第29話 とある獣医の回想
ここにいる動物達の検診はすべて終えた。
ただ一匹を除いては。
ドクター・ジョセフは帳をくぐる前に、ひとつ大きく深呼吸をした。それから毛量の少ない金の頭髪──四十を超えた今、仕方ないのかもしれないが気になる──を手のひらで撫でつけ、白衣を払い、わずかながらに身なりを整える。
こんなに自分が緊張しているのは、おそらく枷も檻もついていない獣を麻酔も使わず診ることに、まだ慣れないからだろう。とはいっても検診はとうに両の手で数える回数を超えた。そろそろ動揺しなくても良さそうなものだが。
高鳴る鼓動を抑えて、ジョセフは目の前の緞帳を手の甲で押し上げた。遮る布がなくなって、部屋に張り巡らされた白の薄布が、彼の目に鮮やかに飛び込んでくる。
この巨大な丸い天幕では沢山の布が使われているが、彼女の部屋はいつもいっとう華やかだった。この部屋の主はきめ細やかなレース編みが好きらしく、仕事で旅に出るたびにあちこちから買い付けては、壁や天蓋に飾っていた。天幕の骨組みから下がり、ゆるやかな曲線を描く薄布。それは花嫁の魔除けの面紗、あるいは寝具やピアノに掛けるかぎ針網の被覆だ。
蚕のように布にくるまれた部屋。その中央に置かれた、白糸で刺繍がほどこされたゆったりとした座褥長椅子に、部屋の主は横たわっていた。
「あら、ジョセフ」
彼女は快活な声音で彼の名を呼ぶと、足先に引っかかっていたミュールを足指で器用にたぐりよせて履き直した。優美な仕草で身体を起こして足を地面につけ、長椅子に座る。藍宝石の大きな瞳が笑みと共に細められた。
「この子の検診? お疲れさま」
そうねぎらって、彼女は足もとに控えた狼の背を撫でた。鎖も枷もないその獣は、しかし従順に彼女の手に鼻先をすり寄せる。ジョセフはおとなしい狼を少しだけ警戒しながら、女に近付きうなずいてみせた。
「ああ。ウルーで最後だからな、しっかりと見せて貰うよ」
ウルーと呼ばれた真っ白な狼は、鼻先をジョセフに向けて、きゅうんと甘えた声を出した。こうして見ているとまるで従順な飼い犬さながらだが、ジョセフはその犬歯の鋭さを知っている。
噛まれたらひとたまりもないだろうな。初めてウルーの口蓋を開けて舌の色を診た時、及び腰だったジョセフはそうぼやいた。麻酔を禁止されたので、狼の眼はぱっちりと開き、荒い息がじかに手指に伝わってくる。それに怯えるジョセフを見て、彼女は張りのある赤い唇で弧を描き、にこりと無邪気に笑ってこう返したのだ。
「ウルーはわたしが駄目って言ったら、絶対に噛まないわ。だから大丈夫」
実際ウルーは、ジョセフが困るようなことは何一つとしてしなかった。
狼はいつも静かに彼女に寄り添っている。その二人の姿はジョセフの眼に、時には友人同士のように、時には姫と騎士のように、時には姉弟のように映った。
何も知らない人の眼には、この狼が特別に映るかもしれない。けれどウルーの側にいる彼女こそが特別なのだと、ジョセフは知っている。
彼女はこの曲馬団の花形の獣使いだ。特別可愛がっているウルーだけでなく、どんな獰猛な獣も彼女を目の前にすると従順になった。いや、その言い方は正しくないのかもしれない。なにせ彼女は鞭や枷を使わず、のびのびと獣らと戯れるのだから。まるで子どもが親しい友達と遊ぶかのように。そんな時の彼女は魔法使い、あるいは妖精に見える。
ジョセフも何度かここへ仕事以外で足を運んだが、彼女はいつも夢のようなひとときを獣と演じてみせた。荒廃都市に咲く薔薇。そう彼女を讃えた曲馬団の貼り紙の文句は、あながち団長の誇張表現ではないとジョセフは思ったものだ。
