第23話 侵入
陽の名残りすら感じさせない闇夜。空には爪で引っかいたような細い月が、朧に浮かんでいる。その灯りだけでは心もとないのだろう。男が手燭をぶら下げて、屋敷の塀の側を巡回していた。
それを遠目に見ていた蜜とソワイエは、頭のなかで数えていた数字を止めた。あの見張りが塀の角を曲がって消えてから、また姿を現すまで約420秒。これで三度目の確認だが、秒数はほぼ変わらない。つまり見張りがいなくなって7分の間にあの塀を超えることができれば、この関門は突破できる。
グレゴワールの屋敷は三区の外れにあった。建物は灰色の石造りで、とがった黒い屋根に十字架を頂いている。大きくて立派な屋敷ではあるが、どこか物々しくてうら寂しい風情が漂う。
屋敷の建つ敷地は長方形で、灰色の石を煉瓦のように積んで作られた塀が、屋敷をぐるりと囲っていた。短い辺のひとつは正面玄関に面していて、常時見張りが立っている。蜜とソワイエが狙っているのはその裏手だ。幸い近くに木々が密集していて、身を十分に隠せる。
木の幹に忍んだ蜜が、ソワイエに目線を配ってうなずく。彼はいつも鈷青色の着物に藍色の羽織を着ていたが、今日は黒の着物を身に纏っている。帯も羽織も漆黒で、袖から覗いた手首がいやに青白く映えた。きっと本来は弔いの装束に違いない。
蜜の視線を受けたソワイエは彼にうなずき返した。彼女も、いつものビスチェ型の革鎧ではなく、黒地の革続服をぴったりと白い肌に添わせていた。赤銅の髪は蜜のように邪魔にならないよう一つにまとめて、躍らないよう首元から服の中に突っ込んでいる。
目配せで意思を疎通した二人は、男の下げた灯りが角を曲がると同時に、足音を忍ばせて駆けだした。前もって打ち合わせした通り、塀にいったん添い隠れて、辺りを警戒する。人の気配はない。二人はもう一度うなずきあって、塀の壁を蹴り上が──ろうとした。
「……あれ?」
ソワイエの手が塀の上に届かず空を切り、彼女が間の抜けた声を出した。くそ、と悪態をつきながら二度三度と壁を蹴るが、わずかに塀の淵に手が掛からない。
「だあぁっ!」
さすがに大声は出せないと思っているらしく、囁き声で悶絶するソワイエ。すぐ側でその様子を見下ろしていた蜜は、そこでやっと彼女の変化に気付く。
リュリュと同じ背丈だと思っていたが、今日のソワイエはそれより背が低い。どうやら足音を忍ばせるために、いつもの踵のついた編上靴から底が平たい靴に履きかえて来たようだ。
「……いつもより小さく見えていたのは、収縮色である黒い服のせいではなかったか」
「う、うるせえ蜜っ!」
思わず声が大きくなったソワイエの唇の前に、蜜は人差し指を立てた。
「煩いのは君だソワイエ。……仕方ないな」
「わわっ!?」
蜜はソワイエの腰をつかんで、いとも簡単に持ち上げた。ちょうど子どもを高い高いとあやすような恰好だ。彼女は宙に浮いた手足をばたつかせながら、小さく抗議の声を上げる。
「ななな、なにすんだよ、くそ、離せ!」
「暴れるな、今は塀を登ることが先決だ」
うっ、と息を飲んだソワイエが、蜜の言葉通り素直に塀に手を掛けてよじ登る。彼女が壁を越えたのを見計らって、蜜も地を蹴ってふわりと塀の向こうに跳んだ。
足音を消して着地する。屈めた腰を伸ばすと、羞恥に顔を真っ赤にして蜜を睨んだソワイエが待っていた。
「くそ……一人だけ格好つけやがって…………後で覚えてろ蜜……」
「……ここはわたしに感謝すべきところじゃないか?」
呆れの混じった溜め息を吐いて、蜜は辺りを見回す。裏庭とも呼べないほど草が生い茂り荒れ果てた着地点は、しかし身を隠すには好都合だった。腰を低くして草をかき分け、二人は屋敷に近付く。
重そうな臙脂色の日よけ布が下がった窓が見えた。両開きの窓の合わさった部分に、真鍮のネジ締り錠が掛かっている。それを確かめた蜜は、腰に差していた刀の柄に手を掛けた。チャリ、と小さく鍔が鳴って、柄に巻いていた赤い髪紐が揺れる。
「ソワイエ、下がっていろ」
蜜がぐっと身を低くしたかと思うと、キンッと冴えた音がして地上に月光が閃いた。何が起こったのかと疑問の表情を浮かべるソワイエをよそに、蜜は錠に近い窓硝子を指で軽く押す。すると、まるく切り抜かれた硝子が抜けた。それに指を掛けて引き抜いた蜜は、その穴に手を突っ込んで内側からネジ締り錠をひねる。手をこちらに戻した彼が軽く両開きの窓を押すと、窓はいとも簡単に開かれた。
「す、すっげ……」
ソワイエが口をぽかんと開けた。つまりはあの閃きは高速の抜刀術で、目にもとまらない速さで硝子を斬ったということになる。しかも音を立てないよう、砕くのではなく斬った。指を掛けて初めて抜けるほどの鋭さで。
