三章
サーニャは、ふてくされて唇をキュッと閉じていた。
ジョウンとサーニャ、そして猟師の男は一緒に昼食をとっていた。ジョウンと彼女は並んで座り、男は彼女の向かいだ。
料理はすべてサーニャがつくったものだ。肉汁滴るハンバーグと野菜をはさんだ、手のひら二つ分ほどの大きさのハンバーガーが一つずつ。テーブルのまん中には、トマトときゅうりとレタスのサラダが入ったボウルが置いてある。ジョウンが鼻唄を唄いながら紅茶を入れる。
「これだけはサーニャに任せられないんだ」
「ほう、何か訳が?」一口すすってから尋ねた。街で売っているインスタントより、はるかにいい味がでている。
「俺はお茶を入れるのが特技なんだよ。これでお母さんの目に止まったのさ」
な、とサーニャを見るが、男をにらみつけているのはさっきとまったく変わらない。
「まあ、いいじゃないか。せっかくの客だ。みんなで食べたほうがおいしいぞ」
「……いやだ。それに、食べ物が減っちゃう」
「そのためにサムさんから宿賃をもらったんだろうが」
再び口を閉じた。重たい空気が全員にのしかかっている。押しつぶされてしまいそうだ。
「よ、よし。食べてしまおうぜ。いただきます!」
ジョウンは大げさに、旨い旨いとハンバーガーをほおばる。サーニャはちびちびかじり、男は二つに割って片方を持ち、もう片手で紅茶を飲んでいる。男はこの雰囲気を気にしていないふうに見せている。表情は変わらない。
男はハンバーガーを一口食した。パンは街から仕入れたものだろう。だが、野菜や肉はまぎれもなくジョウンとサーニャとサムがつくったものだ。よい水と栄養で育った命であることが感じられる。少し目を丸くした。
サラダの味も確かめてみる。歯ごたえよく、特にトマトは口の中で一気に甘味が広がった。おいしい。
サーニャがピクッと反応した。どうやら、おいしいと口に出していたらしい。彼女は何も答えなかった。
あっという間に食事が進み、最後はボウルにトマトが一切れ残っているだけだった。男は手を伸ばす。
「うおっ!」
あわててひっこめた。サーニャが獣を殺すかのようにフォークで突き刺したのだ。そのまま口に運ぶ。彼女は勝ち誇ったような表情を浮かべた。猟の時よりも心臓の鼓動が速い。
「ごちそうさま!」
ジョウンの言葉で、サーニャも後片付けを始めた。男も手伝おうとするが、ジョウンに「客を働かせたらおしまいだ」と笑われた。
三十分くらいたって、ようやく雨がやんできた。空が明るい。
「ジョウンさん、今から私は一仕事してきます。よければ、あなたも一緒に手伝ってもらえませんか?」
磨いていた銃を置いて男が頼んだ。いいぜとジョウンは乗り気だ。
「サーニャ、これから俺たちは出かけてくるから、畑の見回りをしておいてくれ。獣がいるかもしれない」
「その前に、どうやって狼を殺すのかを聞かせて」
二人の男は驚いて見合う。
「どうして君はそんなことが気になるんだい?」
「決まってるわ。同じ方法であなたを殺すためよ」
ジョウンが彼女につかみかかった。
「おい、もう一度言ったら殴り飛ばすぞ」
「だって、狼は何もしてないわ。ただ一生懸命に生きてるだけ。悪いのは人間じゃないの」
「気持ちは分かるが、今はこの人に謝れ」
サーニャは不満そうだが、剣幕に押されてとりあえずうわべだけの謝罪をした。男は何も言わなかった。
家の中ではそれ以上会話はなく、すぐに二人は出かけた。彼女はすぐに鉈を取ってドアを開け、畑へ向かうふりをした。
「サムさんは大学の先輩でな――」山道を下りながらジョウンが話し始めた。「仕事を失って困っている俺と家族を拾ってくれて、山の土地をくれたんだ。これ以上の恩はないと思ってる」
「なるほど。それでサムさんの話になると下手に出るのですね」
「ああ、そうだ。しかも、サーニャをお手伝いとして週二~三日雇ってくれている。『私の皿を一番きれいに洗ってくれる』とほめてくれた」
ジョウンはすがすがしい顔をした。霧が晴れていて空気が澄んでいる。とても歩きやすい。
「もう一つ聞きたい事があるのですが、サーニャちゃんのお母さんはどうなさっているのですか? 家の間取りを見る限り、二人暮らしには少し大きい気がして……」
男は当初から疑問に思っていたことを口にした。
「そのことか。彼女は今大きな街で出稼ぎしているんだ。娘の将来のためにな。もしかして妙なことを想像してなかったか?」
「まあ、ちょっと……。でもお母さんが街に住んでいるのなら、そっちでみんなで暮らせばいいのでは? 生活は楽でしょう?」
「うーん。実はな、俺も最近そのことを考えていたのさ。買い物も楽で、その近くでも野菜をつくって売って食っていけるらしい。この前手紙が届いて説得されたよ」
