第31話 彼への憧憬
たっぷりと作っておいた料理はあらかた捌け、各々のテーブルに置かれた皿は肌目を晒している。招待客の腹も膨れてきたのか、食事はときおり副菜をつまむ程度になり、呑める者は趣向を酒に移していた。
絶えず笑いの泡が弾ける喧騒も落ち着いて、会話も細々と囁くものになり、のどかで心地よい静けさが食堂を覆っている。
(そろそろデザートの生洋菓子を仕上げようかな)
隣で腕を枕にして眠り始めたソワイエの背に、薄い膝掛を掛けたリュリュは席を立ち、彼がこの食堂で一番馴染んでいる厨房へと移動する。それから紐を結わえてエプロンを身に着け、しっかりと手を揉み洗った。
あらかじめ焼いて冷ましておいたスポンジ生地を二等分し、角が立つまで泡立てた生凝乳を間に塗り付ける。色とりどりの果物を薄く切ったものを挟み込んで、今度は全体をホイップで覆う。台座のような上面に、絞り袋で生凝乳を押し出し縁飾りを作り、飾り切りした果物を乗せれば果物生洋菓子の完成だ。
(さて、何等分すれば良いのかな)
食堂にいる客の人数を改めて数えるために、作業台から顔を上げるリュリュ。そこでやっと彼は、カウンターテーブルに蜜がいることに気付いた。彼の供は片手に持った酒だけで、無言でリュリュの手元を見つめている。
「……相変わらず手先が器用なことだ」
蜜はふとそう漏らすと、なみなみと酒をたたえていた杯をぐいとあおった。自分の技が酒の肴になったのかと内心嬉しく思いながら、リュリュはふと数日前に彼と話したことを思い出す。あの時は昼で今は夜だが、ひとけの少ない厨房周りという状況が同じだった。
「蜜さん、ありがとうございました」
リュリュは作業の手を止め、改めて彼に向き直って、あの日と同じように腰を深く折った。
「……姉さんをここに、連れ帰ってくれて」
何のことかとばかりに自分に視線をやる蜜に、リュリュはそう付け足して笑う。
ジョセフの救出劇を終えた深夜に、アナグマキッチンに顔を出した二人に大きな怪我はなかった。けれど姉から漂う真新しい石鹸の香りが、彼女が一度血濡れになり、水を使ったことを如実に物語る。おそらく、返り血。姉はまた、あの館で獣になったのだろう。
「構わないさ。わたしはできる限り協力すると、そう彼女とも約束している」
蜜は薄く笑って、また杯を傾ける。空になったらしきそれに、リュリュは厨房の奥から酒瓶を持ってきて、杯に注いでまた満たす。蜜の好みの銘柄を牡丹伝いに知り、あらかじめ宴に合わせて仕入れておいたのだ。
無言の礼を注ぎ終えたリュリュは、静けさのなかで蜜の白い喉が上下するさまを眺めていた。彼が杯から唇を離す瞬間を見計らって、
「──蜜さんは、僕が異常だということに気付いているんでしょう?」
静かに、しかし鋭く尋ねる。
察しの良い蜜のことだ。姉のことで取り乱した様子を見たからには、リュリュが隠し持っている狂気に気付いていても不思議ではない。牡丹と同じように他言しないよう頼まなければと、リュリュは身を固くして蜜の返事を待った。
「…………何のことだ?」
けれど蜜は杯をテーブルにコトリと置きながら、唇を弧にしならせた。
その様子が、蜜は本当に心当たりがなくて尋ねているのではなく、全部知った上であえてリュリュのために嘯いているのだと、そう返答をしている。すべてのことに先回りされたことに気付いたリュリュは眼を見開き、それから蜜を正面から見つめて彼と同じように唇を持ち上げた。
「……ありがとうございます」
今度は蜜も、礼の意味を尋ねるような真似はしなかった。リュリュの視線を受け止めていた彼は、かすかに漏らした吐息に笑みを含ませながら、杯に視線を落とす。硝子でできた杯の縁を、細い指先がなぞった。
仕草ひとつとっても、彼はとても魅力的な大人だ。何もかもを受け入れてみせる器を持った男。いつか自分も、そうなれるだろうか。
