四章
「今日も、畑の見回りよろしくな」
そう言い残し、ジョウンは男と共にサムの牧場へと出かけていった。いってらっしゃい、と手をふると、二人にさとられないようにそうっとドアを開けた。お父さんと男は足早に歩いていく。サーニャはいつもより歩幅を広くしてついていく。
東には少し昇った太陽が輝いている。今日もいい天気だ。
サーニャはポケットの中身をたしかめた。昨日男から盗んだ毒のビンが入っている。何も言わなかったということは、男はおそらく気づいていないのだろう。
昨日の夜、彼女はベッドの中である作戦を考えた。これが成功すれば、必ず狼たちを助けることができる。
息を殺しながら後をつける。背が低いサーニャにとって、山道には隠れる所がたくさんある。だが、二人は狼のことしか頭にないのか、背後を一度もふり返らない。男は猟師らしく警戒をしているように見えるが、とりあえず追い返される心配はなさそうだ。
突然、鋭い銃声が一帯に轟いた。森から鳥が逃げるように飛んでいく。三人の鳥肌が立った。牧場の方からのようだ。ジョウンと男が立ち止まったので、サーニャもあわててしゃがみこんで姿を隠す。
二人が全力で走り始めた。それはとても速く、とてもサーニャが追いつけるスピードではない。
彼女と二人の距離はどんどん広がっていった。
男とジョウンが牧場に着くと、昨日牛を置いた場所に人だかりができていた。急いで向かった。
「何があったんです?」男が息を弾ませて駆け寄りながら尋ねると、
「見てください。ボスの言いつけを守らなかった狼が、毒の回った牛の肉を食べたようです」
青年の肩をどくと、二人はのぞきこんだ。絶命した牛の横に、体がけいれんしている狼が倒れていた。舌をだしてよだれをたらし、苦しそうに息をしている。
男は銃を構えながら、一歩一歩探って狼に近づく。狼の目玉がこっちを向き、うなり声で威嚇した。だが、すぐに鳴きやんで不規則に呼吸をくり返す。
「誰か群れのボスを見ましたか?」
男が見渡すと、さっきの青年が手をあげた。
「最初に見つけたのはぼくです。窓から見てました。ひと際大きな体をしたやつがいたので、そいつがボスだと思います。おおかたその狼は、変なにおいのする牛に興味をひかれて、ボスの目を盗んで口にしたんでしょう」
そうか、と男が腕を組んで考える。そしてみんなに言い放った。
「みんなでこの狼を囲んでください。そして外側には、銃を持った人がつくように。どこからおそってきてもいいようにしてください。私はサムさんに報告してきます」
「サムさんは、もうすぐ起きて朝食をとられると思います」
青年がそう言うと、分かったと一言残して歩いていった。
場所は分かっている。裏口を入ってすぐがキッチンだ。
どうやら、誰もいないらしい。みんな狼に気をとられているのだろう。
サーニャはキッチンを忍び足で進んでいく。そして目当てのものを探し始めた。
「あった」
小声でそうつぶやくと、キッチンに並べられた朝食に目をつけた。その中の、一番立派な食器に入れられたスープがターゲットだ。
サーニャはポケットからビンをだし、すばやく中身を少量注いだ。入れすぎるとスープの色が変色するのではと考えたからだ。
スプーンでかき混ぜていると、何者かの足音がしてきた。コックが戻ってきたようだ。サーニャはいそいで裏口から外へ脱出する。彼女の顔は汗でびっしょりだ。
「おはようございます、サムさん。食事の用意はできております」
朝食が並べられたテーブルに、サムがついた。彼は辺りを見回す。「みんなの姿が見えんが、狼が捕まったのかね?」
「はい、サムさんも後でごらんになるとよいでしょう」
そうすると言って、サムはスプーンを手に取った。
「君がつくるスープは一流だからな。毎日が楽しみだよ」
「光栄でございます」ニコッと笑う。
口に入れた。「うん、さすが昔街一番の腕と言われていただけのことはある。特にこの――うぐっ!」
スプーンが床に落ちる。体がけいれんし始めた。けたたましく立ち上がる。
「サムさん!」
コックが手をさしのべる前に、彼は仰向けに倒れこんだ。意識はあるが、自由に手足が動かない状態だ。
「誰か! 誰か!」
家の中が騒がしくなった。どうやら毒入りスープを食したようだ。成功だ。経営者がいなくなってしまえば、牧場はなくなる。サーニャは無理に笑った。
