第26話 紅い獣
赤、赤、赤…… ──紅。
蜜の眼が紅色の奔流に呑まれる。
合成獣の胸に洞が空いている。その奥に肉色に蠢く心の臓が覗いている。胸からは絶えず、その巨体にふさわしい血量が吹き上がっていた。
合成獣の腕に爪を立て、白い喉を仰け反らせているのは、ソワイエ。その牙で食い破った肉片を噛み咥えている。髪紐がちぎれたのか、服を抜け出た長い赤銅の髪が、月光に躍っていた。それは赤い薄布がたなびくような優美さで、蜜の眼球に刻まれる。一瞬の概念が崩れて時間が鈍重に流れた。
──目が離せない。
密な睫毛に囲われた眼は生命力に赤く輝き、血濡れの牙が覗く唇は生き生きと艶めいている。全身血に濡れているがその姿はどこか神々しく、孤高の獣を思わせた。
「……美しい」
こぼれた声は蜜のものではない。崩れ落ちる合成獣の奥に視線をよこすと、グレゴワールが呆けた顔で立っていた。やがてその全身が、ぶるぶると戦慄く。彼は歓喜に腕を広げ、全身でソワイエを賞賛した。
「美しい、美しい、なんて、なんて美しいんだっ!!!! 君こそぼくが探し求めていた生き物だ!! 媚びず、誇り高く、強く、生命力に満ちあふれ──ああ、最高だ!! その生ける宝石のような烈火の瞳! 見つめられると全身が悦びで震えそうだ! ねぇ、美しいひと!! ぼくのものになっておくれよ!!!!」
激しい求愛を思わせる叫びに、ソワイエは鼻に皺を寄せて、噛んでいた肉を吐き捨てた。黒ずんだ肉が不味かったのだろうが、その行為はグレゴワールの申し出を断る仕草にも映る。
彼を睨んだまま手足を床に付け、腰を高く上げて跳躍の構えを見せるソワイエ。しかし彼女がグレゴワールに跳びかかった刹那、その動きが阻まれた。
「ッ!?」
ソワイエの首に太い鎖が巻きつく。墜落して背を撃ち、鳴き声を上げる彼女に構わず、鎖は手繰られ、引き擦られる。首輪と鎖とを離す仕掛けが手元にあったのか、合成獣を支配した手綱で、グレゴワールは今度はソワイエをも飼い馴らそうとしている。
彼女が暴れ回るたびに鎖がじゃらりと鳴り、絡まり、ソワイエを重く拘束した。
荒い息を吐いていた彼女が、一際大きく唸る。次の瞬間手指が重く絨毯を蹴り、ソワイエは鎖を首に携えたまま、グレゴワールの元へと跳んだ。口蓋を開いて牙を剥き、その喉笛を食いちぎる。──はずだったが、
「アオォォォッ!?」
白い雷光に貫かれたソワイエは、全身を痙攣させてどぅと倒れた。なおも続く電流の責め苦に彼女は喉を掻きむしり、のたうち回る。
「君が狩ったあの子もね、こうやって身体に教え込んだのさ。誰が主人なのかを」
電気が途絶えると、ソワイエはグレゴワールを睨み上げ、報復しようと駆ける。が、そのたびに彼は容赦なく彼女に痛みを浴びせかけて、その動きを封じた。
蜜は柄に手をかけ、いつでも斬り込める体勢をとりつつも、手立てが取れずにいた。
グレゴワールを止めるべきだが、ソワイエの動きは予測不可能で、間違って彼女を斬ってしまう可能性を否定できない。それに、あの電流。今は加減をしているだろうが、おそらく致死量の雷撃を叩き込めるに違いない。彼を一瞬で絶命させれば問題はないが──。蜜の不殺を誓った心が焦燥する。
「ウウウッ……」
ソワイエが荒い息を吐いて顔を上げる。痛みに打ちのめされた彼女の瞳はわずかに濡れている。
……その表情から激しさが抜け落ちた。生まれたての赤子に似た無垢な顔。抵抗を諦めたか、とグレゴワールが息を吐き、蜜が息を飲んだ、その時。
「──ウアアアアアアアアアッ!」
ソワイエの表情が憤怒のそれに塗り替わる。声を上げ、自身の頸に巻かれた鎖をつかむ。渾身の力で砕こうとしているのか、鋼がミシミシと鳴り始める。
「ははは、まだ抵抗するのかい!? 無駄だよ、その鎖は大猩々の力でもちぎれないよう作ってある!!」
グレゴワールは嘲笑し、さらに彼女に電流を浴びせかける。ソワイエは一段と高い声で哭いた。が、彼女は責め苦に喘ぎながらも、鎖を握りしめたまま離さない。
腰を低く落とし、歯を食いしばり、手を震わせ、赤い髪を逆立てて──
「ガアアアアアアアァァァァァァゥッ!!!!」
地の底から沸き立つような咆哮と共に、ガキン、と金属が弾ける音がした。うつむいていた彼女が顔を上げる。赤い瞳が業火を宿して揺れる。次の瞬間、ばらばらに砕け散った鎖が月光を受けて、星を散りばめた白い輝きを放った。空に舞い遊ぶそれは、彼女のまわりを巡って舞い落ちる。鉄琴を打つ愉悦な音を響かせて。
「……なんだって!?」
驚き見開かれたグレゴワールの眼は、二度と瞬くことを許されなかった。
頸に鈍い衝撃があったかと思うと、彼の眼球は飛び散る赤を浴びて濡れた。一足に跳んでグレゴワールの喉を掻き切ったソワイエは、噴き出た血に誘われるように、また晒された肉に牙を立てる。ゴギッ、と骨が砕ける音がして、ヒュッと下手な笛の音が彼の喉から漏れた。
それが、グレゴワールの最期だった。