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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第4章 断罪の火よ
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第36話 旅立ち


 荒廃都市でも季節の移ろいは感じられる。住人達の装いは肌の露出がなくなり、幾枚か衣を重ねたものになった。

 空は高くなり、風は時折驚くほどの強さをもって、落ちた枯葉を石畳の上に吹き寄せる。ぽつぽつと自生しているメイプル山毛欅ブナといった木々は、その葉を煉瓦色に老いさらばえさせ、街の空気はいまや懐古的な色合いに染まっていた。それは本棚で眠る古書の色、あるいは珈琲の染みの色、物憂げで深い秋の色。


 どこかもの寂しい季節だが、太陽が顔を出したばかりの朝──しかも雲一つない快晴──では、それも幾分かやわらいで見えた。爽やかな晴天のもとで旅立てる。それはとても幸先の良いことに思えた。

 コンコルディアの外れにある、乗合馬車の停留所。そこには早朝にも関わらず、大勢の人が集まっていた。


「うー、まま?」


「いいかスリール。ゼロの言うことを聞いて、いい子でいるんだぞ。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、俺がいないからって寂しくて泣くなよ、すぐ帰ってくるからな」


「寂しいのは君なんじゃない?」


 膝を折って、愛しい娘に切々と言い聞かせていたソワイエ。ふいに頭上から降ってきたからかいの声に、彼女はムッと眉をそびやかして顔を上げる。すると思った通り、さきほど名前を出したゼロが、微笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。

 ソワイエは顔を赤くして彼に噛みつく。


「そうだよ寂しいよ、悪いか!」


「はは、相変わらずソワイエは素直だ。僕が悪かったよ、スリールのことは心配しないで。ちゃんと面倒見るから」


 ゼロに頭を撫でられたスリールが「ぱぱっ!」と歓声を上げて、彼に抱きついた。ソワイエを「まま」と、ゼロを「ぱぱ」と呼んで懐くこの少女は、ゼロと同じ黒髪を腰のあたりまで伸ばし、ソワイエと同じ青い瞳をきらめかせている。見て分かる通り、スリールは二人の間の子──のはずがない。


 ソワイエの母リュエットがかつて面倒を見たみなしご、それがスリールだ。

 彼女はやわらかな肌の所々に硬い鱗を持ち、西洋竜ドラゴンに変化する異能をその身に宿している。それ故におそらく人間より発育が遅いのだろう。リュエットを知りながらスリールは、五歳くらいの愛くるしい少女のままだった。


 出会った時は言葉による意思疎通ができず、食事を摂らせれば手掴みで、まるで幼獣のようなありさまだった。けれどソワイエが母代わりとなってから、少しずつ彼女は変わっていった。根気よく手本を見せて、言葉が通じなくても言い聞かせてきたおかげか、今では言葉の端々を理解できるようになり、食具カトラリーを使って料理を口に運ぶまでになったのだ。


 ソワイエとスリールは血の繋がりこそないものの、固い母子の絆で結ばれている。二人は出会ってから今まで、どんな時も一緒だった。

 けれど今日からしばらく、二人は離れ離れになってしまう。ソワイエに寂しがるなというのが無理な話だ。


「リュエットさんが暮らしていた村とはいえ、スリールが旅に同行するのは色々と危険がともなうしね。残していくって君の判断に間違いはないと思うよ。この子のことは僕に任せて」


 スリールを片腕で抱き上げて笑うゼロ。立ち上がったソワイエはふと、彼のやわらかな表情に思わず言葉に詰まってしまい、無言でゼロをじろじろと眺めた。


「ん? 僕の顔に何かついてる?」


「……あ、いや、別に。お前もあんまり無理せず達者でやれよ」


「それはこの場合、僕の台詞じゃないかなぁ」


 ゼロが破顔する。彼の笑顔に翳りはなくて、声は溌剌はつらつとよく通るいつものものだ。

 ──肩を貸したあの夜が、夢だったのではと思うくらいに。


 でもあれは確かに現実だった。彼が抱えているものも、あの時の言葉の意味も、結局何一つ分からないままだけれど。あの時の彼の眼の昏さが、ソワイエの胸にしこりとして残っている。時が経つにつれて掘り返すのも躊躇ためらわれるようになり、先送りにしているうちに、旅立ちの日になってしまった。


 ソワイエはきょろきょろと辺りを見回し、他の人より頭ひとつぶん背の高い男の姿を見つけた。その勿忘草わすれなぐさ色の髪を目印にして人混みをかき分けて、彼の着物の袖を掴む。


「蜜」


「どうしたソワイエ。皆に別れは言えたのか」


 優しい眼差しを向けられて、ソワイエは曖昧な返事をする。心に残ったわだかまりを晴らすために蜜のところへ来たはずなのに、いざ彼の眼を見ると、自分はどれだけ頼ってばかりなんだろうと、言葉に詰まってしまう。

 俯いたソワイエの頭に、蜜の手のひらが乗せられた。


「ゼロはわたしにとっても大切な友人だ。彼の様子については、確かにわたしも気になることもあった。君が言った通り、いつもより気にかけておくことにしよう」


「俺の考えはお見通しかよ! ……でも、さんきゅな。よろしく頼む」


 ソワイエは頬を緩めて、蜜に向かって頭を下げた。

 旅立ちの前に、ゼロのことを彼に相談して良かった。今、もう一度しっかりと言葉にしてもらえて、心の靄が晴れていく。自分より腕が立つ上に、付き合いも長い蜜がゼロを見ていてくれるなら、きっと大丈夫だろう。


「──それに、君との約束も」


 蜜が静かにこぼした声に、ソワイエは思わず顔を上げる。今彼女の脳裏に甦っているのは、ゼロに肩を貸した夜のこと。あの夜弱った彼に出会うまでは、ソワイエは別の懸念に囚われていた。