窓から中をのぞきこんだ。コックが助けを呼んでいる。もう少ししたら中へ入ろう。そして正直に言うのだ。
背後から、草を踏む音がした。彼女はとっさにふり向く。目を丸くした。
たくましい体つきの狼だ。つややかな毛が風になびいている。そして何より、眼光が鋭かった。まっすぐにらむその目に、サーニャは意識を持っていかれそうになる。気が遠くなってきた。
「助けて……助けて……」
必死に声を絞りだす。だが、中のコックにまったく届いていない。失禁してしまいそうだ。「助けて……助けて……」
狼は耳を動かし、その声を聞いている。まるで何かを思い出すように。
一分ほどして、狼は視線をそらした。そして、サーニャに背を向け、森へと帰っていく。彼女はヘタヘタと座りこんだ。全身の震えが止まらない。
少しして男がやってきた。泣いているサーニャを見つけると、急いで家へかつぎこんだ。コックと共に騒ぎだす。
昼ごろ、サーニャはジョウンにこっぴどくしかられた。それぐらいにしてあげてください、とコックがジョウンを落ち着かせる。
「これで心おきなく、私たちはこの牧場を辞めることができるのですから」
「サムさんはどうするんだ?」ジョウンが尋ねる。
「その点はご心配なく。とりあえず、コックである私の責任ということにしておきます。私のことは大丈夫です。あの人だって、説得すればこの牧場の経営を断念してくれますよ」
それに、と男が付け加える。
「解毒剤を飲ませたので、街の病院で少しの間休んでいればじきに良くなります」
ごめんなさいとサーニャが泣きべそをかきながら頭を下げた。牧場のみんながほほ笑む。
「サーニャちゃん。ぼくらはきみに感謝しているんだ。これで豚も牛も鶏も死なずに済むんだから」
「狼の土地をこれ以上汚したくなかったんだ。きみはいいことをしたんだよ」
青年とコックがなぐさめる。
「それにしても、サーニャちゃんが本当に私の毒を使うとは思いませんでした」
お前さん気付いていたのかとジョウンが驚いた顔をする。
「ええ。むしろサーニャちゃんに間接的に仕向けたのは私ですから。彼女にも聞こえるように普通の声で狼の殺傷法を話し、今日の朝に後をつけてくるのも見逃しました。そもそも、お風呂に入る前にジャケットをリビングに脱いでいったのは、毒を彼女に握らせるためです」
いつの間にかサーニャは泣きやんで、男の話を聞いて口をポカーンと開けていた。
「な、なんでわたしを助けるようなことをしたの?」
彼女がおそるおそる聞く。
「それはね」としゃがんで、ソファに座っている彼女に目線を合わせた。「きみが楽しそうに唄っていたからさ」
男は頭をなでた。サーニャのほおが赤らんでいく。
そして立ち上がり、コックや青年と話し始めた。今回の報酬は受け取らないという。
狼にも解毒剤を飲ませてあげてください、と男は帰り支度をしながら言った。ジョウンの家に戻ってきたのだ。ビンの中身を小分けする。
「本当に報酬はいらないのか? 見栄張ってるんじゃないのか?」
いえいえ、と男は手をふる。
「私はいつも仕事で命を奪っています。たまには、救ってみるのもいい気分です。いいものをもらいました。報酬がなくなったことで、仕事の契約もなかったことになりましたね」
男がドアを開けて外に出る。これ持っていって、と彼女がサンドイッチをくれた。
「ねえ、また会える?」
男は少し目を見張ったが、静かに首をふった。
「きみは狼を守る者。でも、私は狼を殺す者。二度と会うことはないよ」
そう、と寂しそうな顔をする。
「達者でな。俺たちも、ここでまたがんばってみるよ」
ジョウンが手をさしのべると男と固い握手をした。
男は彼らの家に背を向けて、歩きだした。遠くなっていく背中に、サーニャが尋ねた。
「あなたの名前は何?」
男は答えなかった。
山道を下っていると、サーニャの唄声が聞こえてきた。ふふっと男は笑みを浮かべ、聴き惚れる。
原生林から、狼の唄が返ってきた。楽しそうだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます! これにて完結です。
私は生き物が好きで、動物や昆虫のお話に多く触れてきました。
いつかは自分も書いてみたい。そう思い続けてきました。ここに、私の願いがかなった次第です。
この作品をきっかけにして、狼やその他の動物のことも好きになってくれるとうれしいです。
では、次作にてまたお会いしましょう!