Round 35
同じジムの人間でも驚くの? どうやって練習していたのよ。この子は……。
おそらく、未だにこれと言った師事を誰にも仰がずにやっているのであろう、リング上の問題児を見て、多恵は苦笑した。
とはいえ、多恵自身は沼崎のこの構えを見るのは初めてではない。本来、沼崎はこのスタイルの方が得意な事を以前から知っていたのだ。
沼崎がアメリカへ留学していた時の事だ。彼は大学近くで柔道道場とボクシングジムに同時に通っていた。本場アメリカでは、基礎はもちろん、個別の能力に見合った形を追求して行く。比較的スタンダードなスタイルを大切にする日本に比べ、わりあい早い段階で力量や癖を見極め、長所を最大限に引きだすのだ。
数試合、沼崎がアメリカのアマチュアのリングに立っているビデオを見たこともあるが、何試合かはこのL字ディフェンスだった。
片腕を下げるL字ディフェンスはスタンダードな構えに比べ、かなりの反射神経と動体視力そして足腰の強さ、何よりセンスと勘を必要とする。が、諸条件をクリアしている沼崎にはむしろ、がっちり腕でガードしてしまうより、相手の動きを見極めやすいこの形の方が攻撃をかわしやすいのだろう。
また、スタンダードな構えに比べ、さらに半身近く体が横に向くため距離を作れるのもこのディフェンスの利点だ。
リーチと身長のある沼崎の射程圏は、ただでさえ尋常じゃない範囲を誇り、相手は懐に飛び込みにくい。L字の構えになるということは、それがさらに遠くなる事を意味する。つまり、フェザー級の身長160センチ代くらいの選手なら、腕を伸ばしても思いっきり飛び込みでもしない限り、届かないのだ。
まさに沼崎航の弟、ではなく、沼崎透也のボクシングスタイルだった。
もちろん、半分のガードが下がる分、ハードパンチャー相手にこの形は危険を呼ぶ。体が薄く、顔の作りも細い沼崎には、懐に飛び込まれれば命取りになりかねない。
云わば、諸刃の刃ともいえるのだが……。今回の場合、土井の戦績にはKO勝ちがない。きっと、それを踏まえ、沼崎はこの構えを選んだに違いなかった。
相手に合わせた戦法を組み立て即座に実践できる、器用な彼らしい選択だと、多恵は口元に微笑を浮かべた。こういう面は、実に兄弟そっくりだから余計におかしい。
ただ、このマッチメイク……。
多恵はセコンドで激を飛ばす御堂を見据えた。
もし、このL字を知っててこの試合を彼が組んだのだとしたら、御堂と言う男、なかなか食えない。
ボクシングのマッチメイクは、さほど公にはされていないが、ボクシング界内の政治力が物をいう。正直、実力だけではどうしようもない部分が無きにしも非ず。金も相当動く。むろん、彼の道の妨げになるものがあるなら、自分が何をおいても排除するつもりだが……。
もし、この試合が御堂の思惑、つまり沼崎のランカー入りだけではなく、目を覚まさせるために組まれたのだとしたら……沼崎は、かなり良い環境、理解者に恵まれたと言っていいだろう。
運? もしかしたらそれこそ沼崎航の導きなのかもしれない。
沼崎が相手の力量や距離、反射速度やフェイントの種類、癖などのデータを炙り出すように、拳や体を動かしてゆく。そのデータ収集に並行し、常人にはもはや目では捉えにくいほどの早いジャブが、土井の視界を貪欲に削っていた。
一見、沼崎ペースの立ち上がり。しかし、土井は慌てなかった。
沼崎の強さが半端じゃないのは事前に調べ上げていた事だ。噂の左より、むしろ右の使い方が異様に上手い事も、むろんリーチの長さも承知の上。でも……。
いくつかのフェイントの後、沼崎のジャブを拳で弾き、一気に懐に飛び込んだ。
結局、図体のでかい奴は、飛び込めばこっちのもんやろ。
瞬発力にも自信のある土井は、ガラ空きの沼崎の右わき腹にボディを打ち込む。
予想以上にがっちりした筋肉と強い足腰に手ごたえは半減するが、構わない。さらに肝臓を狙って打ち込む。
いける! と思った瞬間だった。背筋に悪寒が走った。
土井は考えるよりも先にヘッドスリップする。耳の傍を疾風が切り裂いていった。低い位置からの右アッパーだ。