「蜜、お前ほんとに何者だよ……」
「わたしのことは後回しだ。いずれ話すから、酒の肴にするといい」
窓から屋敷に侵入する。幸い床には絨毯が敷かれていて、着地音は掻き消された。
あたりは闇に塗りこめられて見えづらいが、そこはどうやら書斎のようだった。そびえたつ本棚の間を抜ける。先に立ったソワイエが、部屋の扉をそっと押し開いて、戸の隙間から外に顔を覗かせた。
「……っ!」
ソワイエは身じろぎして息を飲んだ。
己の鋭い嗅覚が呪わしい。
扉の外には絨毯が張られた廊下が広がっている。豪奢でありながら先が見通せないほど暗いそこは──ねっとりとした熱気と共に、獣の呼気や体臭といった、生々しい匂いが充満していた。
強烈な臭気に鼻を押さえかけるが、ジョセフの匂いをたどらなければと思い出して手を止めた。ソワイエはぐっと息を殺して部屋を出て、廊下の壁に体を滑らせる。
「──ひどい匂いだ」
蜜も顔をしかめて部屋を出た。廊下には洞窟の風鳴りに似た、奇妙な不協和音が響いている。生々しい匂いも手伝って、すぐ側に自分達を狙う肉食獣が潜んでいるかのような圧迫感を覚えた。
この屋敷の主であるグレゴワールは、サラいわく〈お屋敷でいろんな動物を飼っている人〉らしいが、言葉とは時に寛容すぎるとソワイエは思う。この臭気に唸り声──少なくともサラが思い描く愛玩動物とは大きくかけ離れているに違いない。
「気持ち悪ぃ……早いとこジョセフを見つけて、こんなところとっとと出ようぜ」
「この臭気で彼の匂いが分かるのか?」
蜜の問いかけに、ソワイエは目を閉じて意識を内側に集中させた。廊下に漂う、獣の体臭。餌の匂い。人間が摂った食事の匂い。高級そうな香水の残り香。それから──
「……!?」
ソワイエは思わず眼を見開いた。
そんな馬鹿な。
いや、もし仮にそうだとしたら……
「ソワイエ、大丈夫か」
「あ、ああ。もう少し待ってくれ」
数度かぶりを振って、気を取り直してまた眼を閉じる。
そうだ。今考えるべきはジョセフのことだ。
ソワイエの脳裏に、あの時弟から手渡された白い封筒が浮かぶ。上等な紙の手触り、すべらかな便箋、青い洋墨の匂い、それから日なたの乾いた匂い──
「……こっちだ!」
研ぎ澄まされた琴線に引っかかった匂いを、ソワイエは追った。
屋敷は灯りが消えていて見通しが悪い。しかし異能の影響で普通の人間より夜目が効くソワイエには、目さえ慣れてしまえば暗闇は障害にならなかった。廊下に並ぶ扉を幾枚も通り過ぎ、やがて吹き抜けの玄関広間に出る。
大理石の床に靴音が響かないよう気を付けながら、ソワイエと蜜は左右対称に造られた、大きな階段二つのうちの一つを駆け上がった。優美な曲線を描きながら二階へと続くそれは、やがて大きなステンドグラスの前で集約される。不気味な獣を模った暗い色硝子の前を横切って、また長く続く廊下を駆けた。
いくつもの部屋の入り口を横切る。やがて先頭を切っていたソワイエが、通り過ぎた扉の前でたたらを踏んだ。
「蜜、ここだ! ここからジョセフの匂いがする!」
下がれと短く告げた蜜が、腰の刀に手をかけて大きく踏み込む。カキン、と軽い音を立てて、扉の錠前が持ち手ごと斬り落とされて外れた。もはや蝶番で留められた一枚板が阻むだけになった扉を押し開けて、二人は部屋に入る。
「き、君達は……!?」
部屋の奥で男の声と衣擦れの音がする。そちらへ視線をやると、寝台の上で身構えた老人の姿があった。
綿あめに似た白ひげは胸元まで膨らんでいて、口のまわりをも覆っている。それとは対照的に髪のない頭や、焼きあがった丸パンさながらにふっくらとした頬が、聖夜を舞台としたおとぎ話に出てくる、施しの賢者を思わせた。ふさふさとした眉の下にある小さな瞳は琥珀の金で、そこでやっとソワイエはサラとの共通点を見出す。
「……ジョセフか?」
思っていたよりも年かさの男にソワイエが確認すると、男は戸惑いながらもうなずいた。目的の人物を見つけたことに、ソワイエは人知れずほっと安堵の息を吐く。
「あんたを、助けに来たよ」
「……リュエット…………!?」
そんなまさか、とうろたえるジョセフの反応に、思わずソワイエは赤い唇を持ち上げる。
(……ジョセフは当たりだったぞ、リュリュ)
今は遠く離れている弟に心のなかで呼びかけながら、彼女はゆるんだ表情を引き締めた。
「俺はリュエットの娘のソワイエだ。あんたに母親について聞きたいことがある。……まずはここから逃げるぞ」




