浮かぶ影
晴れた日の翌朝、甘い匂いに自分は起こされた。
母のお手製フレンチトーストだと直ぐに分かった。
この甘い匂いは今でもすごく覚えてる。なにせ中学生の朝食は大体がこれだったから。てんこ盛りの砂糖を使ったうちのフレンチトースト。この匂いを嗅ぐと実家にいた頃が懐かしく感じる。
「あ、みんなもう食べてんだ」
リビングへ行くと母と父、そして零亞はテーブルで先に朝食を摂っていた。
「もうって……あんた、今日は平日よ? 一週間バイト休み貰ってるあんたと一緒じゃあ無いんだからね」
朝のテレビのニュースを観ながら母はそう言った。
零亞は例のフレンチトーストをお行儀良く小さく一つずつにちぎって食べていて、父はもうスーツに着替え終わりコーヒーを飲んでいた。
朝支度を済ませてから椅子に腰掛け、テーブルに用意されていたフレンチトーストを自分も食べてる最中、父がテレビを観ながら話し掛けてきた。
「昨日の夜に言ってた電話の事だけど、やっぱりあれ大一が電話してくれ」
「え、結局自分が電話すんの……」
「昼から向こうに電話しようと思ったんだが会社の都合が悪いんだ。会議やら何やらで時間割いてる暇が無いってさっき気付いた。悪いが頼んだぞ」
別に問題は無いけど、自分の抱える零亞への責任がまた重くなった気がした。
そしてそんな会話を零亞は不思議そうに聞いていた。たぶんこの話が何の話だかサッパリなのだろう。
父と母は朝食を食べ終わると父は先に家を出て、早々と会社へ出掛けた。それにつられるようにして、後から母も近所のスーパーへ、パートの仕事として出掛ける。
自分はフレンチトーストを一気に食べて、送り迎えをするのに玄関へ向かう。フレンチトーストを食べきっては無いが、何故か自分に着いてくる零亞。
靴を履きながら、母は心配している様な口調で呟いた。
「零亞ちゃんと何処か行くならちゃんと鍵閉めて出ていってね大一。あんたはよく鍵閉めるの忘れるんだから」
玄関先で、そういって念を押す母。
「分かってるから!」とキッパリと言い返す自分。そんなこんなしている中で、零亞は自分の足にピタリとくっついて母に小さく手を振っていた。
「あら、可愛いわねー零亞ちゃん。バイバイありがとね」
そう言って母は家を後にした。
そして二人きりの時間になった。
自分は父と母と自分のお皿を片付け始め、零亞はまた食べかけのフレンチトーストを食べ始めた。
「よし、零亞がそれ食い終わったら、洗い物でもするか」
「うん!」
零亞と二人きりの時にだけ見れるこの笑顔。
どうして誰かと居るときには見せないんだろうと、いつも無駄にこういう事を考えてしまう。
台所のシンクで自分は朝食の時に使った皿を洗い、その洗った皿を零亞は拭き取る。
そんな作業をしている中、ふと自分は零亞に質問を投げ掛ける。
「零亞は、お母さんの事好き?」
零亞は昨日のパン屋で話した時の様にして黙りこんだ。
「あ、言い方悪かったかな。お母さんの事はどう思ってる?」
質問を変えても零亞はただ、下唇を引き込んだまま喋らない。
どうしてだろう。
何故、零亞は「お母さん」という言葉を聞くと黙りこむのか。
お母さんに早く会いたいと思っているけど、直ぐには会えないと分かっているから我慢している?
それとも、何かがきっかけで喧嘩して、お母さんと口をききたくないだけ?
なんだろう……分からない……
「近いうちに零亞がお家に帰れるようになると思うけど、お家に着い……」
「いやだよ……」
零亞は皿を拭く手を止めて、静かだがハッキリとそう言った。
「いやだ……零亞もう怖いのいやだよぉ……」
急に泣き声になる零亞。
零亞が言った「怖いの」という言葉も聞き捨てならなかった。
最後の皿を拭き終わると、自分はゆっくり腰を下ろして零亞の目線に入る。
「零亞、怖いって……?」
「……言っちゃだめなの」
「えっ……言っちゃだめ?」
「……」
ますます頭が混乱した。
不安そうな零亞の表情に、自分は何かトゲに刺された感じがした。痛くはないけど、グリグリ無理に押し込まれている様な感じだった。
「それって、誰かに言っちゃだめって言われたの?」
「怖いのは言っちゃだめ。言っちゃだめって言うのも、本当は言っちゃだめなの」
要するに、零亞は誰かに口止めされている感じだった。
「それってもしかして、お母さんに……?」
「……」
零亞は口こそ動かさずに黙っていたものの、小さくコクりと頷いた。