でも、と男がつぶやくと、ジョウンはうなずいて、
「そう。サーニャはこの生活が大好きなんだ。夜になると、狼と一緒に唄うんだよ」
「狼と唄う……?」男は首をかしげた。
「今夜になれば分かるさ」
それだけ言うと、ジョウンは「ところでよ」と話題を変えた。
「どうやって狼を殺す気なんだ?」
男は防寒着の下のジャケットをまさぐると、小瓶を一つ取り出した。中に液体が入っている。
「これは植物から採取した毒です。神経を一時的にマヒさせる効果があります。これを混ぜた肉を用意し、狼が弱った所を狙います」
「なんか、残酷だな……」
「それが仕事ですから」
男は歩を速めた。背後から物音がしたが、すぐに風が吹いて、草のこすれる音でかき消されてしまった。
男はサムに頼みこみ、牛を一頭もらうことにした。最初サムは額にしわを寄せていたが、ワナをつくって狼をおびき寄せることはこれまで一度も行ったことがなかったので、すがる思いで了承した。
「牛が暴れないようにしてください」
ジョウンや牧場に勤める人たちにそう言うと、男は草原のまん中まで連れてきた牛に注射器で毒を体内に入れた。牛はブルルッと震え、足をバタつかせる。全員で動かないように押さえつけた。一分ほどすると、牛は足を折り曲げて座りこんでしまった。眠るように目を閉じる。
「毒が回っているんだな」
ジョウンに男はうなずいた。「これで様子をうかがいに狼がやって来るでしょう。一頭を殺すことができれば成功です。彼らは仲間をとても大事にしますから、怒り狂って牧場の人間をおそってくるに違いありません」
牧場の人間が不安そうに話しこんでいる。心配しないでください、となだめる。
「頭に血がのぼった動物をしとめるのは、そう難しくありません。銃を使ったことがある者ならおそらく大丈夫でしょう」
銃の使用経験は? と聞くと、三人ほど手をあげた。ジョウンと男を合わせると五人だ。
「サムさん、あなたなら銃はいくつか持っていますよね。彼らに配布してください」
「分かった」
明日の朝に、サムの家で待機することになった。少し遠くの茂みが不自然に揺れた気がした。
その夜は満月だった。原生林を明るく照らしている。
当然ながら、サーニャは男と一緒に食事をした。男とは違い、彼女はまずそうに口に放りこんでいた。
「ごちそうさま」
早々に食事を切りあげると、水を一杯飲み、ドアを開けて出て行った。
「こんな時間にどこへ――」男が後を追おうとするが、ジョウンに引き止められる。
「何です? もし狼が近くをうろついていたらどうするのですか」
「まあ、見てなって」
彼の言う通りに、男は窓からサーニャの後姿を見る。彼女はすぐそばの崖の手前に立っていた。その下は、見渡す限りの森林地帯だ。彼女は胸に手を当てると、すうっと息を吸いこんだ。
サーニャが唄を唄い始めた。その透き通った声は空気を柔らかく震わせ、静まりかえる大自然に優しく吸いこまれていく。
「美しい――」男は息をのんだ。
言葉が違うので外国の唄だろう。少々あどけなさが残る唄声だ。声量もたいして大きくない。だがきれいだ。心が洗われる。男の中にあるもやもやが晴れていく。
サーニャは途中で唄を止めた。すると、
「これは……」
遠くのふもとから狼の遠吠えが聞こえてきた。静かに外へ出る。
一匹だけではない。数匹がいっせいに吠えているのだと分かった。
サーニャが再び唄い出す。そのとたん、彼らがピタリと止んだ。一瞬見えた彼女の表情は、月よりも明るかった。
唄を切ると狼の声がしてきた。ただの吠え声ではない。抑揚がはっきりついている。彼女を真似しているかのように唄っていた。
「狼が……唄っている……」
男は聞き惚れていた。ジョウンが肩をたたく。
「サーニャはな、何かイヤなことがあった時や悲しい時にはこうやって狼と唄っているんだ。唄はお母さんが教えたものさ」
信じられないという顔の男に、「狼がサーニャの唄に応えてくれているんだ。誰にしつけられた訳でもない。自然にそうするようになったよ」
ジョウンが語りかけた。
気配に気づいたのか、彼女がふり向いた。そしてドアを開いて中へ入る。
「すばらしいよ。もっと聴かせてほしかった」
「……ありがとう」
少しあわてたような顔をし、イスに腰を下ろした。
男はジャケットを脱いで背もたれにかけた。
「そうだ。お前さん、一緒にお風呂はどうだ? 昔話でもしようや」
「いいですね。ぜひそうしましょう」
二人は奥へといなくなった。
サーニャは男が戻ってこないことを確かめると、すばやくジャケットをまさぐった。
畑の見回りをする前に、こっそり二人の話を聞いておいてよかった。彼女は毒の入った小瓶を取り出すと、すばやく自分のポケットに仕舞った。