第15話 その花に似ている
日が沈んで、濃紺だった空に漆黒の薄布が重なっていく。
自宅に戻って夕食をとり、散水浴室で一日の垢を落としたリュリュは、濡れた髪を拭きつつ机に手燭を置いて、本棚から抜いた一冊の本を広げた。前の店主が置き土産にしてくれた植物図鑑だ。
これから日差しが強くなる季節に合わせて、もう少し店先のハーブを増やそうかと考えている。今のうちにドライハーブを作り、冬に向けた貯蓄もしておきたい。
暗闇の中でちらちらと揺れる、橙の炎。その下でパラパラと頁を繰って、ハーブの名前をいくつか手帳に書きとめる。それから彼はふと思い立って、季節の花の項目に指を滑らせた。
『リュリュはさ、すみれに似てるよな』
うんと幼い頃、姉にそんな風に言われたことを思い出した。昔住んでいた家の近くにあった、すみれが咲き乱れるあたたかな野原のなかで。
――ぼくはそんなに、きれいじゃないよ。
あの時そう思ったけれど、リュリュは言葉を飲んで、ただ姉に笑顔を返したのだ。
物心ついて間もないころは体が弱くて、寝台に臥せることが多かった。みんなに迷惑をかけている自覚はあった。面倒だと見放されるのが怖くて、大人の望むことを先読みして言う癖がついた。自分の本当の意見はいつも言えなかった。
姉は、いい子を演じたリュリュを見てきたのだ。
ずっと心苦しかった。
けれどコンコルディアに向かう準備をしていたある晩、なかなか寝付けなくて、一人すみれの野原へ別れを告げに行った夜。濃い闇に染まってうつむく暗い花の群れを見て、確かにこれは僕だと、リュリュは納得できたのだ。
――太陽が……姉がいなければ、こんなにもみすぼらしい。
ハーブの隣にすみれも植えよう。サラダの飾りにしたり、砂糖漬けを作って菓子や紅茶に添えるのもいい。次にアナグマキッチンに来た姉は、すみれの花に気付いてくれるだろうか。気付いて、喜んでくれるだろうか。
ふと睡魔の波がさざめいて、眼鏡を外して目をこする。まだ幼さの残る顔立ちのリュリュは眠気にまつげを伏せながら、本の項目をぼんやりと視線でなぞった。すみれの特徴や育て方が書かれた文字の羅列のなかで、ひとつの単語をとらえた彼の目が止まる。
思わず笑いに似た吐息が漏れた。
自分をすみれに例えた姉が、この言葉を知っていたとは思えないけれど。
確かに僕は、紫色のすみれの花に似ているのだろうと。
You occupy my thoughts.
紫色のスミレの花言葉。
〈あなたに思考を占められる〉