第15廻 7月20日を噛み締めて
周りには人が沢山いる。皆、集まって幸せそうに笑いながら会話をしている。そんな中に彼はいた。彼は、少年はその場に立ち尽くしている。少年の周りには誰もいない。同じ場所、同じ空間、同じ領域に、人々は密集しているのに、彼の周りだけ、少しだけ空間が出来ていた。僅かな空間は、とても広く感じた。
しかもその領域は、少しだけ盛り上がっていた。人々の視界は、人混みだらけなのに対し、少年の視界は、人々の頭と、向こうが見えた。同じ世界、皆同じものを見ているのに、自身だけ違うものが見えたのだ――。
~7月20日 土曜日 10:32 スペースコロニー〝ノア〟 72番モジュール 地下フロア~
「――夢…………」
琳桐ヨシカは目を覚ました。白い天井、白い壁、白い病室。自身が今、身を寄せているここはヨシカが住むコロニー〝ノア〟の72番モジュールの下層に存在する秘匿施設だ。ヨシカの目覚めと同時に、室内に入る長方形の立体にタイヤが付いた4本脚のアシストロボットが部屋に入室した。内蔵の投射機のレンズから映し出された立体映像は〝スロヴァイドⅢマワル〟の補助AIのサクだ。
『おはようございます、ヨシカさん』
「あ~~……うん、おはよ……」
『どうかなされましたか?』
「――いや、夢見ただけだから……」
『どんな夢ですか? もしかしたら今後のリハビリ等で影響が出るかもしれません』
「――……いや、気にしなくても平気かも。昔よく見た夢を、久し振りに見ただけだから」
ヨシカはよろめきながらも立ち上がる。サクを映し出すアシストロボットがヨシカに近付いて身体を支える。ロボットの補助で洗面所の前に立った少年は鏡で自分自身を見詰めた。鏡に映し出されたのは、包帯の取れた頭の左側、額からこめかみの少し上にかけて入った大きな傷と、外側寄りに上方が大きく欠けた左耳だった。
再生治療を施そうにも、治療薬品にアレルギーがある為に治せない欠けた耳とこめかみの傷は、まるで己の無力さを証明しているかのようだった。
「戻って母さんの見せたら……驚くだろうな」
『生命あっての物言いです。私もご尽力出来なくて申し訳ありません』
「仕方ないよ、看病ありがとう」
ヨシカはぎこちなく笑った。
『――どういたしまして……』
立体映像のサクは苦々しくも、微笑み返した。彼は彼女の為にその身も、心も欠けていく。しかもそれは続いていく。それが2人の契約――〝いのちをよろこんであげる〟事なのだから。ヨシカは顔を洗うと、再度ベッドの上にに戻った。すると、別のアシストロボットが来てベッドに横に近付いた。ロボットのアームにはトレイが乗せられていて、彩り豊かな料理が皿に盛られていた。全体的に量は抑えられてはいるが、それぞれ、湯気の漂う、大きめの具材が入った琥珀色のスープと、白と黒に少し焼けた肉の入った、濃厚でまろやかな香りが漂うリゾット、6層のカラフルなドリンクと、白・赤・緑の野菜の上にサーモンの切り身がハートの形に飾られたサラダと、数々の食材がふんだんに使用されているのが見て取れた。
「目が覚めて6日が経過しました。食事に胃も慣れたと思いますので、今日からは消化に良い固形食にしましょう。シンプルに焼き魚とご飯、味噌汁とサラダ、デザートはヨーグルトです」
「……ぇーっと……」
「お気に召しませんでしたか? もっと豪華な方が良かったとか?」
「いや、嬉しいよ。久々の、おかゆとかじゃない、ちゃんとした食事。ただ、なんて言うか…………その、どう感じればいいのか分からなくて」
『食欲が無いんですか?』
「いや、お腹は空いてるけど……何というか、食べ物に対して、どんな気持ちで向き合えばいいのかなって……」
20日近くの睡眠の間は点滴で、そして目が覚めてからの6日間は流動食だったヨシカの食生活は、文字通り栄養補給という意味での食事だったので、久しぶりのまともな食事――嗜好を反映させた、文字通り〝楽しめる〟料理をどんな気持ちで食せば良いのか分からなかった。今までの流動食は不味くは無く、寧ろ美味い方であったが、外見はただのドロドロした液体故に食欲はそそられる訳でもないので、取り敢えず食べておく感覚で接していた。しかし今までの食事とは打って変わって、形のしっかりしている今回の食事は、世間体で言えば質素な食事で人生の内に何度か食べていた事はある筈なのだが、長期間の断食と1週間の流動食、まともな食事を1ヶ月近く触れていない今のヨシカには、初めて見て味わった事が無い料理を出された様に感じてしまったのだ。
『――よく噛んで味わってみて下さい』
「え?」
『リアクションは、まずは食べてからしましょう。それに料理が冷めてしまいます』
「――……そうだね、食べなきゃ」
気を取り直してヨシカは、痩せ細った腕を動かして、震える指で箸を摘み上げた。指の太さは、箸の太さと大差は余り無い程に細い。
箸を向けた料理は無難にご飯だった。プラスチック製の茶碗に、蒸気と香りと熱を放つドーム状の米の山へと側面から突き刺して、そのまま掬い上げて口へと運んだ。熱気を放つ白米を咀嚼する内に、熱と甘さと香りが口内へと広がっていく。噛み続ける度に唾液が出て来ては口の中を濡らしていく。
「美味しい……うん、美味しい」
久しぶりのまともな食事に対する反応は、簡潔なものだった。ヨシカは引き続きそのまま咀嚼を続けていく。
「――…………ぅっ…………」
涙が、溢れた。
「っく……ぅう…………――」
静かに咀嚼していたが、段々と口を大きく開いて咀嚼音は汚く鳴らす。ヨシカの胸に渦巻き、涙を流させたもの――感動だった。
食事自体――食べ物の味そのものは流動食で味わっていた。しかしそれは食事をするという行為を楽しめるようなものとは言えなかった。しかし今目の前にして味わうそれによって、ヨシカはまともに噛むという行為を久しぶりにしたのだ。皮のパリパリ感、身のホクホク感、ほのかな魚の味と塩味が口内を満たして、香ばしい匂いが鼻孔を抜ける事を感じられるこの瞬間が、何よりも嬉しかった。感じ、感動出来るというという、生きている事で得られるこの特権に、ヨシカはその喜びを言葉で、思考で表現する事が出来ず、ただただ涙を流してそれを表現する事でしか表せなかった。
ヨシカは気が付く。そして噛み締める。今この瞬間、自分は〝生きている〟のだと――。




