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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第4章 断罪の火よ
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第35話 起点、あるいは破棄


 あやまちに手を染めた罪人が陽の光を嫌うように、その場所もまた街の暗がりに秘匿ひとくされていた。

 仲間内で使われる秘密の言葉を唇に乗せた男が、見張りの側を横切って、鉄扉を押し開ける。とたんに湿り気を帯びた生々しい空気が奥から吹きつけ、男は細い銀縁眼鏡、その奥の碧眼を思わずすがめた。


 地下にあるその空間は広く暗く、ところどころに洋灯ランプを灯してはいるものの、その全容を見ることは叶わない。どこか怪物の胎内を思わせる温度の室内は、岩石の壁を鉄柵で仕切っていて、一見すると地下牢のようだった。しかし柵扉は閉じられず、キィキィと金属音を立てて揺れている。視野の届かない奥の方で、いくつかの人影がうごめく気配が感じられた。


 男は、慣れた足取りで奥へと進んだ。長年着古した白衣がはためき、暗闇のなかで薄灰色に浮かび上がる。

 ひとつの柵扉の前で、男は足を止めた。他と同じように開かれているその扉をくぐる前に、律儀にノックのかわりに壁を二度叩く。


「ロランか。入れ」


 笑みを含んだ声が返ってきて、男──ロランは柵で区切られた部屋のなかへと足を踏み入れる。

 部屋には、紙の束や本が乱雑に積み上げられている。その様子をほの暗く浮かび上がらせる、ちびた蝋燭を置いた木製机の上も、お世辞にも片付いているとは言いがたい。その机上に突っ伏すような形で書きものをしていた男が、にわかに顔を上げた。


「アドリー、おひさしぶりです」


 ロランが頬を緩めると、アドリーも蝋燭の灯りに照らされた頬の皺を深めて笑った。

 年老いたアドリーに対してロランはまだ若く、傍から見ると親子ほど年が離れて見える。けれど彼らはあくまで対等な立場のようで、アドリーがあごを動かしてすすめた椅子を、ロランは机の側に置き直して腰掛けた。彼はそのまま机上でアドリーが書きつけている紙面を覗き込む。


「研究は順調ですか?」


「まぁな。良いことも、悪いこともあった。総じて言えばまずまずといった所か」


 ガアアアアァァァアァァ……


 突然アドリーの台詞に被さるように、遠くから響いたのは、咆哮ほうこう。獣のものよりは幾分か金属質な響きを帯びた鳴き声、それは悲痛な色を帯びていた。たわんだ音はびりびりと地下空間を揺らし、ついで荒い息遣いが漏れ聞こえる。

 あれは? と視線で訴えるロランに、アドリーが身体を揺らして笑う。


西洋竜ドラゴンに変化する娘を捕らえたんだ。貴重なサンプルになる」


 なるほど、これが「良いこと」か。納得したロランは、ふとアドリーの手元に〈報告/眠る心臓より 0番、実験の途中で片足損失〉と書きつけられている書類を見つける。この組織の失態ではないが、きっとこれが彼の言っていた「悪いこと」なのだろう。

 そこまで考えを巡らせたロランは、思わず失笑した。もうこの組織に関わることはないというのに、人の言葉の意味を探る癖が染みついているらしい。


「……お前ほどの研究員を失うのは惜しい。どうしても行くのか」


 とたんに弱々しい響きになったアドリーの言葉に、ロランは黒革張りの小さな箱を差し出して応える。

 節くれだったアドリーの指先が箱を開くと、濃紺の天鵞絨びろうどが張られた座褥クッションの上に、獣の横顔を模った金の記章バッジがはめ込まれているのが見えた。それはこの組織に関わる者だけが持つもので、組織の良き協力者であったロランは、今日これを代表であるアドリーに返しにきたのだ。


「誓約書には記名サイン済みです。この組織で得た知識や組合員のことは決して口外しませんし、組織にいたことも言いません。禁を破った時は死をもってあがないます」


「途中だった研究も放り投げて、田舎に隠居するというのか。そこまであの赤薔薇に狂わされたか」


 皮肉を帯びたアドリーの物言いに、ロランは唇の端をつり上げる。


「僕のことは何とでも。でも彼女を悪く言うのは許さない」


 しばらく二人の眼差しは交わったが、先に視線を外したのはロランだった。彼は興が冷めたかのように肩をすくめて、やおらに椅子から立ち上がる。

 背を向けたロランの耳に、何かを強く打つ音が響く。振り向くと、年老いた組織の柱が机に手を突いて立ち上がっていた。こちらを見据える表情は、抑えてもなおにじみ出る憤怒と、本人は自覚できないたぐいの羨望。


「お前は逃げられない。この組織からも、お前が見つけた人の叡智を越えたわざからも。必ずお前は、こちらの世界に戻ってくるだろう」


 アドリーの呪言めいた忠告に、ロランは寂しそうに笑った。そうしてまた正面に向き直り、薄汚れた白衣を翻して、部屋から立ち去る。

 無造作に束ねられたロランのすみれ色の長い髪が、蝋燭の光を受けて煌めいた。

 その輝きが、老いたアドリーのまなうらに強く焼きつく。残像のように。


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