表戸が開く音がして、リュリュは視線を店の入口へ投げる。そこには急いでやって来たのか、息を乱したフレアが立っていた。
少し遅れると牡丹から伝言を聞いてはいたものの、もう来ないかもしれないと思っていた心が喜びで沸き立つ。まるで菓子皿を届けてくれたあの日とそっくりだ。そう思いながらリュリュは彼女を出迎えるために入口へと駆けた。
「あっ、リュリュさん。遅くなってしまってごめんなさい」
「いえ、忙しいのに来てくれて嬉しいです。さぁ、どうぞ奥に。料理も取り分けてあるので温めなおしますね」
「ありがとうございます。……あの、もうデザートって皆さんに出し終えましたか?」
「いえ、これから切り分けるところですけど……?」
リュリュが彼女の発言の意図をつかめず、小首をかしげる。その様子を見たフレアは嬉しそうに笑ったかと思うと、肩から下げていた鞄のなかから緩衝材で包んだ何かを取り出して、カウンターに置いた。
「本当はきちんと包装できたら良かったんですけど……前に話した、菓子皿とセットの食具です。初めて下ろす日が今日ならきっと、これを使うたびに嬉しくなるかなって思ったので」
フレアがほどいた緩衝材から、持ち手に小花が散った金色の食具が覗く。
──今日に合わせるために、問屋に頼み込んだに違いない。包装する間も惜しんで、これを持って駆け付けてくれたんだ。そう気付いたリュリュは嬉しくなると同時に、胸の奥がじり、と熱くなる感覚を覚えて奥歯を噛んだ。
「ありがとう、ございます。お代は……」
「これは贈り物です。ソワイエさんが無事に帰ってきて、リュエットさんのことが分かって、本当に良かったですね」
フレアは弾んだ息はそのままに、リュリュににっこりと微笑みかけた。
太陽に向かって開く花のような、翳りのないあたたかな笑顔。
それを向けられたリュリュの眼のなかで、パチパチと小さな星が弾ける。彼女の表情に釘付けになったまま、呆然と開いていた彼の唇から、するりと言葉が滑り落ちた。
「──やっと僕に笑いかけてくれた」
本当の笑顔で。
彼が無意識に口にした台詞に、フレアはきょとんとした表情を見せる。しばらくしてやっと意味を飲み込めたのか、たちまち彼女のほっぺたは真っ赤になった。
その表情を見たリュリュの唇から、え、と戸惑いの声が漏れる。彼もやっと自分が何を言ったのか気付いたらしく、彼女のそれが伝染したかのように、頬を紅潮させた。
顔が熱くなったことに自分の表情を知った二人は、それを見られないよう慌ててうつむく。
「す、すみません、変なこと言って」
「い、いえ! 私の方こそ、変な笑顔を見せててすみません」
「……今までの笑顔も、変なんかじゃありませんでしたよ。けど今日の、満面のって感じの方が、やっぱり嬉しいです」
後ろ首に手のひらをあててリュリュがはにかんだ。
視線を泳がせていた彼が、ふとフレアに視線を定めて微笑む。
黒縁眼鏡のグラスの奥で細められた青い瞳。いつもは優しさばかりがにじんでいるそれに、今日はほんの少しだけ男のひとらしい色が香っている。
「また見せて下さいね。フレアさんの、心からの笑顔」
リュリュのやわらかな声音に、フレアは呼吸を止める。
はい、と返事をしたいのに、声が出ない。
彼の表情を見て、大きく心臓が跳ねたから。
その鼓動に、声を奪われてしまったから。
デザートをねだるフィデルの声にハッとしたリュリュが、慌てて厨房へと走っていった。フレアはふらふらとした足取りで店の奥へと進む。
そこから先のことは、牡丹が歓迎してくれたことだけはぼんやりと覚えているが、何を喋ったかまでは思い出せないほどに上の空だった。世界はふわふわとやわらかくて現実味がなく、吐く息がいやに熱かったことだけが鮮明だ。
のちに彼女は語る。
せっかくのごちそうだったのに、この日に限っては味がまったく分かりませんでした、と。




