第16話 詩と夢、朝と志
黒い夜草深い野にあって、
一匹の獣が火消壺の中で
燧石を打って、星を作った。
冬を混ぜる 風が鳴って。
獣はもはや、なんにも見なかった。
カスタニェットと月光のほか
目覚ますことなき星を抱いて、
壺の中には冒涜を迎えて。
雨後らしく思い出は一塊となって
風と肩を組み、波を打った。
ああ なまめかしい物語――
奴隷も王女と美しかれよ。
(幼獣の歌/中原中也)
◆ ◆ ◆
美しい女がいた。
窓辺の安楽椅子にゆったりと腰掛けて、膝の上に本を広げている。彼女はその本に書かれている内容を愛でるように、言葉をなぞっては舌先で転がしていた。
うつむくそのひとの長い髪は、本を隠す緞帳だった。赤銅の色をもつそれは窓越しに降り注ぐ太陽の光を浴びて、生き生きと踊る炎さながらに輝いている。
――ふと、女が顔を上げた。首に巻いた布地から下がる、薔薇をかたどった赤珊瑚の細工が鎖骨を打つ。彼女の視線の先には、開け放った扉から顔を覗かせる小さな子どもがいた。女と同じ赤銅の髪を持つその子は、藍宝石のまんまるい眼で女をじっと見つめている。
「……ぼー、とく?」
女の朗読をたどたどしく繰り返して、小首をかしげる子ども。そのあどけない様子に女はふわりと笑う。本を閉じて手招きすると子どもはパッと破顔して、おぼつかない足取りで女のもとへと走った。
「そう、冒涜。綺麗で神聖なものを汚すことよ」
んー? わかんない。くすぐったそうに身をよじる子どもが、幸福そのものの響きをした笑い声を立てる。女は子どもの髪を梳く方とは逆の手で、自分のおなかを撫でた。白いレース編みのワンピースを持ち上げる、まるく膨らんだ腹部には小さな命が宿っている。
「星はきっと、子どものことじゃないかしら。処女のまま懐妊した聖母を信じる人にとっては、きっと愛しあうことが冒涜に映ったのね。でも、本当はとっても大切なこと。そうやって生まれてきたんだもの。わたしも、みんなも」
ここではないどこかを眺めて目を細める女の手を、子どもは頬を膨らませて引っ張った。身重な母のために一人遊びをしていたけれど、それにも飽きてしまったのだ。
はっと我に返った女は、ごめんねと我が子に謝った。それから小さな頭を撫でて、やわらかく微笑みかける。
「そろそろお茶にしましょうか、ソワイエ」
◆ ◆ ◆
陽よけ布はまだ買えていない。そろそろリュリュに勧められた通り、購入して部屋の窓に下げた方が良さそうだ。すっかり日差しが強い季節になったし、何より今まさに眩しくて寝ていられない。
目蓋を閉じていてもなお、眼を突き刺さす光にソワイエは眠りから覚めた。白く輝くふかふかの寝台に寝転んだまま何度か瞬きをすると、頬にあたたかなものが伝う。
「んん……?」
思わず怪訝な声で唸り、指先で目尻をぬぐう。頬を濡らした涙。なぜ泣いているのか分からなくて首をひねる。寝ながら泣いていたのだろうか。何か、悪い夢でも見たのだろうか。
(別に嫌な感じはしねぇけど……)
悪い夢どころか懐かしい夢を見たような気がする。とてもあたたかで、やわらかな。
夢の内容を思い出そうとするけれど、目覚めてすぐに記憶は遠くへ行ってしまって、尻尾すらつかめない。起き上がって寝具の上に座り込んで、がしがしと赤銅の髪を混ぜる。ソワイエは夢を思い出せないもどかしさに、顎に手をあてて考え込んだ。が、
「ソワイエねえちゃん、いつまで寝てんだよ!」
思考は扉越しに響いた声に吹き飛ばされた。ドンドンと乱暴に叩かれた木戸が、ミシリと嫌な軋みを上げる。
「もう昼だってば、はやくアナグマキッチンに行こうぜ! 約束だろー」
「うああうるせえ! 起きてる! 起きてるし約束も忘れてねえから、それ以上叩くなフィデル! 扉がぶっ壊れるだろ!」
慌てたソワイエが大声を張り上げる。ただでさえ、このオセロ・アパートメントは古い建物なのだ。それに加えて彼とソワイエは、それぞれの部屋の扉を互いに壊した前科がある。いくら家主が温厚な紳士とはいえ、三度目ともなるとさすがに申し訳なくて合わせる顔がない。
寝台から飛び降りて部屋の入り口を開けると、見慣れた栗毛の少年の、してやったりといった笑顔が待っていた。ソワイエは、いたずら盛りのフィデルの頭を小突くように掻き回す。
「すぐ支度するから、広間か管理人室で待ってろ。朝の仕事は終わったのか?」
「ばっちり。ねぼすけなソワイエねえちゃんとは違うんだぜ!」
得意気に一枚の銅貨を見せつけるフィデル。ソワイエはへぇと短く感嘆して、今度は少しだけ優しく頭を撫でてやった。
フィデルはソワイエと同じ、このアパートメントの住人だ。彼は家主の下働きをして日銭を稼いで暮らしている。まだ十二の子どもが一人で生きていくのが大変なことは、ソワイエにも分かっていた。なので多少の援助も兼ねて、アナグマキッチンに時々連れて行っては食事を奢っているのだ。
階段を駆け下りるフィデルの後ろ姿を見送って、ソワイエは共同手洗場で顔を洗って自室に戻った。薄い寝衣を脱いでビスチェ型の革鎧を身に着けて、母の形見である赤珊瑚の薔薇を首から下げる。最近すっかり暑くなってきたので、外套は部屋の隅にたたんで置いていた。
帯革鞄を腰に巻いている最中、テーブルの上に置いていた端切れが目に留まって、ソワイエは思わず顔をしかめる。指先で摘まんだそれは、血の匂いと日陰の裏黒い匂いが染みついていた。
『ああ、ソワイエねえさん! こんにちは』
ダリアの快活な声が耳の奥でよみがえる。フィデルと一緒に暮らしていた、彼の姉であるダリア。十五歳という年齢の割に大人びてしっかりしていた彼女は、弟を養うために一生懸命働いていた。
そんなダリアの末路が、路地裏で腹を裂かれて内臓を晒すものだなんて、酷すぎる。真っ赤な血の海に手足を投げ出して、こと切れていたダリア。殺されるような娘じゃなかったはずだ。――どうして。
『別段珍しいことでもない。こういうことは、腐るほど起きるんだ』
あの時そう答えたのは、ソワイエがダリア殺しの犯人だと勘違いした男だった。
荒廃都市であるコンコルディアには、罪人を裁く法などありはしない。暴行や殺人は日常であり、ダリアが殺されたのも運が悪かったのだと、そう諭された。けれど。
(それでも……仇をとってやれたら)
ソワイエは端切れを摘まむ指先に力を込めた。それは死んでしまったダリアの手のひらに握られていた、犯人の手掛かりだった。おそらく衣服の一部をちぎったものだろう。
普通の人間には分からなくても、ソワイエのずば抜けた嗅覚なら、匂いをたどって犯人に追いつけるかもしれない。そう思って、端切れに染みついた残り香をソワイエはことあるごとに嗅いで、記憶に刷り込ませているのだ。
決して忘れないように。この匂いを。ダリアの仇討ちを。