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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第2章 彼はすみれと例えられ
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第14話 彼のねがいは


 牡丹を彼女の兄である雪見蜜のもとへ送り届けたリュリュは、一人オセロ・アパートメントへと足を運んだ。コンコルディアに来る前に、あらかじめリュリュが姉のために探しておいた物件だ。時代錯誤で懐古的な外観の四区のアパートメント。その三階に、ソワイエは住んでいるはずだ。

 玄関の広間(エントランス)はチェス盤に似た白黒の床で、高く吹き抜けた天井のまわりをぐるりと螺旋階段が囲っている。それをのぼったリュリュは、彼女の部屋の扉を軽く叩いた。


「姉さん、いますか?」


「……んぁ? リュリュか……?」


 寝ぼけたような声が扉の奥から返ってきて、姉がいたことにほっと安堵の息を吐く。ふとソワイエと会うのは16日ぶりだと気付いて、なんとなく落ち着かなくて、リュリュは服の(ほこり)を払って、手ぐしで髪を整えた。


「なんだよお前、四区になんか用でもあったのへぐゃっ!」


 開いた扉を、バンッとリュリュは反射的に押し閉めた。喋りながら弟を出迎えたソワイエが、勢いよく閉じた扉でどこか打ち付けたのか、言葉の最後が訳の分からない叫び声になる。


「おい、なにすんだよリュリュ! ひっでぇ、痛ぇじゃねぇかこの野郎!」


 ソワイエが声を荒げながら、ガチャガチャと取っ手を回して扉を開けようとするけれど、リュリュは全体重を乗せてそれを阻止した。彼の顔は耳まで真っ赤だ。それは(りき)んでいるからではなくて――


「姉さん! 服を着て下さい!!」


「……あ? 別にいいじゃん姉弟なんだし。この部屋西陽がまともに当たってあちぃんだよ」


「僕が一人じゃなくて誰か連れてたらどうするつもりだったんですか!」


「…………」


 ちぇ、分かったよというすねたソワイエの声と共に、ぺたぺたと素足の足音が遠ざかる。リュリュは安堵とあきれが入り混じった溜め息を吐いて、どっと体の力を抜いた。姉弟とはいえ、さすがに下着姿は目の毒だ。


「おい、着たぜ。入れよ」


 姉の呼びかけに、リュリュは取っ手を回して部屋へと足を踏み入れる。備え付けの寝台(ベッド)、小さなテーブルと揃いの椅子、それから暖炉がある小さな部屋は、窓から差し込む橙色の斜陽で温かな色に染まってはいるものの、物が極端に少なくて殺風景だった。陽よけ布さえ掛けられていない窓を見て、彼は密かにため息をつく。

 ビスチェ型の革鎧とズボンを身に着けた姉は、寝台に腰かけていた。半月前に比べて、少し痩せたような気がする。リュリュはテーブルに荷物を置いて簡素な椅子に座り、ソワイエと向かい合った。


「ちゃんと食べてるんですか?」


「んー? んー……まぁ、適当にな」


「空腹を感じなくて食事を抜いたり、お腹が減っても面倒くさがって、林檎とかビスケットとかそういう簡単なものしか食べてないでしょう」


「うぅ……なんだよリュリュ、説教に来たのかよ」


「今日は姉さんに会いに来たんですよ。お店も落ち着いてきましたし、定休日だったので」


 苦虫を噛み潰したような表情の姉に、リュリュはきっぱりとそう言って、生成りの手提げ鞄から密封瓶ふたつとパンを取り出す。


「そんなことだろうと思って、店の仕込みのついでに作って持ってきました。右がアナグマキッチン秘伝のオニオンスープ、左が家でよく作ってた野菜と腸詰め肉のポトフです。あとこっちがカンパーニュ。暖炉があるならパンは切って軽くあぶって、スープはあたためて食べて下さい」


「うっわ……悪ぃな、さんきゅ。あ、でもどうしよ。俺パンを切るナイフはともかく、スープを入れる器も持ってねぇや。密封瓶はさすがにこのまま、暖炉にかけたら溶けるよなぁ」


 困ったように笑う彼女に、リュリュはもうひとつの包みを手渡した。白い布袋の口を金のリボンで閉じた包装の、Soleilで買った贈り物だ。


「そう思って、これを選んで良かった。開けて下さい」


 微笑むリュリュと愛らしい包みを交互に眺めたソワイエは、戸惑いつつもそれを受け取り、そっとリボンの端を引いた。

 フレアが丁寧に巻いてくれた緩衝材のなかから出てきたのは、ぽってりとまるくて大ぶりの、熟れた林檎のように赤いマグカップだった。ソワイエは唇から小さな感嘆の声を漏らして、そっと両手でカップを包み持つ。


琺瑯(ほうろう)です。硝子質の釉薬(ゆうやく)を焼き付けた金属ですから、錆びませんし直接火にもかけられます。丈夫ですし割れないので、どんどん使って下さい。遅くなったけれど、引っ越し祝いです」


