第1話 旅の二人
あたりは夜空との境界があいまいで、黒の洋墨で塗り潰されたかのようだった。
太陽が隠れてから湿り気を帯びた空気は、濃い炭のような匂いを含んでいる。自生するオークやブナは深い眠りにつき、ここを棲み家とする鳥や動物の鳴き声はおろか、気配すら感じられなかった。
朝は近い。おそらく夜行性の動物すら、ねぐらに潜り込む時間帯なのだろう。
そんな研ぎ澄まされた山中の風景のなかで、ただひとつ不規則に揺れる火だけが躍動していた。それは人の手によって焚きつけられた炎。パチパチと小さな音を立てながら小枝が燃えて、ときおり赤い火の粉が舞っている。
その焚き火の側で、ひとりの青年が地面に腰を下ろしていた。
少し癖のある短い髪はすみれの色。線の細い鼻筋の上に、黒縁の眼鏡が乗っている。眼鏡のレンズ越しに藍宝石に似た青色の瞳が、火のゆらめきに合わせて水面のように揺れていた。
青年の視線は、地面に突き立てた鉄串に向けられている。鉄串には干し肉が刺さっており、炎で燻されて脂がにじんでいた。今にもしたたりそうなそれを見て、肉が十分にあたたまったと判断した青年は、あらかじめ背嚢から取り出しておいた分厚い革手袋を両手にはめて、干し肉を串から抜き取った。それから肉の繊維を、指を使ってやわらかくほぐしてやる。むわりとあたたかな湯気が立ちのぼり、食欲をそそる匂いが鼻腔に届いた。
青年は小瓶に入った香辛料――岩塩や胡椒、タイムなどを肉に振りかけ、出立前にあらかじめ切れ込みを入れておいたライ麦パンにそれを挟んだ。時間帯として食べるにはいささか早いが、簡単な朝食の完成だ。
同じものをもうひとつ作った青年は、ひろげた布巾の上にそのふたつを休ませて、ふと視線を落とした。青年のすぐ側に伏せられた、臙脂色の外套。それはゆるやかに起伏しており、一定の感覚でわずかに上下している。
おそらく放っておけば、いつまでたっても起きないだろう。
青年は外套の肩のあたりに手を置いて、軽く二、三度揺らした。と、そこからくぐもったうめき声がして、外套の中身が青年の手から逃れるように身をよじる。その体勢のまま引き続き眠り込む様子に、青年は困ったようにため息を漏らした。
「……起きて下さい。食事にしましょう」
動作に足された呼びかけは、囁くような優しい声だった。何度か呼びかけながら揺り動かすうちに、外套はやっともぞりと盛り上がる。
その隙間から、赤銅色の豊かな髪が流れ落ちた。寝具にしていた外套をはねのけるように突き上げた、伸びやかな腕。腕の持ち主は見事な肢体を革鎧に包んだ、まだ年若い女だった。口を大きく開けたかと思うと、くぁ、と鳴き声に似た声を漏らしながらあくびをする。それから寝ぼけ眼であたりを見回して、腰まであるうねる髪を背中に流した。
「……ん、なんだよリュリュ、まだ夜じゃねぇか」
「街に着く頃には、すっかり陽は昇りますよ。今日が約束の日ですし、早めに出立しないと」
リュリュと呼ばれた青年はそう答えて、さきほど作った朝食の一つを女に手渡した。
「ちぇ、相変わらず律儀なのな。俺だったらその日中に辿り着けば、昼でも夜でも気にしねぇけど」
女は見た目にそぐわない男言葉でそう悪態をつきながら、パンを受け取り勢いよく食らいつく。リュリュは彼女の言葉を苦笑まじりに受け流しながら、自身も朝食に口をつけた。
食事を取り終わる頃には、空はうっすらと明けていた。
指についた脂を舐めた女は立ち上がり、森の木立の少ない方へと歩いていく。冷たく静謐な森の空気に、吐いた息が白くなった。
視界が開けたかと思うと、切り立った崖のような場所に出た。そこから臨める空は淡い水色で、地平のふちが熟れ落ちそうな桃の色に染まっている。その下に広がるのは、草木もわずかな荒れ地の土壌。そして遠くに、目指しているまるく広がる街が見えた。
街の中央には塔が見える。なるほど、あれが鐘の塔だろう。他の建物よりもはるかに高くそびえたつその姿は、素描で見たものと同じだった。
女は張りのある赤い唇を、笑みの形に歪めた。
──やっと、たどり着いた。
「……荒廃都市コンコルディア」
女は眼下に広がる街の名を、ゆるりと口にする。
同時に夜が、明けた。山の尾根から顔を出した産まれたての太陽が、あたりをあたたかな橙色に染め上げる。
太陽の光を受けた女の紅玉の瞳は星を宿し、きらきらとまたたいた。普段はリュリュと同じ青い色の瞳が、感情に共鳴して色を変えたのだ。
赤々と輝く瞳に、燃え立つような生命力を匂わせた女が、唇の奥で言葉を転がす。
──ここに、答えがあるはずだ、と。
女の名はソワイエ。
彼女はリュリュの姉であり、コンコルディアと深い縁を持つ女だった。