『俺がもしこの先、異能の代償で完全に自我を失くしたら、その時はどうか──俺を、殺してくれ』


「それが君の望みなら、わたしは君の心を守る殿しんがりを務めよう」


 色盲になって、蜜に無茶な願いを吐いた夜。あの時の自らの言葉を思い出していると、前に聞いたものと一字一句変わらない返答を、蜜はなぞるように口にした。


「だが忘れるな。希望はある。進むべき道は君の前に示されている」


 彼のやわらかな眼差しの先を追うと、スリールとゼロ、リュリュとフィデル、牡丹やフレア達が言葉を交わして笑い合う姿が目に入った。モンブロワへの旅立ちに合わせて、早朝にも関わらず見送りに集ってくれた仲間達。彼らの協力のおかげで、進むべき道はソワイエの前に照らされた。


「……分かってるよ。最後まで諦めたりしない。俺の自我がひとかけらでも残っているうちは、どこまでも意地汚く足掻あがいてやる」


「ああ。その諦めの悪さこそ君らしい」


「なんかけなされてる気がするけど、褒めてくれてるんだよな? それ」


 ソワイエが思わず笑うと、蜜も目を伏せて薄く笑んだ。

 秋特有の澄んだ空気が一陣の風となって吹き渡る。その清らかさは、心のおりまで払拭してくれるような心地がした。



 ◆ ◆ ◆



「道中気を付けて。アナグマキッチンのオニオンスープと特別ランチをまた食べられるようになるのを、ボクは楽しみにしてるからね」


「特別ランチねぇ。そりゃお子様ランチの間違いだろ、レディ」


「ああもう、クラップはちょっと黙ってろ!」


 いつものように言い争う二人の常連客のやりとりに、リュリュは思わず声を立てて笑った。彼らとしっかり握手をして、リュリュは待機していた馬車に乗りこむ。

 コンコルディアとモンブロワを繋ぐ乗合馬車は、主に運搬に使うものらしく、車輪と床が木組みの荷車に、前面と背面が抜けた白い幌がついた簡素なものだ。コンコルディアが始点なこともあり、客はいまのところ姉弟の他にはいなかった。

 リュリュは背負っていた背嚢はいのうを床に下ろし、同じように荷を背負ったソワイエが楽に荷台に上がれるよう、手を差し伸べる。


「ソワイエ姉ちゃん、留守は任せろー! スリールのパンケーキは、おれが腕によりをかけて作るから、心配すんなー!」


「おー! 頼んだぞフィデル!」


 声を張り上げる少年に、ソワイエも大きな声で応えて手を振ってみせる。


 さきほどしっかりと草を食んだ二頭の馬が、ブルルと鼻を鳴らして足踏みした。荷台の先頭には、二体の手綱をしっかりと握った御者が座っている。

 会話が途切れる頃合いを見計らっていた御者が、手綱を軽くしならせた。とたんに木が軋み合う音がして、馬車はゆっくりと動き始める。


「……い! おーい! 待ってくれ!」


 その時だ、遠くから馬車に向かって呼び掛ける声が聞こえたのは。

 手綱を絞められた馬たちがいななく。何事かと皆が声のした方に目を凝らすと、街の中心部からこちらの外れに向かって、街道をひた走る人影が見えた。

 恰幅かっぷくのいい背格好、あまり健脚ではない走り方。禿げあがった頭に、聖夜を舞台とした童話に出てくる、ほどこしの賢者さながらのふさふさとした白ひげ──


「ジョセフ!? おいちょっと無理すんな、どうしたんだよ!」


「はぁ、はぁ、間に合ったか。良かった。さきほど、これが届いてな」


 身を乗り出したソワイエに、ジョセフは息を切らしながら、手に握っていたものを手渡した。それはくしゃくしゃになった封筒で、力強い筆致で文字が書かれている。郵便印が押されていることから、ジョセフに宛てられたものなのだろう。差出人は、


「……うー、くそ、読めねえ! 頼んだリュリュ!」


「はい。えーっと……ダグラット、と書かれています」


「リュエットがいた曲馬団サーカスの団長の名だ」


 ジョセフの言葉に、二人は思わず顔を見合わせる。


「御者さん、この馬車はエト街道沿いに行くのだろう? モンブロワの前に、シュルーズの街の前を通るかな」


「ええ、シュルーズにも停留所がありますし、間違いなく」


 ジョセフは御者に礼を言い、視線を姉弟に戻した。


「ダグラットは曲馬団サーカスをたたんで、今はシュルーズの街の近くで暮らしているらしい。手書きの地図が同封されていたし、住居は恐らく目立つからすぐに分かるだろう。彼の今の仕事を知ったら、きっと君達も驚く」


「ジョセフ……あんたわざわざ俺達のために、団長のことを調べて、手紙を宛ててくれたのか?」


「なに、君達にはこれくらいでは返せない恩がある。手紙は持っていくといい。まだ君達が知らない母親の……リュエットの話が、たくさん聞けることを祈っているよ」


 ジョセフは琥珀の瞳を細めて笑った。

 ソワイエとリュリュは彼に何度も礼を言い、再び走り始めた馬車の荷台の後部から大きく手を振った。ジョセフの姿と、その背後に立ったコンコルディアの住人達の姿は、馬車が加速するにつれどんどん小さくなって離れていき、やがて見えなくなる。


 草木もわずかな荒れ地の土壌に、まるく広がる街が遠のいていく。

 ソワイエとリュリュがコンコルディアに辿り着いて約半年、彼女達は再び外の世界から、街を遠くに眺めていた。


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