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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第3章 獣の仔ら
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第33話 彼女の呪い


 アナグマキッチンで祝杯をあげた翌日の夜、ソワイエと蜜は四区の酒場のテーブルで、杯を傾けていた。

 前から飲み比べようと言ってはいたものの、なかなか時間が合わずに約束は先送りになっていた。ソワイエが近い内にモンブロワに向かうことになった今、蜜が改めてソワイエにいつが都合がいいかと宴の途中で聞いたところ、彼女は少し思案してこう返したのだ。


『じゃあ明日』


「……まったく、君はいつも単刀直入だ」


 頭のなかでよみがえったソワイエの声に、蜜がお猪口ちょこを手に取ったまま悪態をついた。なんのことだよ、と真向かいに座った現実のソワイエが小首を傾げても、彼は薄く笑んだまま酒へと唇を運んで、答えをにごす。


「そういうお前は回りくどいって話だよな、蜜」


 会話に入ってきたのは、蜜の行きつけであるこの酒場〈ギムレット〉の店主のジンだ。カウンターの奥から抜け出してきた彼は、この店に初めて来たソワイエの目の前に細長い杯を置く。その中には小さな水泡が躍る、赤い酒が注がれていた。


「キール・ロワイヤル。麦酒も美味いけど、三鞭酒シャンパンとカシスリキュールを合わせたこの混合酒カクテルも美味いから飲んでみてくれよ。ソワイエちゃんの髪と揃いの色だ」


 これは出会いの記念に奢りだからな、とジンが笑う。そう言う彼の髪も、混合酒カクテルと同じ色合いをしていた。

 鮮やかな赤い髪を持つジンは、この店の主であることは間違いないが、その外見に初対面の者は間違いなく驚くことになる。どう見ても十代の半ばよりも幼く見えるからだ。どうしてこんな子どもが酒場を、と聞かれるのが定例だが、ジンの答えはいつも決まりきっている。俺は見た目よりずっとじじいなんだぜ、と。


 ジンに礼を言って杯に口を付けたソワイエが、美味い、と静かに感想をこぼした。それを聞いて気を良くしたジンは、カウンターから混合酒カクテルに使った酒瓶を二つ取ってきた。それらをソワイエの前に並べて、彼は混合酒カクテルの名前の由来や作り方、材料となった酒について話し始める。彼女は黙ってその話に聞き入っていたが、やがてカウンターの客にジンが呼ばれて話が中断すると、置いて行かれた酒瓶をただじっと見つめていた。


「……今日はいやにおとなしいな」


「そうか?」


 蜜の問いに、視線を返して微笑むソワイエ。唇も目の前の混合酒カクテルに負けず劣らず赤いから、特に体調が悪いということでもないのだろう。けれどいつもの快活かいかつな彼女と違うという、引っ掛かりのようなものを蜜は感じていた。

 何かがおかしい。今味わっている違和感にぴったりと当てはまる言葉を探して、そうだ、と蜜は一つの単語を彼女に重ねた。


 今日のソワイエはうつろだ。


「何かあったのか?」


 蜜がそれとなく話題を振っても、彼女は青い瞳をふいとらすばかりで答えない。しかし蜜の言葉を否定しないということは、つまり何かがあったのだろう。しつこく尋ねてみても彼女の性格からかんがみるに、素直に言い出すとは思えない。さて、どうしたものか。

 蜜がお猪口を口に運びながら様子をうかがっていると、


「ソワイエちゃん、悪ぃ! カシスリキュール取ってくれねぇかな」


 ジンの張りのある声が飛び込んできた。そちらに視線をやると、彼は一度に色々と注文を受けたのか、せわしなくカウンター内部で動き回っていた。背後にずらりと並べている酒瓶を抜き取った先から、杯に注いで調合している。

 店内の灯りはわずかだ。あめ色の調度品がぼんやりと浮かぶ雰囲気もあいまって、躍動する液体や瓶がときおり光を反射して艶めくさまが、儀式めいて見える。


「えっと、そっちの赤い液体が入ってるやつ」


 作業の途中で手を止めて、ジンがまた言葉を投げた。

 蜜がテーブルに視線を戻すと、ソワイエは二つある瓶のどちらを渡せばいいのか迷っている最中だった。文盲である彼女は、瓶に貼られたラベルが読めないのだろう。ジンが色を指定したから問題ないだろうと蜜は踏んでいたが、それでもソワイエは赤い瓶を手に取らない。もう一方の三鞭酒シャンパンの入った深緑ビリジアンの瓶と、どちらをジンに渡せばいいのか迷っている。


「…………ソワイエ?」


 彼女にそっと声をかける。するとソワイエは心底途方(とほう)に暮れた表情を蜜に向けた。それは今にも泣きだしそうな顔にも見えた。


「──蜜、お前が渡してやってくれ」


 掠れた懇願に応えて、蜜はカシスリキュールの瓶を取ってジンへと手渡した。混合酒カクテルを作った端から客の元へと運んでいた彼は、わりぃなと簡素に礼を言ってそれを受け取る。