「……うん、異常はないな。よかった」
手際よくウルーの診察を終えたジョセフは、書類綴に挟んだカルテに筆記具を走らせる。ここを出る前に、この紙の束を団長に渡したなら仕事は完了だ。
医療鞄に一度それをしまい込んだジョセフは、診ていた間ずっと大人しくしていたウルーを、恐々ひと撫でした。立ち上がり、それじゃあまた、と口にして踵を返す。
いつもの検診の光景。
──立ち去りかけたジョセフの白衣を、彼女が引いたことを除いては。
「…………どうした?」
上擦らないよう声音を作るのが精一杯だった。それを知ってか知らずか、彼女は白衣を細い指で引いたまま、立ち上がってジョセフの眼を正面から捕らえた。
「聞いてほしいことがあるの」
「……何かな」
「あのね」
金と青の眼が交錯する。
次の瞬間彼女は口もとをゆるめ、頬を染めてはにかんだ。
「わたし、もうすぐお嫁に行くからここを辞めるの。だからあなたと会うのは、これが最後になると思う」
ジョセフの金の虹彩が驚きで引き絞られる。突然の話に彼の時は止まり、空白が流れた。
彼女はまだ若いが、確かにそういう話が出ても不思議な年ではない。……それにしても、まったく気付かなかった。
さまざまな考えがジョセフのなかで目まぐるしく浮かんでは消えていき、やっと彼が言葉を紡げた頃には、ずいぶんと時間が経っていた。
「……ウルーはどうするんだ? いつも君の側を離れなかったこの子は……」
「もちろん連れて行くわ。ウルーは私の家族だもの。夫になる人もそれを分かってくれた。それならモンブロワに新居を構えようか、って言ってくれたの」
モンブロワはコンコルディアの荒れ地を抜けた先、湖畔の近くにある緑豊かな村だ。ジョセフも一度訪れたことがあるが、規模は小さいながらも、ゆったりと構えた住居がのどかな村だったように記憶している。確かにあの村ならウルーが窮屈な思いをすることなく、のびのびと暮らしていけそうだ。彼女の言う〈夫になる人〉は、彼女の家族のことまで考える優しい青年に違いない。
「……そうか。それなら良かった」
口角を上げる自分の口もとと安堵の声を、どこか他人のもののように感じながらジョセフは彼女に笑ってみせた。彼女は少し困ったように眉を下げて、ジョセフのかさついた手のひらに指を伸ばす。
「わたし、団長さんに手紙を書くわ。どういう暮らしをして、どんな風に幸せなのかをきちんと伝えるから。あなたにもわたしとウルーが元気なのかを記すから。だからジョセフもきっと、元気でいてね」
幸福そのものの笑顔で彼女が笑う。
彼女の細く白い手が、ジョセフの武骨な手を握る。
すべらかな手のひらを持つ彼女は、その先端に触れて分かるように、すべてが優しく綺麗にできていた。白く透き通る肌、青く輝く瞳、生き生きと色付く唇。長い赤銅の髪はゆるくうねり、白い舞台衣装がよく映えた。首に巻かれた白いレースから下がる赤珊瑚。それは彼女のふたつ名と同じ薔薇をかたどっている。
そうだ、彼女は薔薇だ。だからこそ薔薇色の人生を送るに違いない。
ジョセフは金の眼を細める。
「……おめでとう。幸せにおなり、リュエット」
やっと祝福できた。花のほころぶ笑顔を浮かべる彼女を見ながら、ジョセフは今更ながらに気付く。どうしてこの部屋に入ることに緊張していたのか。鼓動がうるさかったのかを。
親子ほど年が離れたリュエットに、ジョセフは淡い恋心を抱いていたのだった。




