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Round 5

 二人で階段を下りて行く。エレベーターを使う方法もあったが、トレーニングの足しにでもなれば、と沼崎は普段から特別急ぎでない限り階段を使うようにしている。つい、癖で階段を選んだが、相田は文句ひとつ言わずについてきていた。

 沼崎はリズムよく階段を靴底ではじきながら、相田に


「さっきはありがとうございます。助かりました」


 そう声をかけた。顔は見えないが、なんとなく照れ笑いを浮かべている相田の様子が想像でき、その通りの声色で返事が戻ってくる。


「いや……お礼を言うのはこっちだよ」


「実際、あの非常識な誘いを一蹴してくださったときは胸がすきましたよ」


 本音だ。出口ホールが見える。フィットネスの会員が数人、ロビーの受付でたむろしているのを横目に、受付にまっすぐ向かい、隣り合って会員証を返却してもらった。

 並ぶと、身長差がかなりあるのが分かった。フェザーのわりに高い自分と、きっと160センチもないだろう相田は、同じ国籍を思わせない落差がある。たぶん、これならライトフライかフライ、もしかしたらミニマム級あたりかもしれない。

 言葉少なに清潔感のある空間を後にする。自動ドアが開くと、クーラーの心地よい空気が一瞬で外の熱気に浸食された。

 では、ここで……と挨拶を交わし、さっきの現場からさほど遠くないコインパーキングに止めてある自分の車へ戻ろうとした時だった。

 相田の姿がない。当然ついてきているものと思っていた沼崎はわずかに眉を寄せ、振り返る。相田はロビーの中ほどでまだ突っ立っていた。

 何、やってんだ?

 ほうっておくこともできたが、なんとなく、視線を止めてしまった。相田はその視線に気がつくと、気まずそうに顔をあげ、何かをそそくさと鞄にしまいこむ。良くは見えないが、財布らしい。会員証に不備でもあったのか? 詮索を廻らせ、小走りでようやく追いつく相田を見やる。


「あ、あの。気にしないでください。お疲れさま」


 そういう相田の様子があからさまにおかしい。堅い笑みは何が困っている事を言葉よりも雄弁に語っていた。

 職業柄の癖がまた、出る。

 しかし今度は、所謂『おまわりさん』としての癖だ。


「どうか、なさったんですか?」


「あ……えと」


 嘘も隠し事も苦手らしい。相田は眉をさらに下げ、情けない顔になって自身の鞄を抱え直し、沼崎を見上げた。


「実は……」


――


「ごめん。でも、助かったよ。明日になったら日当がもらえるはずなんだけど……。いや、まさか電車代もないなんて自分でも思っていなくてさ。あんな後だから、山中達にお金を借りることなんかできなかったし」


「気にしないでください、通り道ですから」


「本当、すまないね」


 気恥ずかしさを誤魔化すためなのか、必要以上に多弁な相田はそういうと、助手席の座り心地を確かめるように座りなおし、両手でぼろぼろの年季の入ったスポーツバッグを抱えた。

 夜中の都心を軽やかに走り抜けていく国産の黒い高級車は、相田にとって落ちつかない空間のようだ。さっきからソワソワしてまるでくつろぐ様子がない。

 車に初めて乗せる女でもそんな緊張はしないのに。

 沼崎は苦笑しながら、ハンドルを切る。助手席に人を乗せるのは久しぶりだな、とも思い至り、いつもなら自分の空間に簡単に人を入れたりしない自分の懐に、いとも簡単に入ってきてしまった相田の不思議な人格を愉快に思った。

 おのぼりさんよろしく、鞄にしがみつくように腕に力を入れ、流れて行く景色を見つめる相田をちらと見る。

 その視線に、相田は照れくさそうに顔を歪め、訊きもしないのにまた弁解を始めた。音楽一つかかっていない沈黙をほぐそうとしているのかもしれない。


「お金と良い、さっきの事と良い、格好悪いところを見せちゃったね」


「そんなこと」


「いや、ホントのところ、山中君の言う事は正しいよ。俺なんか本当は御堂のジムにいる資格なんかないんだ」


 相田は弱々しい口調でそういうと、視線を外の華やかなネオン街から、自分の足元へ落した。思わず、今日初めて会話をする後輩の靴と、自分のそれを比べてしまう。見た目にも高そうな革靴と、何年もつくろいながらだましだまし履き続けているスニーカーは、そのまま自分たちの全てを表しているように思えた。そっと鞄で足元を隠す。


