Round 9
「そぅ。それだけ。だから、仕事は辞めるの。たぶん、会うのもこれが最後になると思うわ」
「そうですか。それは……」
沼崎がふと、目をそらした。腕を組み、何かを思案するように一点を見つめ考えている。
何よ、今更?
多恵はつねってやりたい気持ちを抑えながら、じっと次の言葉を待った。沼崎はいつだって、何を考えているか良く分からない。否、きっとつきつめれば、答えはいつだって一つしかない。
―― 沼崎航
その存在以外、彼を動かせるものは何もない。白石を追い続ける執念も、警察となり法からはみ出た人間を駆逐する行為も、突き詰めれば最後には必ず、ずっと昔にこの世を去った天才ボクサーの兄に突きあたるはずだ。
他人には理解できない絆が、彼をずっと縛り続ける呪縛となっている。
その呪縛は恐ろしく強固なもので、きっと、その男のためになら、彼は地位も名誉も金も、自分の未来だって簡単に差し出すに違いない。彼の一番心の奥に、その存在がある限り、誰も、本当の意味で彼の隣りにいることなんかできないのだ。
一方で、もしかしたら、兄の仇の白石譲を倒せば、その呪縛から解放される日がいつか来るのかもしれないという希望がないわけでもない。むしろ、その可能性は大いにあるだろう。そして、それは遠からずやってくる予感もある。
でも……。
沼崎と目が合う。
小さく息をのみ、まだ、希望を失っていなかった遠い日の彼の目を思い出す。一瞬、再び心を揺らそうとする熱が、頬をかすめた。
胸をつく苦しみに耐える。今なら間に合う。壁の向こうには行けなくとも、誰より傍にいられるのなら、まだそうしても良いんじゃないか? 弱い心がそそのかそうとする。
灰色の海が少しずつ朽ちたコンクリートを浸食するように、さまざまな想いが、固めた決心を崩そうとしていた。
が、多恵は小さく首を横に振ってそれをやり過ごした。波音だけが残響のようにこだまする。
私が彼にできるのは、傍にいる事じゃない。待つのにも疲れちゃったのよ。それにね、私、私にしかできない事を見つけたのよ、教えてなんかあげないけど。
顔をぐっとあげる。決心を責めるような冷たい風が髪をかき乱す。そっと手で押さえると、グローブ越しにも冷え切った感触が伝わってきた。
胸を捩じ切りそうな痛みが走る。
それでも多恵は精いっぱい、自分が作りうる一番美しい笑顔を沼崎に向けてみせた。叱咤するように震える唇を一度ぐっと噛む。痛みが揺らぎをむりやり抑え込んだ。
そして、多恵はようやくようやく、今まで形にする事ができなかった言葉を、口にした。
「……さようなら。透也くん」
放たれた別れを、沼崎は目をそらすことなく受け止めている。依然として、その表情からは一ミリの感情もうかがえない。が、多恵はもう、それでも構わないと思っていた。これが、自分がずっと追い続けてきた男なのだ。
「でも、これだけは覚えておいて」
多恵は背を向けヘルメットを手に取ると再び振り返り、まっすぐ沼崎の目を見たつめかえした。きっと、この先、もう、二度と見る事が叶わなくなるだろう、その瞳の色を、自分の一番深い場所に刻み込むために。
そして、ほんの僅かでもいい、彼の心の端のどこかにこの言葉が刻まれる様に願いをこめ、目を細めると海風に千切れゆくハマユリのように微笑んだ。
「世界中のだれよりも、あなたの一番のファンは私だから」
沼崎の眉がわずかに顰められる。どうやら意味が理解できていないらしい。
知らなくていいよ、と多恵は、ここに来てようやく戸惑いをみせた過去の恋に笑いかけた。
彼は何も知る必要はない。ただ、まっすぐに自分の道を生きればいいのだ。自分はそのためなら……いや、そのためにこそ別れを決めたのだから。
携帯のイヤホンを耳にはめる。ヘルメットを被り。バイクにまたがった。
「ごめん。さすがに一緒に帰る気分にはなれないから」
「かまいませんよ」
涼しい顔してくれるじゃない。
多恵は目を細めるとメットのシールドを下げる。エンジンを掛け、クラッチを切った。細かな振動が心地よく体を揺さぶる。
「じゃ」
「じゃ」
まるで、いつもと同じような別れ。でも、きっとこれが永遠の別れ。
多恵はアクセルを開けるとクラッチを離した。体が軽くなり、徐々に心も体も風に溶けて行くのを感じる。
遠くなって行く。ずっと諦められなかった場所が少しずつ、少しずつ……。
その時、携帯の着信を告げる振動を感じた。多恵は再びこみ上げてきそうになる涙をのみこむと、イヤホンマイクで対応する。
「返事は、もう決めたかな?」
男の声がした。沼崎と違って、いつだって最高のタイミングで現れる声だ。多恵は振り返りそうになる自分の心を振り切るように速度をさらに上げ、いつもの強気な自分になって電話の声にこたえた。
「ええ。あなたの女になってもいいわ」
誓いというより、契約をするような気持だった。実際、自分にとってはそうなるだろう。多恵は喜びの声をあげる相手の男に、念を押すように言葉をつないだ。
「その代わり、必ずあの条件は飲んでちょうだい」
「この間の問題児の事かね?」
「そうよ」
冷たくてわがままな、あの問題児よ。電話の男は多恵を酔狂な女だと低い声で笑った。男はきっと、沼崎が一番嫌うタイプの人間だ。権力や金で、人の身も心も人生ですら操り、意のままにしようとする、そんな男だ。でも、先の白石を襲撃した事件でもそうだったように、きっとこれからも、沼崎ががボクシングを続けようと、警察としての彼を守ってくれる存在になる男だろう。
男は快諾し、すぐに自分の元へ来るように命じ通話を切った。多恵は言われるままにハンドルを繰る。
もう、振り返る事の出来ない場所まで来てしまった事を、多恵は自分の胸に刻み込み、祈るような気持ちで小さく呟いた。
「世界中のだれよりも、あなたの一番のファンは私なんだからね……」
その声は深紅の疾風にかき消され、誰の元にも届かない。
静かに、季節の終わりを告げる秋雨が暗褐色の海に降り始めた。




