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Round 6

 沼崎は兄と同じその名前に、無意識に息をのみ、相田の顔を凝視していた。相田が「あ、前」と指摘するので慌てて運転に意識を戻す。

 初めて見た後輩の戸惑いに、相田はやっぱり言うべきじゃなかったかと思いながらも、見えてきた息子を預かってくれている職場の灯りを見つめた。

 車は大通りから一筋、一方通行の狭い路地へと入っていく。車一台が通ればあとは人一人がやっと、という道の左右に、自転車や植木なのがせり出しているせいで、余計に狭く感じる。電線が低い場所で頭上を覆っていて、ベランダには平気で下着が干してある。下町特有の生活臭い場所だ。器用にそんな路地を危なげなく進む運転に感心しながら、相田はひとり言のように零した。


「嫁さんが君のお兄さんのファンでね」


 だから、事件の事も、アマ時代の沼崎の事も知っていた。まさか、その彼が数年たってプロを目指して自分のいるジムに来るとは思わなかったが、驚き以上に嬉しかった。

 あれはファンにとっても悲しく、辛い事件だったから……。


「気を、悪くしたかな?」


「いえ。嬉しいですよ」


 そういう沼崎の表情からは何も読み取れない。相田は兄の影を追い続ける弟のその横顔に、フォローするような気持ちで続けた。


「でも、やっぱり、兄弟だね。君たち、良く似てると思うよ」


 車が古びた印刷工場の前に止まる。

 二階建てのその建物には、社長夫婦しかもういないはずだった。小さいながらも、この不景気にあって何とか立ち行けているのは、こうやって自分のような人間の事情やわがままをくみ上げてくれる、彼らの人徳ゆえだろうと、相田は感謝と尊敬をこめて思っていた。

 ドアのロックが外される。

 沼崎は視線で相田を促してから「ここで待ってます」と付け加えた。

 相田は申し訳ない気分を噛みしめながらも「すぐに戻ってくるから」とドアを工場のシャッターに当ててしまわないように気をつけながら外へ出る。

 印刷工場の二階部分。社長の自宅スペースに灯る灯りを見上げる。いつも、ボクシングで遅くなる時は、息子を預かって貰っている。でも、こんな風に面倒を掛けるのも、きっとこれで最後だ……。

 相田は小さく息をつくと、駆け足で建物のわきに取り付けられた、鉄錆た階段を駆け上がった。


「良く似てる……か」


 相田が建物の中に消えて行くと、沼崎は少し座席を後方に倒して、ぼんやりと天井を見つめた。

 亡くなった兄の名をつけた事で、俺が気を悪くするとでも思ったのだろうか? 

 相田の見当違いの気づかいに、小さく苦笑する。

 あの兄と、こんな自分が全く似ていない事くらい、良く知っていた。生まれや人格においても、外見やカリスマ性においても、ボクシングの才能ですらきっと、兄は自分よりずっとずっと勝っていただろう。

 比較の対象にならないくらい優れていた兄に対して、憧れや誇りは持ちこそすれ、嫉妬や僻み、ましてや彼に追い付きたいなどという願望すらわかなかった。

 ただ、兄に認められたかった。兄に喜ばれたかった。自分が奇妙な因果で彼の弟になったという事に、後悔してほしくなかった。


―― 最強の兄弟になろうな


 今思えば、それは兄なりの必死な絆作りだったのかもしれない。一滴の血も分けない、出来の悪い弟と、何かで繋がろうと捻りだした苦肉の策だったようにも思える。

 だとしても、繋がろうとしてくれたのに変わりはない。

 小さく息を吐く。静寂にかすかな耳鳴りがする。

 兄さん。俺はアンタの思うような弟になれてるか?

 心の中で、永遠に答えの返らない問いを呟き、即座に自分で否定した。

 なれているはずがない。きっと、今の俺を見ても、兄さんは落胆するだけだろう。プロになり、ヤクザや街のチンピラどもを血祭りにあげるような事は止めたとはいえ、とうてい、あの兄さんにふさわしい人間になれているような気はしないし、この汚れた手では今後何があってもなれやしないだろう。

 けどさ……兄さん。

 自分の左手をかざしてみる。

 何人の人間を葬ってきたか知れない、血に汚れた手だ。

 でも、もう、その手は何もできなかった頃の自分のものとは違う。今なら、今なら、少なくとも、兄さんが死ななければならなかった意味を、兄さんのボクシングが強かったという証明を、掴めるはずなんだ。