「どういう?」


 とぼけているのか、本当に知らないのか、高級車を自在に操る後輩はさほど表情を変えぬまま、ハンドルを切る。

 相田はこの後輩の事を、彼がジムに入ってきた時から、いや、実はアマチュアをやっていた時代から少し知っていた。一度はこうやって話をしてみたい気持ちもあったが、彼の入会時のエピソードよろしく、普段からの人を寄せつかない雰囲気と、時間帯が合わないのとで声を掛けそびれているうち、彼の方が瞬く間にプロの階段を駆け上っていくものだから、ついぞ今まで接点を持てずにいたのだ。

 正直、今日の件だって、沼崎が自分を逃がした上に家まで送ってくれるなんて思いもしなかった。

 無意識に、若く才能にあふれた後輩を眩しく見つめ、質問を忘れて本音を零してしまう。


「沼崎君は俺なんかと住む世界が違うなぁ」


 わずかに沼崎の表情が硬くなった、気がした。目の前の信号が赤になり、振動なく車が止まる。人の顔色を見て生きてきた相田は内心ひやりとしながら、まずい事でもいったか? と身構える。しかし、沼崎は先ほどとは口調を変えずに、さっき自分が指定した住所に案内するナビに目を落とした。


「……そんなことないですよ。ところで、こちらはご自宅ですか?」


 ジムからは電車で三駅先にある場所だった。相田は再びうつむき、首を横に振る。


「仕事場、なんだ」


「忘れ物ですか?」


「いや……息子を、預かってもらってるんだ」


 沼崎は意外な答えに、思わず相田の顔を見つめてしまった。今の答え一つで、様々な疑問が湧き出してくる。

 結婚していたのか? こんな時間に息子を預けているという事は、妻はどうしているか? どうして夜間保育所ではなく、職場に? 

 しかし、どの質問を取っても、初対面の人間が立ち入っていいものとは思えなかった。人にはそれぞれ事情があって当然だ。こと、この街は、どんな家族の形や生活の在り方も肯定できる、奇妙な懐の深さがある。だから、特に驚く事も聞きとがめるようなこともする物じゃないのだろうが……。


 沈黙が降りる。

 信号の色が変わり、車が再び走り出す。

 気まずさが車内に音もなく立ち込め始めた。

 人の良さそうな相田の表情がずぶずぶと沈んでいく。妙なホローをするのも、これ以上立ち入るのも変だが、なんとなくさっき会話が途切れたせいで、ボクシングの話題を選ぶのもはばかられた。


 今、目指しているのが職場だとしたら、自宅まではもう少し時間がかかるだろう。この空気のままでも自分は構わないが、相田には耐えられそうには思えない。

 ふと、もしここに三井がいたら「先輩も人に気を使う事があるんですね」なんて軽口をたたかれかねないな、と思いながらとりあえず再び『おまわりさん』の仮面をかぶる事にする。


「名前」


「え?」


 ぼそり、呟いた単語を拾い、相田が何かにすがりつくように顔をあげる。


「息子さんの名前はなんていうんです?」


 無難な質問に思えた。しかし、思いのほか、相田の表情が硬くなり、そこに苦々しさが浮かんでしまう。

 なんだ? これもするべき質問じゃなかったのか? 

 三井の「ほら、先輩って普段から優しくないから、こういう時に気の利いた言葉が出ないんすよ」という生意気な声が聞こえる気がした。 


「それが、その……」


 相田は言い淀み、なぜか自分に申し訳なさそうな顔をする。その曖昧な態度が苛立たしい。反応のしようがなく、沼崎は言葉を待つふりをして唇を結んだ。

 なんだ? そんなに言い淀むほどの息子の名前って、なんなんだ? 

 沈黙しながら思考を廻らせるが、まったく思い浮かばない。息子の名前を隠す理由なんて、そんなに多くはないはずだが……。

 ようやく重い相田の口が開いたのは、信号を数個通り過ぎ、ナビが目的地付近だと告げた時になってからだった。

 相田は沼崎の表情をうかがうように、小さな声でその名を口にした。 


「航って……いうんだ」

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