇いた甘い日なたの匂いが鼻をくすぐった。
寝返りを打っていたソワイエが、ふと声を漏らす。
「……なぁ、リュリュ」
「なんですか?」
呼び掛けに応じて、彼女の方へと寝返りを打ったリュリュ。眼鏡を外した藍宝石の瞳は優しく、すみれ色の髪が頬にかかっている。
カサリと音がする。ソワイエが彼から視線を外して、頭上の幌に向きなおった音。
「いや……なんか、お前は当たり前にモンブロワについてきてくれたけど、これって当たり前じゃないんだよな。お前には店だってあるし……なんか、ごめんな」
ソワイエの耳に、リュリュが笑んで吐息を漏らす音が届く。
「何を今更。そんなこと気にしなくていいですよ。コンコルディア行きも、モンブロワ行きも、僕が自分で決めたことです。姉さんについていくって。それに、」
それに?
途切れた言葉を追うように、ソワイエが彼の方へ首を動かす。視線が合うと、彼はそっと睫毛を伏せた。
「それに、せっかく言って貰うなら、ごめんなさいよりも、ありがとうの方が嬉しいです」
ソワイエははっとして、首を起こした。馬車のなかは静寂に満ちていて、小さな身じろぎの音すら響く。
彼女は静かに、また干し草の褥に頭を横たえる。リュリュは眼を閉じたまま、規則正しい呼吸で体をわずかに上下させていた。彼の吐息はきっと間もなく、安らかな寝息へと変わるだろう。
「ん……そうだな。ついてきてくれて、さんきゅ」
小さな声で囁くと、リュリュの唇がほんのりと笑んだ。
それを見て唇を緩めたソワイエは、改めて体の力を抜いて、彼と同じように目蓋を閉じる。
明日も早い。旅はまだ、始まったばかりだ。
◆ ◆ ◆
振動で目が覚めると、すでに馬車は動き始めていた。すでに起きていたリュリュが「おはようございます」と微笑みかける。ソワイエも赤銅の髪をがしがしと掻きながら、挨拶を返した。
干し草をひとところに纏めて、幌の後方に掛かっている日除け布を開くと、ちょうど陽が昇り始めていた。今日も雲ひとつない快晴だ。眼前には、昨日と変わらない街路が遠ざかっていくさまが見える。
いや、ほんの少し違う。荒れ地に生える雑草が増えて、その色も青々としたものになっている。
「あと四刻もすれば、シュルーズに着くそうです」
そう言ってリュリュが渡してくれたのは、水を含ませた綿布。ソワイエはそれで顔をさっぱりと拭いて、身支度を整える。
やがて太陽が昇りきる頃、馬車は小麦色の土壁でできた建物の間を走るようになり、赤瓦の乗った家々が集まる街のなかへと入っていった。街の道はしっかりと舗装されており、幅も広く人通りも多い。道を行き交う人々は、服装や雰囲気が多種多様だった。
目抜き通りと思われる街路に、露店がひしめき合っているのが見える。野菜や果物、乾物や工芸品、ちょっと変わった香草や香辛料、果ては蛇や蜘蛛を薬液に漬け込んだ酒や薬品まで。人々は金銭と品物を渡しあって売り買いし、熱気と掛け声が人混みのなかで渦を巻いている。
辿りついた街は、コンコルディアよりも賑わっていて、ずっと華やかだった。道の片隅ではゼラニウムの赤い花が零れ、街に彩りを添えているのが見える。幌から顔を覗かせるソワイエとリュリュの目の前を、笑い声を立てて横切る少女達。花売りだろうか、その腕にはダリアやネリネなど、さまざまな生花が詰まった籐籠が下がっていた。
「交易都市シュルーズ。この辺りでは商売の要とも呼ばれる、いろいろな物品が集まる街だよ」
物珍しそうに街を眺める二人に、そう御者が声を掛けた。
停留所で馬車を降りる。御者に礼を述べたソワイエとリュリュは、まずは露店で簡単な食事を摂ることにした。
ふかした芋を潰して、刻んだ緑葉甘藍と牛の乳を混ぜ込み、塩とバターで味付けしたもの──このあたりではコルカノンと呼ばれる料理と、天日干しした魚を串に刺して焼いたものをふたつずつ買い、街の広場で煉瓦造りの噴水を眺めながら食べる。
