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紅い獣とすみれの陽だまり  作者: オノイチカ
第2章 彼はすみれと例えられ
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第12話 子羊と蛇


「――っは、はっ、はっ、はっ」


 生きている。

 生きている生きている生きている。

 不器用に短い呼吸を繰り返しながら、がくがくと震える手で、胸の中央を掻きむしる。開いた手のひらを見ると同時に、体が痙攣するように跳ね上がった。

 その手に血がついていないことを、確かめることすら恐ろしかったのだ。つう、と冷や汗が背をつたった。

 

 一秒。いや、それよりもっと短い時間。ほんのわずかに反応が遅れていたら、自分は心臓に刃を突き立てられて、物言わぬ(むくろ)になっていただろう。そう思い至って、思わずぞくりと背筋が震える。

 あの瞬間。肌が粟立つと同時に、全身で恐怖を感じてその場を飛びずさった。本能にも似た反応で。


「あ、姉御!」


 弟分達が一拍遅れて、慌てた声を上げた。それに応える余裕などない。目の前に立つ自分を殺しかけた男から、目を離すことができない。

 

 どういうことだ。さっきまで弟分に背を蹴られ、腹を蹴られ、無様に地に転がっていた、いかにも弱者といった風貌の男。いま目の前にいるのは、本当にその男なのか。まるで先程とは別人だ。

 右手に握られているのは、護身用のどこにでもある短剣(ナイフ)だ。上着の裏に仕込んでいたらしき細い銀色のそれを、彼はためらいなく自分の心臓めがけて突き出した。

 ただ殺されそうになったのが恐ろしいのではない。自分を芯から震えさせ、か弱い子羊のような存在に成り下がらせたのは、彼の(まと)う迷いのない、刃物のような殺意だった。

 牽制でもない。脅しでもない。ただ熟れた林檎をもぐように、彼は淡々と自分を殺そうとした。


「て、てめぇ、よくも姉御を……!」


「よしな!」


 男に殴りかかろうとする弟分を大声で止めたのは自分の声だと、彼女は音を耳で捉えてから初めて気付く。男の殺意に飲まれたままの心は、まだこの世で肉体と結びついていることすら不思議に感じているようだった。


「――なぜだ」


 なぜ自分を殺そうとした。そう男に聞きたかったけれど、唇が震えてたった三言しか紡げない。


「……姉さんを、殺そうとするから」


 淡々と答えた男の声は、低く静かだった。

 女は答えを聞いて、(ほう)けてしまう。

 なぶり殺されそうな自分のためではなく、この場にいない姉のために。(かしら)である自分を瞬時に見分けて、心臓を一突きにして殺そうとした。

 いかにも同害報復は、彼女の掲げる規則のひとつだ。頭を失えば団員は散り散りとなり、改まって仲間の敵討ちをしようなんて奴はいなくなるだろう。それを瞬時に計算し、男は自分ただ一人を狙ったのか。


「……は、ははっ」


 女の口から乾いた笑いが滑り落ちた。笑うしか、なかった。

 頭を殺した後で弟分達がこの男をどうするかなど、考えなくても分かるはずだ。それでもなお、彼は自分を殺そうとした。

 目の前の男は正気を保ちながらも、自己犠牲をともなった、おぞましい殺意を抱えている。その頭の切れる冷静な狂気は、やぶれかぶれの気狂いなどより、ずっとずっと恐ろしい。

 彼の言うところの姉を殺そうとする限り、この男はどこまでも冷徹に自分を殺そうとするだろう。標的である自分か、あるいは男本人の息の根が止まるその瞬間まで。


「――勘弁、してくれ。私はまだ死にたくない! 同害報復は取りやめだ、あんたの姉とやらのことは忘れる。これでいいだろう!?」


 だから、女はそう叫ぶしかなかった。己の命を簡単に投げ捨てる相手と命のやりとりをするのは、あまりにも分が悪すぎる。

 女の真意を測るように、男はすうと瞳を細めた。底冷えするような氷の青。体温を持たない蛇が、獲物を見下すような目だった。


「……約束を、(たが)えたら。()は今度こそ、あんたを殺すよ」


 威嚇でも脅しでもなく、男はただ真実を述べたのだと分かってしまう。震えて噛み合わない歯をむりやり食いしばって、女は何度も首を縦に振った。

 

 短剣を構えた方と逆の手を振るしぐさで、散れと無言で示される。女は男と目を合わせたまま後ずさりし――(せき)が切れたかのように背を向けて全力で駆け、男の前から逃げ出した。


「あ、姉御!?」


 弟分達がとまどった声を上げる。しばらくして女を追う足音がばらばらの軽さで響いたが、女の耳には届かない。いや、音を拾う余裕すらないようだった。

 男を見くびった弟分達が、その場に留まって彼をなぶろうとして、たとえ返り討ちにあって殺されたとしても。女は二度と、後ろを振り返ることはなかっただろう。


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