どっと全身の毛穴から汗が噴き出る。もし、今のをバックステップでよけていたら、確実に入れられていた。
まぁ、予想と実際は迫力が違うよな。
土井は薄笑いを浮かべながら、沼崎のリズムを崩すようにさらに脇に数発当てて距離を取った。
試合を開始して1分が経っていた。
大方、前情報通り。スパーリングでの荒尾のコピーそのままの相手の動きに、沼崎は分析を終える。
土井は確かに、手堅い。右にも反応するほど勘も良い。ボディもきっちり決めてくる。スタミナもありそうだ。ポイントを取るのに長け、判定になればかなり勝率の高い選手だろう。
ただしそれは、最終ラウンドまで立っていられたら、の話だ。
―― 行くよ、兄さん
沼崎は自身の中に脈打つビートのテンポを上げて行く。衝動を抑え、流れを読み、その瞬間を図る。
ここは命のやり取りをする、神聖な場所だ。そこでまさに己の人生を賭け、命がけで勝利を求める男たちに出会った。皆、それぞれに抱え、それぞれにもがき、それぞれで戦っている。
今なら、わかる気がした。
どうして、沼崎航がボクシングに命を賭けたのか
どうして、自分がボクシングに命を賭けられるのか
―― 最強の兄弟に、なろう
命は永遠じゃない。
だから、もう死に場所は……哀しみのやり場なんかは、探さない。俺は、生きるんだ。兄さんの死も、皆の想いも全部抱えて、ただ、命ある限り!
沼崎はグラブの中で、拳をきゅっと握り締めると、魂の求めるままに体を翻した。
これが、俺の生き方だ!
死神の鎌が、復讐と言う枷から、今、解き放たれる。
左フック一閃。
土井が右ストレートで飛び込んできた瞬間の、カウンターだった。
拳が放たれたのは、土井の視界の完全に外。それは冷酷な死神の鎌となり、予想不可能なタイミングと角度で犠牲者の側頭部に突き刺さる。
脳に打ち込まれた衝撃に意識が刈り取られた。
土井の目が天を向く。
鎌が、無慈悲に迷いなく振り切られ、死神の足元に戦士の体がたたきつけられる。
そしてリングが大きな悲鳴をあげたのを最後に……世界は、沈黙した。
1ラウンド1分26秒の静寂。
レフリーが慌てて土井の前にしゃがみ込み、すぐに、両手を高く大きく振った。
会場中が、唸りを上げて轟く。試合終了の鐘が高らかに鳴り響いた。
セコンドの御堂と窪が駆け寄り、土井にはリングドクターが駆け寄る。レフリーが沼崎の腕を掲げる中、沼崎は一気に雪崩込んできたスタッフたちを横目に、首を巡らせた。
アナウンスが沼崎のKO勝利を謳いあげ、会場が興奮の坩堝と化す。構わず、眩いばかりの勝利の光の中から、沼崎は懸命に暗闇の会場にたった一人、唯一の存在を探した。
―― 多恵さん
しかし、さっきまでいたはずの席にその姿はない。焦り、様々な声を無視して彼女を探す。
「た……」
ようやく見つけ出したのは、彼女の去りゆく後姿だった。興奮に立ちあがり歓声を上げる観客をかきわけ、独り、何も言わず去っていく細い背中に揺れる髪。
彼女の名を叫ぼうと唇が震える。しかし、沼崎は息を飲むと、それをぐっと声ごと噛みしめた。
……これでいい。これでいいんだ。きっと、彼女には伝わっている。そして、これからも自分を見ていてくれるだろう。自分がリングに立ち続ける限りは。
アンタは俺の、世界一の、ファンなんだろ。
多恵は背中で沼崎の視線を受け止めながら、決して振り向くまいと心に決めていた。光の世界でようやく自分自身として生きて行く覚悟を決めた彼を、影の世界から支えるために。
沼崎は、まだ、階段を一段、上がったに過ぎない。この先には、日本フェザー級チャンプになった白石譲がまだ待っている。これはまだ、道の途中なのだ。
沼崎もゆっくり多恵に背を向け、光を仰いだ。
皆の声が聞こえる。
沼崎はそれに振り返ると、彼らに応えるように控え目に、しかし、勝者らしく腕を上げた。ひときわ大きくなる歓声。沼崎はグラブを胸の前で合わせる。
そして、全ての言葉を飲みこみ、ありったけの感謝をこめて、静かに深々と頭を下げたのだった。
最終話は11/10 22時に更新します