それから保存食や消耗品など、こまごましたものを買い足しに、商店が立ち並ぶ通りへと足を運ぶ。そこは露店が並ぶ大通りと同じく、人混みであふれ返っていた。二人はその雑踏の隙間を縫うように、道を進む。
「ちょっと姉さん、寄り道しちゃ駄目です。はぐれちゃいますよ」
飾り棚に目を留めて、店先で立ち止まるソワイエに、リュリュが引き返して声を掛けた。すると彼女はきらきらとした目で、棚から下がる飾り紐を指差す。その飾り紐は、淡い色に染められた紐が組み編まれており、花のかたちになって連なっていた。
「だってこれ可愛いぜ! スリールや牡丹ちゃんに似合うだろうなぁ」
「お土産は帰りに買うって約束でしょう。必要以上に荷を増やさないようにしないと」
「色分かんねぇけど白とか青とかもあるのかな。フレアちゃんも好きそうだ」
「……ああもう、ここだけですよ。かさばる物は買いませんからね!」
そうしてコンコルディアを発つ前以上に背嚢を膨らませた二人は、シュルーズの街を横断する。賑やかな通りを過ぎると、また舗装されていない荒れ地が見え始めた。
モンブロワへと続くエト街道を道なりに歩いていくと、やがて小さな脇道のある三叉路へと行きつく。
「ダグラットさんの家、ここを曲がって、しばらく歩いてすぐみたいです」
三叉路の脇に立っている、木製の案内板を確かめながらリュリュが呟く。脇道の先には、シュルーズに着く前と変わらず荒野が広がり、遠目に岩山が連なっていた。
二人は街道から逸れていく敷石を頼りに、細い脇道を歩いていく。
「しっかしダグラットさんの仕事、なんだか聞いてもピンとこねぇな。俺、そういう人に会ったことも、実物を見たこともないし」
「僕もです。ただ、それでシュルーズから離れたところで暮らしてるんだろうなってことは想像がつきますね。きっと広い場所が必要でしょうから」
そんな会話を交わしながら歩く二人の遠景に、岩山を背にぽつりと佇む建物が現れた。幅のある平屋造りの建物で、半円のかたちをした屋根は高い。
近付いていくとその建物が、鉄の骨組みに亜鉛鉄板を貼り合わせた、いわゆるバラック作りであることが見て取れた。広い荒野に面した亜鉛鉄板には、その壁のほとんどを占めるほどの、大きな鉄扉が嵌めこまれている。その扉は、今はすべて開け放たれていた。
大きな動力が力強く震える──そんな電動機音が突如、扉の奥から鳴り始める。音に共鳴したのか、遠く離れたソワイエ達の踏みしめる大地も、びりびりと痺れる。驚いて、思わず建物の奥に目を凝らすと、
「……なんだあれ。でけえ!」
ソワイエはぽかんと口を開けた。
建物の奥からゆっくりと顔を出したのは、地を這う鯨めいた船だった。巨大な船体の側面では、推進器らしき大きな回転羽根が、いくつも唸り声を上げて高速回転している。後方から雲のような大量の蒸気を吐くのは、極太の発動機排管。その排気の勢いに押されて、底部の車輪が荒野を捉えて加速している。
船のかたちのそれには、上甲板からいくつも巨木の帆柱が生えていた。帆柱から横に渡された帆桁に下がる白い帆はおびただしい数で、風を受けて弾けんばかりに膨らんでいる。
しばらく荒野を走っていたそれは、発動機音が高く大きくなるにつれて、巨体を宙に浮かせていく。最初はゆっくりと、しかし帆が風を捉えて極限まで張る音と同時に、急速に──船は空へと飛び立った。
地上から遠ざかり、蒼穹を泳ぎ始めると、あれほど耳を劈いた動力音すら遠くなる。大きな鳥のように悠々と天空を渡る船。ソワイエ達は風に嬲られつつ、驚きをもってそれを遠くから見つめていた。まるで魔法のような、信じられない光景を。
飛空艇艇長。
それがジョセフへの手紙に書かれていた、ダグラットの職業だった。




