第13話 秘密の約束
女達が走り去ると、張りつめていた糸が切れたように、リュリュはその場にがくりと膝を突いた。その衝撃に右足腿の古傷が、今更じくりと痛みを訴える。
「――はっ、はぁっ、はぁっ」
激しい動悸がして目の前が白くなり、肺が酸素を求めて呼吸を荒げる。
急速に力が抜けて冷えていく手から、短剣が滑り落ちる。土の上で跳ねた刃が、カラン、と金属音を立てた。
低く落ちた視界に、土の上に投げ捨てられた布の手提げ鞄と、さきほどSoleilで包んでもらった愛らしい包装が映る。
(あぁ、そうだ……今日はアナグマキッチンの定休日で、雑貨屋に寄って、贈り物を買って、四区に行く途中で……それから、そうだ)
「牡丹、ちゃん……」
一切の情報を切り捨てていた白黒の脳に、急激に色が甦ったかのように記憶が巡っていく。今の自分の状況を思い起こすと同時に、先程まで自分と一緒にいた少女の存在が気にかかり、名前をつぶやいた。
ふわりと自分の手を包んだ感触に気付いて、リュリュは首だけ動かしてそちらを見やる。冷え切った手をあたためるかのように、何度も彼の手を撫でさすっていたのは、牡丹の小さな手のひらだった。泣きそうな顔をしているのに、それでもリュリュの側から離れない健気なその姿を見ていると、胸が詰まって苦しくなる。
「……ごめんね」
優しい色が戻った瞳を曇らせて、声を絞り出すようにこぼしたリュリュの言葉は、何に対しての謝罪なのか。おそらく牡丹が見た一部始終、すべてに対してなのだろう。けれど彼の目を覗きこんだ牡丹は、悲しそうにふるふると首を横に振った。
〈私こそ、なにもできなくてごめんなさい〉
力なくそう書き綴った牡丹は、着物の下に差していた黒塗りの鞘の柄を、ぎゅっと握った。護身用に持っていたのだろう。唇を噛んでくやしそうに眉根を寄せた彼女の表情は、その短刀を抜けなかったことを悔やんでいるかのようだった。
――抜けなくていいんだよ。
リュリュは言葉にする代わりに、震える彼女の手をそっと自分の手のひらで包む。彼を見上げる牡丹の目は、ただただ自分のふがいなさを責めるように、潤んでいた。
彼は牡丹の濡れた眼に、自分の顔が映り込んでいるのを見た。その像が、今の牡丹と同じ顔をしている、あの日の自分に変わっていく。
(……あぁ。僕と君は、同じだったのか)
リュリュの殺意を目の当たりにしても怯えの色を持たず、ただ無力な自分を責める牡丹の瞳に、そう気付いてしまう。彼女も彼と同じように、ひとを殺すという誰かの罪を、すでに赦してしまっているのだろう。覗きこんだ牡丹の虹彩は、リュリュにとって小さな写し鏡だった。
あの日。今は閉じた右太腿の傷から、とめどなく赤い命が流れ落ちていった日。血の海のなかで、彼は人殺しと向かい合っていた。
『……もう、大丈夫だから。安心しろ』
そう言って笑った彼女は、血濡れの罪人の姿をしていた。
泣きそうな顔をしているのに、弟を励ますために無理に唇を持ち上げた、姉の笑顔が網膜に焼きついて離れない。罪を赦すも赦さないも、何もできなかった自分の無力さこそ大罪だ。
あの日罪を犯した姉がいなければ、いま自分はここにはいないだろう。だから、姉に助けられたこの命は、姉のものなのだ。
『あの事件、また一区の過激派の仕業だったのか? あの狂信者達め』
『兄ちゃんも気をつけろよ。あいつら自分達が信じる神のためなら、自分のも他人のも、命を命とも思わない気狂いだからな』
アナグマキッチンで噂話に興じる客の言葉に、リュリュは笑って曖昧にうなずくことしかできなかった。
なぜなら、命を賭して信じる存在が違うだけで、その信者達は自分と同類だと、同じ狂気を抱えているのだと分かったから。
「……牡丹ちゃん、ひとつお願いしていいかな」
弱々しく微笑むリュリュを見上げて、牡丹は目を見開き大きくうなずいた。
「今日、ごろつきに絡まれたことや、さっきの僕のこと。誰にも言わないで、秘密にしてくれないかな……? 姉さんに、知られたくないんだ」
姉のことになると見境いがなくなる、どす黒さ。それを知らず、弟はまっすぐだと信じて慕ってくれる姉を、裏切りたくない。
牡丹はリュリュの頼みに、何度もうなずいた。瞳にたまっていた涙のしずくが、首を振る勢いでぽろぽろと落ちていく。
そうして筆記具に手を伸ばしかけていた牡丹は、その手を引っ込め、何かを決意するようにぎゅっと拳を固めて、すぅと大きく息を吸った。
「……やく、そく」
リュリュは牡丹の声を初めて聞いた。
空気が漏れるようなか細い声だったけれど、それでもなんとか言葉を紡いだ牡丹は、にっこり笑って彼に小指を差し出す。
無理に笑ったせいで眉根が寄ったままの牡丹の笑顔を見て、リュリュも詰めていた息を吐いて、破顔した。彼女と同じような、情けない笑顔で。
「……ありがとう」
そして、彼と彼女は小指を結んだ。
さっきのできごとは、二人だけの秘密だと誓うために。