 ギムレットは今日は一段と客の入りが多くて、人と人の話す声が幾重にも重なって大きな羽音となって耳に届く。こんなににぎやかなのに、テーブルに戻った蜜とソワイエのテーブルには重い沈黙が落ちている。

 ソワイエが杯に手を伸ばしかけて、その指をぐっと握り込んだ。


「……悪ぃ。せっかく楽しく飲もうと思ってたのに、こんな空気にしちまって」


「謝らなくていい。それより一体何があったんだ」


 蜜はきっぱりと言い切って、即座に質問を投げる。彼の脳には嫌な予感がじわじわと染み広がっていた。それを察したのか、ソワイエが吐息を漏らす。笑おうとして失敗して、空回って渇いてしまった呼吸が場を撫でた。


「昨日の夜から、色が見えない。何もかも白黒モノクロームに見える」


 彼女の言葉は重い水滴となって、空気を穿うがった。

 二人の間に波紋が広がる。言葉が、声が、音が、奪われる。

 蜜が息を飲んで喉を上下させたのは、永遠とも思える沈黙がしばらく続いた後だった。


「……異能の代償か」


「多分」


 ソワイエの短い返答が、蜜の頭に鈍痛となって響いた。

 また沈黙が落ちる。目の前のソワイエは表情をどこかに忘れたまま、杯の水面を見つめている。何か言おうと蜜は口を開く。けれど何を言えばいいのか分からない。喉におもりが詰まったかのように重く、痛い。何度か唇を開閉する。

 下手ななぐさめは意味がない。同調もできない。今彼女が必要としているものは何だ。自分に出来ることは──


「わたしに何かできることはないか」


 結局まとまらないままの言葉が唇から落ちた。

 ソワイエがぴくりと身体を反応させる。水面に落ちていたまなざしが一度蜜を見上げ、また睫毛が伏せられる。そのわずかな間に彼女が見せた一瞬の逡巡しゅんじゅんを、蜜は見逃さなかった。


「あるんだな。言ってくれ」


 これだけのことがあってなお、ソワイエは蜜との約束を守った。それは彼女が義理がたい性格だったということも勿論もちろんあるだろうが、それ以上に今見せた迷いが理由だったに違いない。彼女はまだ言葉には出してないものの、無意識に蜜に甘えて頼ろうとしている。


(それでいいんだ)


 いつも感じていた、彼女の持つ素直さ。今回は特にそれに感謝したい気持ちだった。それ故にソワイエは完璧な隠しごとができず、蜜は彼女の力になれる。


「君の力になりたい、ソワイエ」


「……お前を苦しめることになる」


「それでも今わたしが感じている、やるせなさよりましだろう」


 言ってくれ。

 もう一度強く言葉を重ねる。


 ソワイエは恐る恐る視線を上げた。蜜を見上げるその顔は、眉が下がって何とも情けない表情だった。いつもの豪胆ごうたんさが信じられないほどに。

 叱られた子どものような顔のまま、彼女は小さな音を紡いだ。空気が漏れる響きに似たそれが、少しずつ声を形作っていく。


「……母さんの情報も少しずつ分かってきた。俺は間違いなく、異能を棄てるって目的に向かって歩けてる。けど異能から解放されるのと、異能に飲まれて自我を失くしてしまうこと、どっちが先になるかが分からない。抜け出すより先に飲まれて、間に合わないかもしれない。俺はそれが怖い」


 彼女はそこまで言うと、一度息を継いだ。

 蜜は黙って彼女の言葉の続きを待つ。


「……完全に自我を失くしてしまったら、おそらく俺はもう二度と、俺に戻れない。グレゴワールの屋敷で見た合成獣キメラが、もう元の姿に戻れないのと同じだ。けど俺が俺じゃなくなっても、きっとリュリュは俺を見捨てられない」


 ソワイエの眉間が深くなり、眼差しが歪む。

 彼女は裏返った声を取りつくろおうともせず、感情がぐちゃぐちゃになった瞳を蜜にぶつけた。


「俺はあいつを殺したくない。蜜、お前は俺の力になりたいって言ってくれてるのに、俺は酷いことを求めてしまう。でもこれはお前にしか頼めない。俺を軽蔑けいべつしていい。だけど俺がもしこの先、異能の代償で完全に自我を失くしたら、その時はどうか──」


 蜜は簡単には死なない身体で、ソワイエの獣を恐れなくて良かった。

 だからこそ、彼女も安心して自分の側にいられたのだろう。

 居心地が良かったのだろう。

 まさかそれが理由になって、彼女にこんな願いを言わせることになるとは。


 ソワイエは涙で濡れた眼を、まっすぐに蜜に向けて、呪いを吐いた。


「俺を、殺してくれ」



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