「……引っ越し祝いって……それはお前も一緒だろ。俺、お前に何も用意できてねぇのに、こんな……」


「なら、それを食べ終えたら密封瓶を戻しがてら、アナグマキッチンに食事に来てください。その時だけじゃなくて、それ以降も。なにかと忙しいのは分かりますけど、姉さんがきちんと食べてるか心配なんです。お代を貰いますから、僕の店に通うことを引っ越し祝いにして貰えませんか?」


 リュリュが一息でそう言うと、ソワイエは叱られた子供のような頼りない表情で彼を見た。眉根を寄せて視線を落とす彼女を、それでもリュリュはまっすぐに見つめる。


「美味しいと感じることができない食事をするのは、姉さんにとって辛いことかもしれません。食べることが感覚障害を確かめる行為であることは、僕なりに理解しているつもりです。けど、姉さん。食事って、美味しいって感じるためだけのものじゃないんですよ」


「……知ってるよ。食事は栄養を摂る行為だもんな」


「それも勿論ありますけど、僕が言いたいこととは違います。姉さん、食べることって無条件に人の根っこを支えてくれるんですよ。落ち込んだ時にあたたかい食事を取れば、力が湧いてくる。困難にぶつかった時、ちゃんと食事を摂っていたなら、しっかり食べたんだから大丈夫だ、やってやるって前に進む自信になる。だから、そんな風に誰かの心をほんの少しでも支えられたらと思って、僕は料理人の道を選んだんです」


 勝手な持論を振りかざしているのは分かっていた。けれど自分の料理で、姉を励ますことができたなら。リュリュはそう願って、今日ここに来たのだ。

 しばらく沈黙していたソワイエが視線を上げて、笑いたいような泣きたいような複雑な表情で、唇を噛んだ。


「……前に言ってた、異能が病じゃないかどうかを医療機関で調べてもらうって話なんだけどさ。10日くらい前に、一区の医療所に行ったんだ。そんで今朝、そこへ検査結果を聞きに行ってきた」


 コンコルディアに着いたら調べたいと、前に姉が語っていた話を思い出して、リュリュは思わず彼女の瞳を覗きこんだ。自分と同じ青い目は、少し潤んでいるようにも見える。


「異常なし、だってさ。健康な人間そのもの。薄々分かってたんだけど、やっぱり異能は病なんかじゃなかった」


「……そうですか」


 リュリュはそれだけ言って口を閉じた。ソワイエは、馬鹿みたいだよな、とつぶやいて破顔した。無理に笑う姉を見ていると、あの日を思い出して胸が詰まる。


「まだこれからですよ、姉さん。小さな可能性がひとつ潰れただけです。姉さんがコンコルディアに来たのは、母さんの素性を調べるためでしょう? 母さんの情報を追っていけば、異能を棄てる方法も見つかるかもしれない。そう言ってたじゃないですか。僕も一緒に探しますから大丈夫です。きっとこの街で、姉さんを異能から解放できる方法が見つかりますよ」


 リュリュは励ますように、ソワイエの手の甲に手のひらを重ねた。いつもは豪胆(ごうたん)で頼れる姉だけど、いま彼が握っているのは白くて線が細い、女のひとの手だった。いつの間にか姉より骨ばって大きくなった、自分の手。背丈も少し前にソワイエを超えた。今度は、自分が守って支える番だ。


「姉さんを一人にはしません。僕が側にいます」


 彼はそう言って微笑んだ。ソワイエがコンコルディアに行くと言った時に掛けた言葉を反芻(はんすう)して、もう一度――いや、きっとこの先何度でも。

 彼の言葉に濡れた目を見開いたソワイエは、リュリュにくしゃりとした、今度こそ心からの笑顔を見せた。それから涙ぐんでいるのをごまかすような照れ笑いをして、(はな)をずっとすすって、あぁ、と吐息を漏らす。


「――お前ってほんとできた奴だよな、リュリュ。俺にはもったいない、最高の弟だ」


「当たり前です。いまさら気付いたんですか?」


「ふはっ。そういうとこも含めて、ほんといい性格してるぜ!」


 褒め言葉をさらりと受け入れる彼を見て、ソワイエは声を立てて笑った。その表情を見て、リュリュの喉の奥が詰まったように熱くなる。うっかり気を抜くと何かがこぼれてしまいそうな、そんな感情が彼の胸の奥でくすぶっている。


 姉を盲信し、彼女のためならいかなる犠牲も(いと)わない、愚かで裏暗い自分の一面。弟はまっすぐだと信じて慕ってくれる姉を、裏切りたくない。


 ――違う。裏切りたくないなんて詭弁だ。

 本当は怖いんだ。本当の自分を知った姉が、自分から離れていくのが怖いんだ。

 健やかでいて欲しい。笑っていて欲しい。幸せであって欲しい。できるなら何も知らないまま、綺麗だと信じてくれたままの、僕のすぐ側で。


 自分を狂信者だと思い込んでいるリュリュは知らない。

 その思いが、神に仕える敬虔(けいけん)な使徒のように、あるいは我が子の幸せを(こいねが)う親のように、純粋な祈りの結晶でもあることを。


「僕が勝手に、姉さんの側にいたいだけですから」


 だから彼は姉の前ではそうやって、綺麗に笑ってみせるのだ。


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