「白石……」


 早く、早く、この手でぶちのめしたい。

 一日でも、一秒でも早く……兄の無念を晴らすのだ。


「沼崎君」


 ガラス窓が叩かれる音がして、身を起こした。

 ウィンドウを下げる。見ると、相田が十歳くらいの少年の手を引いて立っていた。

 相田には似ていない顔立ちだ。相田の背中に隠れていて良くは見えないが、大きな瞳はなかなかに利発そうだし、四角い相田の輪郭とは違い、顎が細い。手足もひょろっとしていて、棒きれのようで、髪も少し長いから、息子と聞いていなければ性別の判別が難しそうな容貌をしている。


「はじめまして」


 警戒の色を隠そうともしない相田の息子に微笑みかける。相田は息子の航の背を押し「ほらっ挨拶!」と父親らしい顔を見せていた。

 それでも、航は父親にしがみつき、一向に出てこようとはしない。仕方ないので沼崎は自ら車を降り、しゃがんで目線を合わせた。


「私はお父さんのボクシングの後輩の沼崎と言います。よろしく」


 手を出して見せる。航はその手をじっと見つめてから、不安げに相田の顔を見上げた。相田は息子の緊張をほぐすように優しい声で説明する。


「ほら、さっき説明しただろ? このお兄さんはボクサーで刑事さんなんだよ。お前、大きくなったらおまわりさんになりたいって、言ってたじゃないか。今日はこの人に送ってもらうんだ。ちゃんと挨拶しなさい」


「でも……」


「大丈夫だから」


 ついに航はぐいっと相田に押され、強引に沼崎の前に押し出されてしまった。隠れ場所を失った少年は、困ったように眉を寄せ、両手を後ろで組んでうつむいている。


「すまないね。こいつ、凄く人見知りだから」


「かまいませんよ」


 沼崎は小さく微笑むと立ち上がりながら航の頭を撫でた。


「できるなら、とっくにやってるよな」


「え?」


 航の顔が跳ね上がる。しかし、沼崎はその視線とは交差せず、背を向けると相田に後部席に二人で乗るようにと口にしていた。

 沼崎は自分を見つめる航の目には気づいていないわけではなかった。でも、だからと言って、ここで無理やり手を取っても意味のない事なのは、良く知っていた。

 なぜなら、自分も昔はあんな風に人見知りだったからだ。だから、思うように人の目を見られないもどかしさも、言葉を出せない悔しさも、一歩踏み出す勇気の持てない情けなさも、痛いくらい分かってしまう。

 バックミラーに父子が据わったのを確認した。ナビを触りながら相田に自宅の住所を尋ねる。

 相田は息子の態度を申し訳ないと何度も詫びた後で、ここから車で十五分ほどの住所を口にした。軽快な電子音が静かな車内に響く。その間も、航は沼崎からわざと目をそらすように、外の変わり映えのない景色を見つめていた。

 入力を終え、エンジンキーに手を伸ばす。

 発進のエンジン音と、それはほぼ同時だった。

 盛大な腹の音が、後部座席から聞こえたのだ。沼崎はきょとんとし、思わず振り返る。腹を押さえた航の姿があった。


「もうっ。だからあれほど社長の家でお世話になっとけって言ったのに」


 相田が顔を赤くして航を小突く。しかし、航は唇を尖らせうつむき何も答えようとはしない。唇をきゅっと結び、目のふちを赤くして眉を顰めている。そこに、本人よりも雄弁な腹の音がもう一つなった。

 沼崎は泣き出しそうな真っ赤な顔でうつむく航少年を、バックミラー越しに観察した。しばし間をおいた後に、そっと質問を差し出す。


「相田さんも夕飯まだなんですよね?」


「え? ま、まぁ、でも……」


 相田は無意識に自分の財布をポケットの上で抑え、弱った顔をする。そんな顔されたら、もう、見捨てる事が出来ないじゃないか。沼崎は苦笑を飲み込むと、ナビのスイッチを切った。


「御馳走しますよ。ただし外食はしない主義なので、俺なんかの手料理になりますが」


「でも」


「困っている市民を助けるのは警察の仕事です。あぁ、でも一つ……」


 振り返る。まだ心を開こうとしない少年のドアを、無理やりノックしようとは思わない。でも、でも……。


「俺は刑事ではありません。警部です」


 航に微笑んで普段はあまりしない敬礼をして見せた。航はきょとんと自分を見つめ返していた。

 遠い遠い昔、泣きながら帰った自分が兄に迎えに来られた時、こんな顔をしていたのだろうか。沼崎はずっと忘れていた小さな痛みを、久しぶりに胸に感じたのだった。

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