一章
眼下に広がる原生林を見通しながら、少女は涙ぐんでいた。
いつもなら、満天の星空がどこまでも支配する。だが、見上げても今日は、一面のくもり空だ。天使のようなその輝きは、厚いカーテンに覆い隠されている。遠くから小さく雷鳴が聞こえ、空が一瞬明るくなった。雨が近い。
このような天気では、狼たちが応えてくれることはおそらくないだろう。少女は身震いした。
それに…………死んでしまえばそれは永遠にできなくなるのだ。目の前の景色の壮大さに、自分の小ささをひしひしと感じる。
家の戸が開き、「早く入れ。晩ご飯にするぞ」とお父さんが声をかける。だまって少女はふり返り、家へ入った。そしてお父さんは静かに戸を閉めた。
二人が食卓についたとたん、外から轟音が響いた。天の底が抜けたような大雨が、大地を叩きつける。
雨はすべてを浄化してはくれない。
近代的な街から数キロ離れた所に、広大な牧場がある。
栄養豊富な草原と、住居や小屋などの建物が、大昔から姿を変えない大森林に囲まれていた。
住居に続く道を歩いているのは、三十歳くらいの長身の男だ。毛皮でできた防寒着を着ていて、使いこまれた猟銃を背負っている。
豆粒のように小さい家を目指して、男は辺りを見回しながら進んでいた。道には木製の柵が敷かれ、その向こうは草原がとぎれることはない。
「あれは……」
男は首からかけている双眼鏡で遠くを見つめた。一頭の牛が倒れていて、腹が引き裂かれている。だいたい食べられてしまっているようだ。鳥や小動物が残りものを争っている。
先に行くと、家の近くに朝から若い男女が数人集まっているのが見える。早足で向かった。
「どうかしたのか?」
男が声をかけると、小屋の前にしゃがんでいた青年が立ち上がった。少しの間男の風貌をうかがっていたが、納得したようで言葉を返した。
「見てください。鶏が全滅です」
青年が指さした小屋をのぞきこむと、赤色に染まった羽が散乱していた。数十羽飼われていたのだろう。血の色が地面を塗り替えている。
「この被害はいつ頃から?」
「ぼくたちが牧場を始めてから、この季節はずっとこんな調子です。怖がって何人が辞めていったか……。もう数えるのが嫌になりました」
ふむ、と男は鶏小屋の柵にふれた。破られてはいないが、付近の地面が深く掘り返されている。人間でも這って行けば中へ入れるだろう。
「これをやったのは……」
男がふり向くと、青年は顔を引きつらせた。
「はい、狼です」
「ようこそ来てくれた。私はこの牧場を経営しているサムだ。ぜひあなたの力で救ってくれ」
応接間に通されると、小柄で丸々と太った中年男が待っていた。ソファへ座るように手招きしている。男は猟銃を下ろして足元に置き、言われたとおりに腰を下ろす。
「話は事前にうかがっていますし、先ほど表で青年からも聞きました。狼が犯人ですか?」
「そうだ。牧場の奥に広がる森に五、六匹の群れが住みついている。これまで牛や羊、鶏が数多くえじきとなってしまった」
男はコーヒーをすすりながら、サムの話に耳を傾けていた。狼にしては小さい群れだ。
「これまでハンターを雇って狼を駆除してきたのだが、数匹だけは絶対捕まえることができないのだ。まるで私たちの心が読めるがごとく動き回っている」
「それで私に依頼してきたと?」
「ああ。化け物熊を何頭も捕らえてきたと聞いてな。あなたなら何とかしてくれると考えたのだ」
男は、少し額にしわをよせた。森を縦横無尽に走る狼ほど、捕らえるのが難しい動物はない。
サムは男の様子を見て、あわてたように言った。
「もちろん、報酬ははずむぞ。あと、かわいい女の子と一緒に住める」
「女の子……ですか?」
「一キロ先の山の中腹に、女の子とその父親が二人で住んでいる。そこは狼の住みかに近いようだ。彼らの家に泊まりこんで狩ってもらいたい。すでに話はつけてある。そこも私の土地なのだ」
なるほど。それでは牧場主には逆らえないだろう。
「分かりました。困難を極めると思いますが、全力を尽くします」
「おお! 助かる。せっかく始めたこの事業をつぶしたくない。よろしく頼むよ」
サムは男の手を両手で強く握った。男は無表情で握り返した。