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Round 8

 女の操るバイクは迷いなく街を走り抜けると、東京湾に臨む防波堤でようやく停まった。廃倉庫の建ち並ぶその場所からは遠くお台場が見えたが、潮の香りはどこか油臭く、見える色も朽ちた鉄と寒々としたむき出しのコンクリートのそれくらいで、男女が隠れて会うには少々荒んだ場所だった。

 沼崎はバイクを降り、ヘルメットを脱ぐ。続いてバイクから軽やかに降りた女の後姿を見つめた。彼女の意図がいまいちまだ測れない。

 ヘルメットが外され女の長い髪が揺れる。黒髪が海風にさらわれ一端広がり、すぐに鳥が翼を畳むように彼女の背に収まった。そういえば、出会った時はまだ髪が短かったなと考えていると、女はヘルメットをバイクに置いてようやく振り返る。


「ごめんなさいね。強引なことしちゃって」


「らしいと言えばらしい。らしくないと言えば、らしくない……ですね」


 沼崎はからかい半分で長い付き合いになる女……能美多恵を一瞥した。

 多恵は元スポーツ誌の記者で、アマボクを始めた彼の才能に真っ先に目をつけ、支援した一人だ。死神の鎌サイズオブデスの名付け親でもあり、沼崎の大学時代から唯一縁が続いている女性であった。

 沼崎が入庁後、あとを追うように出版社を退職し、フリーになった。今は沼崎とは様々な情報を交換し合う、いわばビジネスパートナーのような関係で、白石譲の情報もほとんどが彼女の調べあげたものだ。



「だって、最近はなかなか連絡しても返してくれないじゃない? こうでもしないと、話もできないと思って」


 ぷっくりとした艶やかな唇が甘い恨み事を零す。ブーツがコンクリートをはじき、一歩距離を縮める。互いの体温を感じそうなほどの場所で、多恵は体を寄せるように沼崎の胸にその手を添わせると、大きな瞳で彼を見上げた。


「どうしても、会って、伝えたいことがあったの」


「なんでしょう?」


 突き放す物言いに、普段は大物ヤクザを前にしても怯まない女記者の瞳が揺れる。

 どんなに近づいても決して踏み入る事のできない距離が、この男にはある事を、多恵は痛いくらいに知っていた。どれだけ傍にいても、どれほど身や心を砕いても、非情なまでに、誰も立ち入らせない。まるで人の侵入を頑なに拒む氷壁のようなものが、沼崎の心の奥底に聳えているのだ。


 それでも初めの数年は、時間をかければ壁はいつか氷解しその領域に入れるんじゃないかという自信があった。それは自分が彼にとっての特別な存在になったという証になるだろうし、またそうなれるのは自分しかいないだろうという自負もあった。

 でも、彼を見つめ続けて七年以上、出会った時から距離は一向に変わらず、壁は一握りも解ける気配はない。


 きっと、歩美ちゃんも、この壁を恨んだんでしょうね。

 大学時代の沼崎に想いを寄せていた、ボクシング部のマネージャーを思い出す。まだ多恵が沼崎を男として意識するどころか、弟のように感じていた頃の話だ。

 一途に彼を追いかけていた可愛らしい女の子がいた。当時はその姿に、「若いなぁ」とか「ほほえましいなぁ」などの感想しか持てなかった。むしろ「こんな朴念仁のどこがいいのだろう?」とすら呆れている節もあったくらいだ。

 なのに、気がつけば今は自分が似たような立場に立っている。振り返って思えば、あの小柄なマネージャーは、よくあの年でこんな恋愛に耐えられたものだ。辛かったろうな……と同情、いや共感する。


 こんな私たちの気持ち、少しでも感じてる?

 多恵はなんの感情も読み取らせない、灰色の瞳に悲しい笑みを向けた。


「最後に会ったのは、病院でだったわよね」


「あそこではさすがに逃げられませんからね」


 唇だけがわずかに動くような話し方。少しでもその表情を崩したくて、からかってしまう。


「あら、私を避けてたの?」


「さて、どうでしたかね?」


 気持ちを試す言葉も、うそぶく態度でかわされる。こんなやり取り、今まで何度繰り返してきたのだろう? 

 苦笑いがため息に混じる。


「で、話はなんですか?」


 沼崎の事務的な声はそのため息すらも聞こうとはしない。多恵は軋む胸で、自分の想いは少しも彼の心を揺さぶれないことを痛感させられる。

 知ってる。そんなの、ずっと前から分かってる。だから、決めたはずじゃない。何、未練たらしいことしてるのよ。多恵はその唇に自嘲の笑みを浮かべると、添えていた掌を押し付けるように体をそっと離した。


「私ね……幸せになる事に決めたの」


 じっと、まだすぐそばにある瞳を覗きこむ。取り乱せとまでは言わない、でも、少しくらいの驚きは、見せてくれるのではないかと、期待していた。知らぬ中ではない。子どものような付き合いでもない。恋人という優しい関係はついぞ持つ事はなかったが、それでも浅からぬ仲ではあるはずだった。

 肌を重ねるたびに、むしろ寂しさは増すばかりだったが、それでも、彼の中に僅かなりとも自分の熱が伝わるものと信じて……いや、願い続けてきた。

 だから少しでいい。少しでいいから……何か……。


「話は、それだけですか?」


 多恵の心の中で、何かが小さくひび割れた音がした。

 フリーの記者になってからというもの、危険を承知で色んな現場に飛び込んできた。命や身の危機にさらされたことなど数知れない。それは、もちろん自身の名をあげるためでもあったが、一方で彼のパートナーとしての確固たる地位を、いや、彼の傍に自分の居場所を築き上げたかったからだ。

 彼もそんな自分の気持ちを知らないはずはない。いや、きっと重苦しく感じるほど、分かっているはずだ。なのに……。

 今も目の前の壁は少しも薄くなる気配はしなかった。

 どんな場面でも、恐怖を押しこめてきた、また押し込めることのできていた多恵の心が、防波堤に寄せる波のように音を立てて砕け散る。


 風が吹く。

 鉛色の海を覆うのは、どんよりとした冷たい秋雨を含んだ灰色の雲だ。

 ぐっと、拳を握りしめる。頬が痙攣し、あふれ出そうになる涙をせき止める。

 泣くな。最後まで、泣くな。自分に言い聞かせ、多恵は目を閉じると、震える瞼をいさめるように唇をきつく噛んだ。

 それでも、慰める優しい声も、抱きしめてくれる温かい腕もここにはない。


 ……いっそ、清々しいじゃないの。


 多恵は微笑すると、ようやく今、やっと、腹を決める事ができた事を悟る。

 私の居場所は、ここじゃなかった。そういう事、それだけの事、なのよね。でも、ねぇ。

 目を開けると、沼崎は変わらぬ様子で、自分の前に立っていた。受け入れることも拒絶する事もなく、何も変わらず、ずっと……。

 私の、負けね。

 多恵は微笑むと、髪をかきあげた。火照った頬に、生まれたての海風が優しく撫でて行く。

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