Round 4
それは夏に取り残された弱々しい蚊のような声で、沼崎は思わず拳を解いてしまう。
体を傾け、声をした方に視線を泳がせる。ロッカールームの一番端。照明も満足に届かないような場所に、誰かがいた。
「あぁん?」
山中がこれ以上はないというくらい顔をゆがめ、声の方に首をのばす。
「なぁんだ。相田さん。いたんすか」
あからさまに侮蔑の響きが込められていた。取り巻きたちの様子も、沼崎に対峙するより心なしか肩の力を抜いた様子でほくそ笑みあっている。まるで気の弱い教師をおちょくる高校生のような反応に、沼崎は辟易としながらも聞き覚えのない名前に首を捻った。
「あぁ。沼っちはいつも遅いから知らないか。相田さん。御堂ジム一号のプロボクサーさんだよ」
一号? 山中のにやけ面から発せられる言葉には、どこか嘲りと棘があった。沼崎は、おずおずと薄暗い部屋の隅からこちらに向かってやってきた、小柄の男の様子を観察する。
「あの……試合前の選手を飲みに誘うっていうのは……やめ、やめたほうが……」
分厚い体躯に、首の短い四角い顔が乗っている。八の字に下がった眉は太く、その下の小さな目に今は不安と怯えで落ち着きがなかった。短く刈りあげた髪は残バラで、来ているポロシャツも随分と襟元がよれ色褪せている。
山中にボクサーと言われなければ、その拳と曲がった鼻以外それらしき要素の見当たらない人物だ。
なにより、老けていた。
髪に交じった白髪や全体の印象から察するに、どれだけ若くみても三十後半にしか見えない。日本において、プロボクサーのライセンスは、チャンプなどの特別な選手以外は、三十七歳になると自動的に失効する決まりになっている。だから、きっと目の前の男も、それより若いという事にはなるのだろうが……。
「なんだよ。相田さん。誘ってほしいなら、素直にそう言ったらいいじゃないっすかぁ」
山中が絡みつくような態度で相田に歩み寄った。相田は短い首をさらに縮こませ、首を左右に振る。
「い、いや。違うんだ」
典型的な『喰われる』タイプの人間だな。
仕事上、ヤクザがらみの案件を扱う事が少なくない沼崎の中で、人間を『喰う』者か『喰われる』者の二つのタイプに分けるる癖が付いていた。つまりは、人につけ入るタイプか、つけ入れられるタイプか、という分類だ。
これは状況などで変化する分類ではあったが、ヒエラルキーを正確に把握するには実に簡単で有効的な判別の方法だった。これを重ねると、その人間の弱点が見えたり、一方で複雑な人間関係の整理に役立ったりもする。
今の状況では、山中が『喰う』タイプで相田が『喰われる』タイプに当てはまる。そして『喰う』タイプは獲物を見つけると、本能的にそうしろとDNAにでも命令されているかの如く、必ずある行動を取ろうとするのが常だった。
「そうすか。今日は相田先輩のおごりっすか! こりゃぁいい!」
搾取だ。
山中のあまりにもお決まりの行動に、感慨すら深め、沼崎は片眉をあげた。
相手の意見や人格をも完全に無視し、自分の欲求を押し付ける。こういう輩は一度無理が通ると、永遠に相手をカモに搾取し続けるのだ。カモにされた人間にも、感情や事情があることなんか考えもしないで……。
遠い過去をぼんやりと思いだし、一度そらされた苛立ちが燻り始めた。
調子に乗って他の練習生にも声をかける山中の、無邪気なアホ面がいっそう神経を逆なでする。さっきの兄や白石の事といい、この男は本当に救いようのないくらい、人の想いというものや、プロボクシングのリングに立つという意味を知らなさすぎるらしい。
こういう奴は……一度でも痛みを知る必要があるだろう。いや、知るべきなのだ。
路地裏の風景。恐怖に泣きわめく善良な市民。嫌というほど見てきた理不尽な光景が脳裡をよぎる。幼いころから肌に刻み込まれた人間の、弱さと卑劣さが、じりじりと苛立ちに油を注ぐ。
やっぱり間違っている奴が笑い、正しいものがなく世の中なんか認められるわけ……。
「よし。場所は駅前の……」
山中が声をあげ、周囲が意地の悪い喜びに沸き立つ。『喰う』者のおこぼれに与らんとする『喰われる』ものたちのいじましい優越感に、吐き気がこみ上げた。
ふざけんな……。
沼崎は左拳を握りしめる。山中の肩を叩き、振り向いた瞬間に一発お見舞いする手順を浮かべていた。右手を、静かに伸ばす。今度こそ、と怒りの引き金に指を置く。
その引き金がまさに引かれようとした、その時だった。沼崎の手が軽くはじかれた。かと思うと、それまで聞いた事のないような怒号が耳を貫く。
「試合前の選手を誘うなって言ってんだ! プロなのに非常識だろう!」
相田だった。
その場にいたものは凍りつき、声の発信者を信じられない面持ちで見つめる。
沼崎もその例外ではなかった。本当に、今の声はこの男から出たのか? じっと耳まで赤くした男の顔を見つめる。
相田はぐっとへの字に唇を結び、自分の足元を睨みつけていた。体が小刻みに震えているのは、興奮と恐怖が入り混じっている証拠だろう。
面白い。
沼崎は思わず笑みを零していた。
相田という男。もしかしてただの『喰われる』ものじゃないのか? だとしても……だ。まだ判断するには早い。窮鼠猫を噛むといわれるように、土壇場で『喰われる』ものが噛みつく事は珍しい事ではないからだ。
そして、噛みつかれた『喰う』ものは、決まって……
「先輩だと思って立ててやってりゃ、なんだよ。万年C級が偉そうにぐだぐだ抜かすんじゃねぇよ!」
高くなっていた鼻を蹴飛ばされた事に腹を立てる。
山中は大勢の前で恥をかかされたと感じたのか、パフォーマンスじみたしぐさで相田につかみかかると、ぐっとその鼻先まで自分の顔を近づけた。
とたんに相田は『喰われる』ものの顔に戻り、目をそらす。
「そ、それは……」
「先輩風吹かせたいならなぁ、一勝でもあげてからにしろってんだ。正直、あんた、この名門ジムの面汚しなんだよ! プロ一号だか何だかしんねーけど、何年もC級どまりっつう事は、うだつの上がらねーお荷物ってことだろ? 会長にも申し訳ないと思わねぇのかよ。もう、いい加減、さっさと引退……」
「もう、そこら辺でいいでしょう?」
沼崎は、自分の腕の時計を気にしながら山中の肩に手を置いた。山中は思わず口をつぐみ、沼崎を振り返ってしまう。二人の目があった瞬間、だった。山中の瞳に、路地裏のやくざと同じ色が浮かび上がる。 山中の手から取り落とされる様に、相田が解放された。
満足して沼崎は頷くと、小さく息を吐く。怒気は不思議とすっかり吹き飛ばされてしまっていた。相田の一矢報いたあの一言がそうしたのか、山中のあまりのステレオっぷりに毒気を抜かれたのか、自分自身でも判然としなかったが、これ以上時間を無駄にする必要性も感じなかった。
山中が何か言いたげに口をポカンと開けて、自分の顔を見ている。それににっこり笑いかけてから、相田の方へと視線を向けた。
「相田さん、行きましょう」
「沼崎君」
山中から離れ、鞄を手に取る。そして相田の耳元で
「お願いします。これ以上ここにいたら……」
目を細めた。
「俺が騒動を起こしてしまいそうですから」
苦笑交じりにそういうと、先になってロッカールームを出た。背中で相田が小走りに追ってくる気配がする。きっと山中は自分たちが退室した後、他の獲物を見つけて、今の憂さを晴らしに本当にどこかに飲みに行くのだろうな。
的中するだろう山中の行動に、さっきまでいみじい優越感に浸っていた連中の慌てる様子を想像し、久しぶりに愉快な気分になる。
廊下に出ると、窓の向こうに、まだ秋の気配を知らない九月の夜気の下で輝く街の明かりが見えた。




